96 / 120

08

  「……吉野さん?」  だが、こんなに不自然な沈黙の後に、何もありませんでしたと言っても説得力は皆無だ。  結局俺は、暴行のシーンだけを抜き取って、自分の体験を話して聞かせた。夢を見たこと、そしてあの女性が体験した過去の記憶を見たこと。その二つがまったく同じ内容だったこと。……アドリブで取り繕ったにしては頑張ったと思う。 「……そういう訳で、あの夢は、あの女性が殺される間際の光景だった、と。つい先ほど、自分の目で見てようやく気づいたんです」  半分ほど話し終えたあたりから、桂木の表情がだんだんと険しくなっていったのはわかっていた。おそらく、前髪の下では眉をひそめているだろう。  話を締めくくると、桂木はさっそくとばかりに、淡々とした口調で俺を質問攻めにしはじめた。 「自分の見ていた悪夢は、その女性が憑いていたせいで起きたのではないかと。そういう事ですね?」 「……はい」 「それは一体、いつから?」 「3週間くらい前から……」 「その間毎晩?」 「……はい」 「さすがにおかしいとは思わなかったんですか? どうして言ってくれなかったんです」  桂木が座卓に片手をついて、詰問するようにずい、と顔を寄せる。ここ最近の俺なら盛大に照れるような距離だった筈だが、圧が強くてそれどころではない。その距離と同じだけ、俺はホールドアップのポーズのまま後ろにのけぞる。 「そぉー、れは。その、おかしいなとは思いましたけど、ただの悪夢でしたし、それ以外に何もなかったので、まさか霊が憑いているとは……」 「3週間、毎晩続く同じ夢ですよ、普通じゃないです。吉野さん、そろそろ怪異に対して相応の警戒を持ってもらわないと、」 「……はい、面目ないです」  夢をPTSDと思い込んでいる時点で、俺が桂木に相談することはまず有り得なかった。これはどうしようもない。  反省すべきは、医者の言葉を鵜呑みにしてしまったことだ。事実、俺は首を絞められるという行為に違和感を覚えていた。そこをもっと気にするべきだった。 (……今覚えば、ぼーっとしたり怠かったりしたのも、そのせいだったのかもしれない。失敗したなぁ)  しゅん、と頭を垂れる俺に、見かねた籐連が苦笑交じりに助け舟を出してくれる。 「一巳くーん、そう怒らんと。一巳くんだって気付けなかったんは一緒なんやから」  とたん、桂木はふっと口を噤む。そっと顔を見上げれば、その表情はまだ少し不服そうだ。  桂木の機嫌をなだめるように、籐連はのんびりと言う。 「一巳くんや吉野さんが気づかんかったのも仕方ないんよ。彼女、本当なら人に憑くことすら無いような淡い霊やったもの。吉野さんの体質の事もあるやろうけど、よっぽど強く共鳴できるなんかがあったんやろね。もしくは吉野さんがよっぽど弱ってたとか」 「……」  籐連はなんの他意もなく言ったようだが、俺はその言葉に、一瞬ぴくりと肩を揺らしてしまった。  幸い、動揺したことは目の前の桂木に悟られなかったようで、桂木は桂木で、ああ……と狼狽したような声を上げている。 「……確かに……。ああ、すみません。責めるようなことを言ってしまい」  申し訳なさそうに告げて、桂木はずずいと詰め寄っていた体を引き、頭を下げた。 「吉野さんは退院して間もなくて、体調も万全ではなかった。むしろ、俺がいながら……気づけなくて、申し訳ない」 「いやそんな、謝らないでください! 俺も確かに危機感が足りなさ過ぎたと思いますし、こっちこそ本当にすみません……!」  俺は慌てて自らも頭を下げた。そして伏せて隠れた顔の下で、誰にも知られずじんわりと顔を歪める。  ”よっぽど強く共鳴できる何か”。それがなんであるか、俺がとっさに連想したものを桂木は知らない。