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09
それから、俺は籐連に礼を言い、桂木の運転する車でまっすぐ帰宅することになった。
「またいつでも遊びに来てな。それとこれ、持っていき」
車の近くまで見送りに出てくれた籐連は、そう言っておもむろに手のひらを差し出した。大きな手の平に乗っていたのは、少しいびつな形をした、小さなお守り袋だった。明らかに既製品のお守りとは違う。もしかして手作りだろうか。
「これ持っとったら、少しは虫よけになるやろ。破けたり、無くしたりしたらまたおいで」
「……本当に、何から何まで、ありがとうございます」
俺はその布の袋をそっと受け取ると、改めて深く頭を下げた。頭上からあっはは、と明るい笑い声が降ってくる。
「そんなん、こちらこそ、や。……顔あげて、吉野さん」
「……?」
いわれるがままに顔を上げると、これまでの柔らかく、ほっこりした笑顔とは違う、どこか儚い微笑みを浮かべた籐連がそこに居た。
「……吉野さんのおかげで助かってるのはこっちなんやで。一巳くんの傍にきてくれて、ほんまにありがとう」
「え……」
「あ、一巳くんは名前呼びなのに、相棒の片方だけ苗字呼びゆうのも……忠幸 くんでええ?」
「えっ、それはもちろん、……はい」
これまでの切なげな表情を引っ込め、「忠幸くん、また来てなぁ」と言ってのんきに笑う。呆気にとられたもつかの間、俺は先ほどの籐連の言葉にぎゅっと唇を噛みしめる。
”一巳くんのそばに来てくれて、ありがとう”。そんな風に言われるほどのことを、俺はできていない。でも、少しでもその言葉に見合う存在になれたら、いい。俺はもう一度小さくお辞儀を返して、桂木の待つ車へと小走りで向かった。
急いで助手席に乗り込むと、桂木が窓の向こうの籐連に小さく頭を下げて、ゆっくりとアクセルを踏む。ひらひら手を振る籐連の姿が遠ざかり、車は寺の敷地から外へと出た。
先ほど二人にはああ言ったものの、体が車の心地よい振動を感じたとたん、じんわりとした疲労を全身に感じた。
シートに体を預け、首を傾けて窓の外へ視線を向ける。2月にしては暖かだった日差しも、冬の日暮れに急かされて弱まってきている。そんな、オレンジ色がかった外を眺め、ついうとうととしかけた時だった。
「……今日はすみませんでした、本当に」
小さな声だったが、それは車内に響く走行音にかき消されることなく、まっすぐに俺の耳に届いた。
「吉野さんの不調に気付けなかったうえに、あなたを責めてしまいました」
見れば桂木は、まっすぐ前に目線を向けたままそう呟いている。表情は重なった前髪にさえぎられて伺い知ることはできない。
「それは、さっきも籐連さんが言ってましたけど、気づくのが難しかったから仕方なかったって、」
「ですが、」
かぶせるように素早く否定したかと思うと、桂木はわずかに視線を伏せる。
「道中、少し様子のおかしかった吉野さんに気が付けていれば、投棄場にたどり着く前に対処できたかもしれない」
「そ……れは……」
どきりとして、思わず言葉に詰まった。
道中と言われて思い出すのは、とても口に出すことのできない俺の頭の中のあれやこれやだ。その大半がしっちゃかめっちゃかな内容だったが、はっきり覚えているのは、桂木が自分を見てくれないことへの悲しみと、嫉妬だ。
冷静になった今思い返せば、悶絶したいほどに恥ずかしい。
確かに、あの感情は俺の中にあるものだとは思う。だけどあの時ほど激しく感情が荒れ狂ったことはない。いつもなら嫉妬なんて言葉を思い浮かべることすら、恥ずかしくて、おこがましくて、俺にはできない。
もちろん、哲生を憎む気持など俺にはないし、桂木を独占したいなど思ったこともない。
(だって、哲生さんあっての今の桂木さんなんだから、俺がどうこう言う問題じゃない)
