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07
最初に感じたのは、頬に当てられた手のひらの熱い温度だった。
さっきまで、冷たい雨に打たれていた気がする。冷えた頬を温めるその熱が心地よくて、何故だかじんわりと涙が滲んだ。
「吉野さん、聞こえますか。吉野さん」
「…………」
ぽんぽんと頬を、叩くというより触られる感覚で目を開けた。仄暗い室内。瞬きをして、目じりにたまった涙が流れてしまうと、視界が澄んで自分を覗き込むように見下ろす二人の人影が見えた。
「お、気ぃ付いたな」
「吉野さん、大丈夫ですか」
口々に言う二人に向けて問いかけようと息を吸い込んだとたん、カサカサの喉がこすれて激しく咳き込んだ。
「……っげほ、はあ、っみ、水、げほ、……」
「そら、あんだけ泣いて喚いとったら、喉も乾きますやろうな」
そんな言葉とともに、背中をさすられる。いつの間に取りに行っていたのか、桂木が水の入ったコップを俺に差し出していた。それを一気にごくごくと飲み干す。ひりついた喉が冷えて気持ちがいい。
風邪でも引いたかのようにひどく荒れたそこへ、もう一杯水を流し込むと、ようやく人心地つくことができた。
「あの、俺は一体、どうなって……。というか、ここは……?」
「ここはお寺です。そしてこちらが、このお寺の和尚をしている田中籐連さん」
「初めまして。籐連と申します」
寺? 和尚? 混乱している俺の目の前で、“和尚さん”と言われたその男はにっこり笑う。
30代後半くらいだろうか? お坊さんとは言っていたが禿頭ではなく、短く切りそろえた黒髪もあいまって、なかなか凛々しい男前だ。顔だけ見ればどこぞの営業マンのような爽やかさだが、身に着けているのは袈裟という、不思議なアンバランスさだった。
未だ現状がつかめない状態ではあるが、ひとまず自分もぺこりとお辞儀をする。
「ええと、吉野と言います。なんだかその、状況がよくわからないんですが、ご迷惑をおかけしたみたいで……」
「いえいえそんな、気にせんでください」
そう言う籐連の口調はどこか人を安心させるような柔らかさだった。よく笑う目元には笑い皺がついている。喋り方もあいまって、迫力すら感じるキリッとした見た目を程よく中和してくれていた。
俺は、最初に感じた緊張がゆっくりほぐれていくのを感じた。
「吉野さん、今日の事どこまで覚えていますか? 俺と一緒に和宿市の不法投棄場へ行ったことは?」
桂木が、俺の様子をいたわるように、静かに問いかける。
「ええ、覚えてます。車で向かって、途中コンビニに寄って、投棄場へ着いて……」
言いながら、朝からの記憶をなぞってみる。車で不法投棄場へ行くまでははっきりと覚えている、その先も覚えていると言えば覚えているが、果たしてあれがすべて現実だったのかどうかは怪しい。
俺はじっとこちらを窺っている桂木に向けて、戸惑いもそのままに告げた。
「その後のことも、全部覚えていると、思います。……不法投棄場で急に体の自由が、きかなくなって。桂木さんが車で俺を運んでくれて、このお寺へ来たのもぼんやりと覚えています。籐連さんの声がしました」
「そうでしたか。その後は?」
「……なんて、言ったらいいか」
寺に来た後の記憶は、明らかに現実ではない不可思議な情景だ。それをどう伝えればいいか、とっさに言葉に詰まってしまう。そんな俺を見て、ふふ、と籐連が笑った。
「言いづらいんなら言わんくて平気ですよ。なにせその間、こっちは吉野さんに憑いたもんを祓うための御祈祷しとったんですからなぁ」
「ごきとう……、えっ、御祈祷?」
「……順を追って説明しますね」
素っ頓狂な声で傍らのお坊さんを二度見した俺に向かって、桂木が落ち着いた声で経緯を話す。
「不法投棄場へ着いたあたりで吉野さんの様子がおかしくなって、そこで初めて俺は、吉野さんに何か憑いていることに気が付きました。見たところ、俺にどうこうできる範囲のものではないと判断したので、こちらへ連れてきた次第です。籐連さんは俺の知り合いのお寺の和尚で、”お祓い”に関してはプロの方です」