そして、知られてはいけない、絶対に。 「ふふ。二人ともお育ちがええねえ。謝罪合戦もほどほどにな」  籐連のやんわりした言葉に、俺はハッとしてぺこぺこ下げていた頭を戻す。 「ああ、すみません。また話が脱線してしまいました……」 「気にせんで、面白いもん見れて俺は楽しいから。んで、吉野さんはいつどこで彼女に遭うたのか、検討つくん?」 「面白……。いや、はい。そうですね……」  籐連の言葉に突っ込むのは諦め、俺は少しの間、じっくりと記憶をなぞる。  あの真っ暗な空間で、はっきりと彼女の姿を見た今なら、思い出すことができる。俺は以前に、彼女を見ている。  それは桂木と浦賀に、鬼にまつわる二つの話を聞かせてもらった、あの日の帰り道だ。雨が降る交差点で、俺は不自然に立ち止まるワンピースの女性を見かけた。あの背格好、そして古びた赤い傘。間違いなく彼女だ。 「今日、はっきりと彼女の姿を見た今だから思い出せるんですが……」  そう前置きをして、自分があの女性を見た、雨の日の交差点での出来事を語る。桂木は、鬼の話を出した時点で、思い出したように「ああ、あの日ですか」と頷いていた。 「……夢をいつから見始めたのか、はっきりとしたことはわかりませんが、その女性見かけた日あたりから夢を見るようになったと思います」 「黒塚に葵上かぁ……」  話を聞いた籐連が、うーんと腕を組んで唸る。 「その話を聞いたことも、吉野さんに憑いた原因の一つかもしれへんね。今も結構詳しゅう話してくれたけど、鬼の話、そのぐらいはっきり印象に残ってるんやろ?」  確かに、籐連の指摘の通りだった。今でもその二つの話のあらすじは覚えている。確か、帰り道の最中も悶々と(恥ずかしながら、その話を自分の境遇と重ね合わせて)、考えながら歩いていたのだった。 「そんなら可能性はあるな。黒塚は、情けをかけてあげたのに男に裏切られた女の話。葵上は男恋しさに恋敵に嫉妬して呪い殺す話。どれもちょっと関連あるやんな」  彼女はその男性を愛していた。そして、男性も自分のことを愛してくれていると信じていた。だけどそれは裏切られ、彼女は殺されてしまった。 「ただでさえ憑きやすい、居心地のいい人間が、たまたま自分の身の上に重なるようなこと考えてて、挙句”可哀想になあ”と悲しくなっているわけや。こら、自分もこの優しい人に同情してもらえるんやないかと思って、ふらふら憑いていくこともあるんとちゃう」 「……確かに、可哀想だなとか、そんなことを考えてはいました」  実際のところ、どうして彼女が俺を選んだのかはわからない。弱っていたからか、それとも自分と似た境遇の人間に同情していたからか、それとも、己と同じ経験を持っていたからか。そんな複雑な思いを抱える俺を尻目に、籐連は軽い口調で言う。 「ま、どうして取り憑かれたのかはさほど重要やない。それより、彼女と遭うた場所が特定できたんがでかい。な、吉野さん」 「え?」  突然話を振られて、俺は首を傾げる。どうしてこの流れで俺に話が来るのかわからない。籐連は俺のそんな反応を楽しむように、にっこり笑って話を続ける。 「吉野さん、彼女の最後の記憶、見たんやろ? ほかになんか手掛かりはあらへん? 吉野さんの言う交差点は、繁華街の近くにない? そのあたりで失踪人は居らん? 20代後半くらいの女性で、失踪時、黒いワンピースを着て、赤い傘を持った……そないな人を探し出すのは難しいか?」 「……あ!」  ようやく、籐連が何を言いたいのかわかった。そうか、彼女の見た最後の光景をもとに、彼女の身元を特定すれば、もしかしたら犯人を捕まえられるかもしれない。 「……年月日が不明なのが、少し、キツいですね」  俺の横で冷静に、桂木が呟く。 