そして、ハッとする。もしやとは思うが、あの時俺が考えていたことが、桂木に気取られていた、なんて事は、まさか。
「途中までは何でもないふうに会話していたのに、急に静かになったり、ぼうっとしていたり。もう少しあなたの様子を気にかけていれば良かった」
「…………」
息を呑んでその先の言葉を待っていたが、桂木はそれ以上言葉を続ける気はないらしい。
(ばれてない、か? ばれていたらもっと、気まずそうというか、なんというか……いたたまれない感じになるもんな)
桂木は人より感情の起伏が少ないように思えるが、戸惑いや恥じらいが無いわけではない。表情が隠れているため読み取りづらいが、少なくともあの時の俺の思考がばれている様子はないようだ。
ほっと息をついた俺の耳に、ややかすれた声が届く。
「……俺は、もうあなたに酷いことをしたくない」
その声は特別大きくもないのに、なぜか鋭く胸に突き刺さった。
「……酷いことなんて、桂木さんからされたことないですよ」
「……」
今度は桂木が黙る番だった。頑なに結ばれた口元が、誰がなんと言おうと自分はそうする、という強い意志を感じさせた。
きっと桂木は、芹沢が逮捕されたときに俺に対してした仕打ちのことを言っている。桂木自身、自分が暴走気味だったことは自覚しているようだったし、そのことについて彼から謝罪もされた。だけどまだ、桂木はその時のことを悔いているのだろう。
(そんなことを、もう気にしなくてもいいのに、)
車窓が、いつの間にか茜色に染まり始めている。冬の夜は訪れが早い。それでも、赤みを帯びた太陽はほんのりとした熱を車内に届けてくれる。
「……喉は大丈夫ですか?」
「あ、ええ。ちょっとかすれるくらいで、平気です」
唐突な気遣いの言葉は不器用だったが、俺を心配してくれているのだとわかって嬉しかった。だけど、次に発せられた桂木の言葉に、俺はまた恥ずかしさに悶絶する羽目になる。
「かなり長い間、泣いたり叫んだりしていたので……。喉が乾いたならコンビニ寄りますから、言ってください」
「……あっ」
ちらり、と気づかわし気な目線を一瞬こちらに向けた桂木を見て、瞬間、自分が桂木に対して晒していた醜態を思い出した。
泣いて叫んで鼻水まで垂らして、挙句それを桂木に拭いてもらったような気がする。それに、「どうして」だの「なんで」だの、さんざん喚き散らしていた。
あれは俺の中にいた彼女が喋った言葉だったけれど、その彼女の心境を考えると、俺的には結構きわどい。
俺は赤くなっているだろう顔を片手で覆い、桂木の視線から隠れるようにうずくまる。
「わ、忘れてください。あれ、俺じゃ無いですから。全部違うので、俺じゃないので!!」
必死に言いつのる俺に、桂木は「わかっています」となだめるように言いながら頷く。
「あの時の吉野さんは、他の誰かに憑依されている状態でした。あれが吉野さん自身の言動ではないことは承知しています」
「うう……」
そうは言われても。俺は道中桂木の服の裾を掴みっぱなしだったことや、女性らしい口調で桂木にしな垂れかかったことなどを思い出して呻く。そんな俺に、桂木がやんわりと声をかけた。
「俺なら気にしませんし、あと、籐連さんも、お祓いであんな状態の人には慣れてますから。気にすることはありませんよ」
籐連はその道のプロだし、まだましだ。それよりも桂木にあの醜態を見られたのが堪える。
「むしろ吉野さんの状態はまだましでしたよ、御祈祷中暴れたり、吐いたりしませんでしたし」
「……本当に? そこまでじゃなくても、御祈祷の間、何かやらかしませんでしたか?」
そういえば、”御祈祷しとった”と籐連からは聞いたものの、俺にその部分の記憶はない。時間軸的には、俺が彼女の過去の記憶を見ている最中だろうか。恐る恐る聞いた俺に、桂木は少し首を傾ける。
「その部分の記憶はないんですか?」