「どうも、プロです」
に、と白い歯を見せて笑うその見た目も態度も、和尚さんという像とはかけ離れている。思わず桂木に視線を向けると、分かっていますと言いたげに頷いた。
「籐連さんは気さくな方ですが、支援班の業務にも関わっているちゃんとした人です。支援班の業務、というより、支援班が調べた事件の事後処理の方ですが」
「……それって」
確か、支援班が”怪異との関連アリ”と判じた事件は、どこからともなく派遣されてきた、宗教関係者やその道のプロの手によって、適切な対応をされる、のだった。
つまり、協力先は少し違うが、籐連というこのお坊さんも、桂木と同じ、警察の非公式な外部協力者という訳だ。
「そうだったんですか……」
「ふふ、だから、吉野さんの事も知っとりますよ」
凛々しい目をふっくら細めて籐連は言い、ぽんと膝を打って立ち上がった。
「さて、こないな固い床の上で話し続けるのも辛いでしょう。続きは、ゆっくりくつろげる場所で……。一巳くん、吉野さん顔がびがびやから、洗面台まで案内したって。俺はお茶でも入れてくる」
言われてとっさに両手で顔に触れた。……乾いた涙や、よだれや、鼻水がこびりついている。
「うわ、」
「あ、擦ったら赤くなりますよ。洗面台こっちです」
慌ててこすり落とそうとして、冷静に桂木に止められる。俺は静かに、情けない顔を両手で覆ったまま、その後に続いた。
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冷たい水で顔を洗い、何とか見られる顔になった俺は、桂木に案内されて籐連の待つ小さな和室に通された。
客間だろうか、畳敷きの部屋の奥には、品のいい和室といった感じで花瓶と掛け軸が飾られてある。何のためにあるかわからない小さな襖や飾り棚は、昔、祖父母の家で見た古い和室そっくりだ。
部屋の中央には飴色の座卓があり、座布団とお茶が人数分用意されている。俺と桂木は、籐連に促されるまま、そのふんわりした座布団に腰を下した。
「さ、体も冷えたやろ。まぁ、お茶でもどうぞ」
「……いただきます」
言われるままにお茶をすすって、初めて体の冷えを自覚する。熱いお茶が胃の腑を温め、全身の緊張がふっと緩んだ。ほう、と無意識にため息をつく。隣に座った桂木も、手のひらを温めるように湯呑を持ち、ふうと息を吐いていた。
「……さて、いろいろ説明せんとあかんのやけども、ね」
急須から各々の湯呑に茶を注ぎ足しながら、籐連はおもむろに話し出す。
「まずは吉野さんの中に居った女の人かな。無事に離れてくれました。行くべきところまでお見送りさしてもろたから、もう心配あらへんよ」
思わず顔を上げると、優しい表情をした籐連と目が合う。うん、と頷いてくれた。安堵を噛みしめるように目を閉じる。
(よかった、……本当に、よかった)
自分には、籐連の言う“行くべきところ”が何なのか、果たして彼女がどうなったのか、わからない。だけど、最後は穏やかな表情を見せた彼女が、これ以上苦しむことがないのなら、本当に良かった、と思った。
「……吉野さんは、その女性を見たんですか」
俺のその様子を見て、桂木が問う。
「ええ、」
頷いて、少し躊躇った後に正直に話した。
「お寺にやってきて、籐連さんと少し話をしたあたりから、周囲の景色が見えなくなって。真っ暗な空間に、俺と、もう一人……女の人がいました。黒いワンピースに、肩ぐらいの髪で、赤いチェックの傘を持った……」
「うん、俺がお話した女の人も、そんな恰好やった」
籐連が手の中の湯呑を見下ろし、しみじみと呟く。
「とっても酷い目にあって、悲しくて悲しくて仕方のうて、こんな姿になってしもたけど、ほんまにええ子やった。説得も、本当なら御祈祷も必要ないくらい、お話したら素直に吉野さんを離してくれたんよ」
「……それなんですけど」
桂木が、かたんと茶托を鳴らして湯呑を置く。