「深御市の例の交差点付近が生活圏内にある失踪者、とするとかなり絞られるとは思いますが、それでも何十年も前の失踪人も含めるとなると……」 「年月日、日付……待ってください、何か」  記憶の中に何か引っかかるものがあった。目をつぶって、自分が見た光景を必死に思い出す。たった一回だったけれど、それでも脳裏に焼き付いた、強烈な記憶。 「……雑誌、車の中に雑誌があったんです。有名な週刊誌で、政治家の汚職が表紙にデカデカ書かれていました。あの汚職が発覚したのは……一昨年だったと思います。これ、絞り込めませんか」 「お、ナイスや吉野さん。それなら事件のあった日以降の犯行に絞られる」  ぽん、と嬉しそうに籐連は両手を合わせる。桂木も俺に向かって、しっかりと頷いた。 「あとで、浦賀さんにも手伝ってもらって探しましょう。一昨年起きた事件ならまだ解決の見込みがあります」 「……はい!」  彼女を死に追いやった事件を、解決できるかもしれない。そんな希望を持った俺は、勢い込んで返事をした。  今もまだ、彼女の感じた恐怖と、悲しみが胸をじくじくと蝕んでいる。当分忘れられないだろう、あの悪意に満ちた笑い、そして彼女の心を踏みにじる言葉。  こんな事をしておいて、罪から逃れ、のうのうと生きているだなんて、許されていい筈がない。 (……絶対捕まえる)  それは警察官としての俺の義務だ。あんなふうに理不尽な暴力に晒される人がいちゃいけない。  なんなら今からでも、浦賀に調査を頼むことはできないだろうか。そう考えたところで、はた、と気が付く。 「あ、支援室に連絡……。そういえばもう昼過ぎじゃないですか、浦賀さん心配してるかも、」 「それなら大丈夫です。先ほど俺から連絡しておきましたから。車の返却は後でいいから、まっすぐ帰って休めとの前原さんからの指示です」 「えっ?」  今の「え?」は、今日はもう帰るの? の「え?」だ。  まだ外は日が高い。俺の体は籐連の御祈祷のおかげなのか、喉が少し痛むくらいでなんの不調もない。当然、俺はもう一度不法投棄場へ向かうつもりでいた。  だから、力強くこう言ったのだが。 「俺はもう大丈夫ですし、まだ時間もありますから、午後からもう一度投棄場へ向かいませんか?」  とたん、桂木の鼻のあたりにきゅっと皺が寄る。どうやらまた、前髪の下で眉をひそめているようだ。そして今度は、机の向い側からも険しい気配を感じた。  見れば、絶えず笑みを浮かべていた籐連までもがきゅっと眉間にしわを寄せている。 「吉野さん、それは無茶いうもんやね。霊が憑くいうんは体力も精神もごっそりもってかれる。そんな状態でまた幽霊調査なんて言語道断や」 「でも、俺かえって今のほうが体調がいいというか……」 「そうだとしても、心身は相当疲弊しています」  切って捨てるような口調で桂木が言う。 「ともかく、今日はもう捜査は切り上げです」 「ですが……」  俺は中途半端に言いかけて、口を噤む。  心配してくれるのはありがたい。でも、 (哲生さんのことは、いいのか? すぐにでも見つけ出したいんじゃないのか)  そう尋ねたかったが、口に出す勇気はなかった。たとえ桂木が本心ではそう思っていたとしても、それを俺が言うのは憚られた。言ったら、桂木の気遣いを台無しにしてしまう。  俺は口を閉ざして言葉を飲み込み、頭を下げた。 「……すみません」 「うん。命大事にな、それがないとなんも、できひんのやから」  よほど消沈しているように見えたのか、座卓の向こうから籐連が身を乗り出し、ぽんぽんと大きな手の平で、慰めるように肩を叩いた。  --------------------------

ともだちにシェアしよう!