「はい。籐連さんに最初、話しかけられたところまでは覚えてますが、その後は女性の姿を見たり……。気づいたら、桂木さんと籐連さんに見下ろされて目が覚めるところでした」
「なるほど……。いえ、心配ないです。御祈祷中もおとなしく座っていただけですから」
「……そうですか」
これ以上この二人に迷惑をかけなくて良かった、と安堵しつつ、俺は手指の間からちらりと桂木に視線を向ける。
「……ほんとに、忘れてくださいね」
「はい、全部忘れました」
桂木はそれに、ただ淡々と答えた。桂木がこういう性格でよかったと本当に思う。
俺はどうにか平静を取り戻し、体を起こして座席に座り直す。いつの間にか俺たちの乗る車は、今日の朝、不法投棄場へ向かうために通ったのと同じ幹線道路を走っていた。
籐連の寺がどこにあるのか、そういえば把握していなかったが、不法投棄場のある和宿市から深御市までの道を通るのならば、和宿市からそう遠くない場所に位置していたのだろう。
朝に通り過ぎた景色が逆回しに車の外を通り過ぎていく。それをぼんやり眺めながら思った。今朝の俺が抱えていた、持て余すほどの嫉妬と悲しみ。あれがあんなに膨れ上がってしまったのは、俺に憑いた女性の霊が、投棄場に近づくにつれて強く濃くなっていったからだろう。
きっと彼女の抱いていた感情が俺に流れ込んできたのだ。
実のところ俺も、途中から何となくそれに気が付いていた。これは俺の感情ではない、違う誰かの想いだ、と。
だけど同時に、彼女の感情に引きずられ、大きく育った想いの種は紛れもなく自分のものだ。それは小さいけれども確かに、黒々と、俺の胸に穿たれている。
(……やめよう。考えたって仕方ない)
穏やかな車外の景色を眺めていると、いつまでもそのことを考えてしまいそうだった。
俺はぎゅっと一度目をつぶって余計な考えを頭から追い出す。そんなことよりも大事なのは、延期になった不法投棄場の調査だ。
俺は背もたれから身を起こし、運転する桂木に体を向ける。
「明日、また今日と同じ時間に迎えに行きます。今度こそちゃんと調査しましょう」
言うと、桂木は何か答えようと口を開いて、一度逡巡するように唇を閉じる。
「……無理は、」
「俺は大丈夫です。それに、あそこに哲生さんが”いる”なら、これ以上そのままにはしておけないです」
案じる言葉に対して食い気味にそう返した。ここは絶対に譲る気はない。
明日、桂木はたとえ俺がいなくてもあの不法投棄場へ向かうだろう。桂木がこれ以上、哲生を放っておけるはずがない。もしあの場に哲生の遺体があったら、それを桂木が見つけたら。桂木は遺体を抱き続けて何時間も動かないかもしれない。そしてまた、最愛の人の遺体を手放し、誰もいない自宅へ帰るのだ。
多分、前原か浦賀が桂木についていくだろう。でも、俺はその役目を、誰にも譲りたくないと思っている。彼を見守る役目が必要なら、それは俺が果たしたい。少しでも彼に近づけるように。
「絶対、行きますから」
桂木の心配を押し切るように、力強い声で言い切った。
まっすぐに見据えた視線の先で、しばらく無言を貫いた桂木が小さく頷いた。
「……ありがとう、ございます」
その前だけを見据えた横顔に、俺は小さく笑みを向けた。
明日の確約をもぎ取って気が抜けたのか、その後俺は助手席ですっかり居眠りをし、気が付いたら車は自宅のアパート前に到着していた。恐縮する俺に桂木は、いつの間に買ったのかスティック状ののど飴を俺に持たせると、車を返却するために警察署の方向へと車で走り去った。
送る側と送られる側、いつもとは逆の視点に立ち、俺はどこか不思議な気持ちで、見慣れた車のナンバープレートを見送る。
しばらくそうして車の去った方向を眺めた後、俺は手の中ののど飴をそっとポケットに入れ、すっかり冷たくなった外の空気から逃れるようにアパートへ戻った。
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