「俺が不法投棄場で見た時は、とてもじゃないがそうは見えなくて、吉野さんにしがみついて離れようとしなかったんです」
「……そら変やなぁ」
籐連は急に笑みを引っ込めて、真剣な面持ちになる。
「俺が見た時は、そもそも憑いたことすら驚きなくらい、素直で弱々しゅう見えたけど」
「ええ……俺も見ていましたから、それも確かにそうなんです。山から寺へ移動する間も、次第に落ち着いていったように見え……」
そこで桂木は不自然に黙り込んだ。俺も籐連も、そんな桂木に視線を集める。
「? なんや気になる事でも、」
「……あの場所に、哲生がいるのかもしれません」
「……哲生が?」
唐突な桂木の言葉に、籐連の顔から今度はすっ、と表情が消えた。
「籐連さんにもお話したと思いますが、哲生のいる場所では怪異が起こす事件が頻発するんです。元からそこにいた怪異がおかしな行動をとったり、活発になったり。女性の霊がその影響を受けていたとしたら、説明はつきます」
それを聞いて、籐連は前のめりだった体を脱力させ、大きなため息をつく。
「哲生の遺体が、そうか……そうかぁ」
籐連はそう感慨深げに呟いている。当然のように哲生の事を話題にした桂木と、それに対応する籐連の反応を見て、俺はそっと、籐連に尋ねた。
「籐連さんは、哲生さんをご存知なのですか?」
籐連が、おや、とすこし虚を突かれた顔を見せる。だがすぐに、穏やかに笑って言った。
「ああ……まだ言ってへんかったね。哲生は俺の親戚。俺の姉貴が嫁いだ寺に、哲生が預けられてきたんやね。まぁ、家は離れとったが、当時から兄替わりみたいなもんやったなぁ。あいつが大学に進学して、こっちに一人暮らしを始めてからは、いろいろと面倒見とった」
ふい、と視線を逸らして籐連は座卓に肘を突く。遠い過去を懐かしむような目が部屋の隅に注がれている。
「ふわふわと浮世離れしとったあいつが、いきなり一巳くん連れてきた時には、ふふ、魂消たな」
一巳くん、と名前を呼ぶ口調は親しみが籠っている。弟の恋人、しかも男である桂木をこんな風に親しみを込めて呼べるなら、きっと籐連は哲生のことも本当の弟のように可愛がっていたんだろう。
「その後、一巳君が支援班に協力する立場になったんも知っとるよ。さっきも説明あったけど、俺の寺は爺ちゃんの代からずっとそちらさんと縁があってな。今は親父が引退して俺が継いどるけど」
「……その話はまた今度にしてください」
ため息交じりに桂木がたしなめると、籐連は小さく肩をすくめる。
「話を戻します。その場所はもともと、哲生を捜索する目的で向かった場所です。これで、あそこに哲生がいる確率は高まったでしょう。それはいいんです、それより、ほかにも気になることがあって」
「気になる事?」
籐連に尋ねられると、桂木はちら、と俺を見る。
「吉野さんはどこで女性の霊に憑かれたんでしょう。俺は、不法投棄場についてから、吉野さんが何かに憑かれていることに気が付きました。しかし、道中で吉野さんが何かに憑かれているとは感じ取れなかったですし……」
「ああ、それ。そんならあの人は、もっと前から吉野さんに憑いとったよ」
桂木の言葉を断ち切るように籐連が断言するが、桂木は「でも、」と納得が行かない様子で言葉を続ける。
「前からというなら、俺が……そもそも本人が気付かないのは、少し不自然です。何らかの不調が出てもおかしくないですし……」
そう言って、桂木は俺に視線を寄越すが、俺はその視線から逃げるように目線を逸らしてしまった。なぜなら、
(……ずっと前から見てたあの悪夢、あれはあの女性の記憶と同じだった。ってことは、その頃から俺は、あの人に憑かれてた、ってことになる)
その事実を桂木に伝えなかったのは、悪夢はPTSDの症状だと医者に診断されたからだ。そう判断された原因は、芹沢が俺に暴行を働いたことにある。この事実は、何が何でも桂木に隠し通さねばならない。
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