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一日経てば、喉の痛みはすっかり良くなっていた。桂木にもらったのど飴もきっとひと役買ったのだろう。一晩、ぐっすりと休んだおかげで、体の疲れも取れている。
俺はテキパキと身支度をし、玄関を出る前に、よし、と気合を入れる。昨日の失敗を取り戻すべく、今日こそは絶対に捜査を進めさせなければ。そう自分に言い聞かせ、俺はアパートの自室を出て、車を取りに一度本部へと向かった。
結局昨日は、車の返却を桂木に任せることになってしまった。
いつも使用している仕事用の車は、本部の駐車場から借り、使用後は返却することになっている。本部から俺の家はそう遠くはないから、車を返したあとは徒歩で事足りるが、桂木の事務所はそこまで近くない。
徒歩で帰ったのだろうか、それともタクシーか。タクシーを使ったならば後で領収書をもらっておかなければ、経費で落ちる。
そんなことを考えながら車に乗り込み、もうすっかりおなじみになってしまったルートで桂木の事務所へ向かう。
寒いから冬は室内で待っていて大丈夫だと言っているのに、桂木は顔の周りに白い吐息をまとわせて、通りに一人立っていた。
しばらく前から気が付いていたのだろう、徐行しながら近づく間、桂木はじっとこちらを見つめていた。路肩に車を止めれば、桂木が外の冷たい空気と共に助手席に乗り込んでくる。
開口一番、
「体調は? どこか具合の悪いところはありませんか」
と聞かれて思わず少し笑った。
「平気です。ぐっすり休みましたし、のど飴のおかげで喉もばっちりです」
「……なら、よいのですが」
まだ何か言いたそうなのをこらえるような、歯切れの悪い返事を残し、桂木は座席に腰を落ち着ける。心配し過ぎじゃないだろうか? と少し思いつつも、桂木がシートベルトを着けるのを待って俺は車を発進させた。
車は昨日と同じ道を辿り、和宿市へと向かって行く。
道すがら、桂木が昨日は徒歩で帰ったということを聞いたり、コンビニに寄って昼食と飲み物を買い入れたりしたが、気分が妙に落ち込んだり、高揚したりすることはなかった。昨日は負の感情の暴走が尋常ではなかったが、思い返せばその前は妙に浮ついた気分だったと思い出す。あれも、彼女が憑いていたせいで、情緒不安定だったのが原因かもしれない。
(むしろ俺的にはそう思いたい……。仕事中に浮かれてデート妄想とか、自分がそんなお花畑な奴だったとは思いたくない、ホントに)
ともあれ何事もなく、俺達を乗せた車は和宿市へと到着し、『和宿の森散策コース」の案内に従って山道へと入っていく。一度通った道だ、よそ見をせずまっすぐ進めば、すぐに鎖で封鎖された道の奥へとたどり着いた。
鎖を外し、車を中に入れた後、また封鎖する。一連の作業が終わって再び車を走らせれば、目的地はすぐそこだ。
草木の緑を浸食するように、朽ちた金属が紛れ込みはじめ、それはあっという間に大小の山となって眼前に広がった。
その山の手前で、車を停車させる。
「あ、桂木さん、手袋」
「ああ、ありがとうございます」
車内で手袋や靴などの装備を整え、外に出た。車の暖房に温められた頬に、ちくりと刺すような冷たい空気が触れる。
冬の冷えた空気は、どこか金属的な尖った香りがする。だけどここに満ちている空気には、それだけでない雑多な……鉄さびだけでなく、ゴム、油、腐った何か……そう言った退廃的な臭気が入り混じっていた。
車から離れ、ごみの山へ近づこうと足を踏み出した瞬間、突如手首を掴んで引き留められた。
驚いて振り返れば、桂木が無言で俺の腕を掴んでいる。そのまま桂木は腕を引き、まるで俺を背中にかくまうように前に出た。唐突ともいえる行動に俺は戸惑いを投げかける。
「ど、どうしました?」
「俺が先に行きます。吉野さんは俺の後をついてきてください」
こちらを振り向きもせずそう言うと、桂木はさっさと歩き出してしまう。まるで有無を言わせない行動に、俺は思わずといった声をあげた。
「ちょ、ちょっと待って、勝手に進まないで! 何があるかわからないんですから、」
そう言われると、桂木は歩き出した時と同じく唐突にぴたっと足を止める。
何やら言動のおかしい桂木の元へ、小走りで追いつけば、「……すみません」という言葉が返ってきた。
これまでの経験からして、桂木が何かを感じ取った故のとっさの行動かとも思った。だがその返事に、俺は違和感を覚える。
返ってきたその声は当惑しているような、驚いたことに、不貞腐れているような雰囲気さえ感じ取れた。まるで自分の失態を指摘された事に気まずさを感じているような、そんな声だったのだ。
桂木がそんな返事をしたということが意外で、とっさに顔を上げる。と同時に、強い風が吹き付けてお互いの髪がぶわりと舞い上がった。
露わになった桂木の顔には、困惑の表情が浮かんでいた。その困惑の原因を俺の中に見出そうとするかのように、桂木はじっとこちらを見つめる。その視線の強さに、思わず息を飲んだ。
「……俺は、自分の意思で、吉野さんを危険な捜査に付き合わせています」
「はい?」
何の脈絡もなく喋り出した桂木に、思わず問い返す。が、戸惑っている俺など眼中に無いかのように、桂木は言葉を止めない。
「それは、分かっているつもりです。自分でも腹を括りました。そうした筈なんです。それでも、あなたに申し訳ない気持ちが消えない」
桂木は額に手をあて、目を伏せるように顔を俯ける。
「昨日も、そしてあなたが芹沢に拉致された時も、もっと以前、あなたが水神の事件に関わった時も。俺が早くに気が付いていればと、ここ最近よく考えます。もう終わった事を悩んでいても仕方がないとはわかっているのですが、気が付けばふと、そんなことを考えてしまうのです」
そう、苦々しい声で桂木は言葉を落としていく。
「あなたを必要以上に危険な目には合わせたくない。俺がその元凶だというのに」
自分の言っている言葉が矛盾をはらんでいることをよくわかっているのだろう。だからこその困惑と嫌悪が滲んだ声だった。
「……そう、ですか」
自分でもそっけない返事を返してしまったと悔いる気持ちはある。けれど、桂木のこの懊悩を聞かされて、俺はどう答えれば良かったのだろうか。
その答えをぐるぐると悩んでいる間に、桂木は少し落ち着いたのか、少しだけ眉の間の強張りを解いて短く息を吐く。
そして、言葉を一つずつ選ぶようにゆっくりと告げた。
「俺は、吉野さんを守る機会が欲しいのです」
「は、……」
またも答えに窮する俺の目の前で、桂木は自嘲するように目線を横へ逸らす。
「俺はずるいんでしょう。きっと、俺が吉野さんを守ることができれば、自分のせいで吉野さんを危険な目に合わせていることへの贖罪になると思っている」
「ちょっ……と待ってください。どうしてそうなるんですか」
桂木が自分を責める気持ちも分からないではない。だが、そうではない、そうする必要はないのだ。俺は慌てて桂木に言いつのる。
「俺も、全部そういうのを承知で桂木さんに協力しているんです。桂木さんが悪く思う必要はない。……お互い好きなようにするって、そう取り決めたじゃないですか」
「……ええ、そうですね。そう、何度自分に言い聞かせても、あなたに申し訳ないと思ってしまうんです。だから、………………困っています」
桂木は逡巡した末、最後にぽつり、とそう言った。
(つまり、桂木さんは、事件解決のために俺に協力はして欲しいけど、危険な思いはさせたくなくて、仕方ないと割り切ろうと思っても割り切れず、毎回罪悪感を抱いてしまって、困っていると……?)
俺はまじまじと、目の前の桂木を見つめる。その表情はまさに、「困っている」様子がありありと伝わってくるもので、場の緊張感にも関わらず、俺は小さく吹き出してしまった。
桂木が、急に笑った俺を訝しげに見てくるのを感じたが気に留めない。別に、桂木を軽んじたり、馬鹿にした訳ではないのだ。むしろ、その逆だった。
(いい人だなぁ、この人は)
そんな風に、割り切ろうとしても割り切れないでいてくれることが、俺には心底ありがたかった。それでこんなに悩ませてしまうのは申し訳ないが、それでも、嬉しい。
「……吉野さん?」
「いえ、すみません。……そうですね」
胸のあたりに灯ったぬくもりをほっこりと感じつつ、桂木の視線を受けて、俺は笑いを引っ込めて桂木に向き合う。
桂木の正直な言葉には、俺も正直に返したいと思った。俺は考えつつ、口を開く。
「……守る機会、と言いますけど。つまり桂木さんは俺を守ってくれようとしているんですよね? 桂木さんがそう言ってくれるのはありがたいんですが、俺も桂木さんを危険な目には合わせたくないんです。だから、この話はずっと平行線な気がするというか」
苦笑いを浮かべてしまうのは、以前にもこういう会話をしたことがあるな、と思い出したからだ。結局お互い、一方的に守られるのは性に合わないのだろう。
だったら、どちらか一方が、ではなく、お互いに相手を守り合うのが一番いいような気がする。
俺は桂木の後ろに下がるように、一歩身を引いた。
「桂木さんは危険を考えて、自分が先頭に立とうとしてくれたんですよね。考えたんですけど、今日は桂木さんが先頭を歩くのはどうでしょう。多分、いるとしたら生身の人間ではなく、怪異でしょうし。それなら桂木さんのほうが、対応が手慣れてますから。そんで、俺は俺で、後ろを警戒します」
「……ということは、相手が生身の人間なら、吉野さんが前に出ると?」
まだどこか渋い表情のまま、桂木が問う。そこは迷わず頷いた。
「はい。そこで出張らなかったら警察官として俺がいる意味がなくなりますし。……まあ、桂木さんも元警察官だし、腕っぷしは強いんでしょうが」
はは、と笑う俺を桂木は無言で眺める。
桂木が何を思って、この話を俺にしたのかはわからない。今の俺の答えを桂木は、どう受け止めるのだろうか。
桂木の瞳は揺れることなく、じっと俺を見つめ続けている。俺も身じろぎせず桂木の返答を待っていると、やがて彼は静かに頷いた。
「わかりました」
一言だけそう告げて、桂木は俺の横をすり抜け、一足先にごみの山へ向けて歩き出す。
少し予想はしていたが、そっけない返事だった。まぁ、相手は桂木だし、と納得する。
桂木はそもそも事細かに自分の心境を伝えるタイプではない。だから桂木が今日、こういうことを俺に話すのはとても意外だと思った。俺を信用してくれている証拠なのだとしたら、それは嬉しい。
歩き出す桂木の後ろについて行きながら、俺は目を眇めてその後ろ姿を見つめた。
(……本当に、いい人だなぁ)
一見、冷静で感情に乏しいように思えるが、その奥底の本当の桂木は、繊細で脆いところもあって、少し不器用なほどまっすぐで、優しい人間だ。
こんなに優しい人が好きだった相手は、どんな人だったんだろう。桂木を、こんなにも夢中にさせて、狂わせる人は。
「吉野さん、」
「……っあ、どうしました?」
桂木が唐突に声をかけてきた。一瞬、じっと背中を見つめていたのがばれたかと思ってびくっとする。
桂木は体を少し後ろに引いて俺を振り返る。前髪の隙間から、真っ黒な瞳が俺を捉える。
次の瞬間、俺は息をするのを忘れた。
「吉野さんがいてくれて、よかった」
凝視していた桂木の唇が、わずかに弧を描いていた。見間違いではない。
桂木は笑って言った。
「あなたが無事でよかった、芹沢の時も、昨日も」
「……あ、」
それはどういたしまして。そう笑って言うはずだった言葉が出てこなかった。
不自然に思われる前に、なんでもいいから言葉を返さなくては。そう思うのに、喉が勝手に震えて、意味のある言葉は出てきそうになかった。
ぐちゃぐちゃだ、と思った。桂木の一言が綺麗に取り繕っていたものをすべて、叩き壊していった。俺の中身はすべて、ぐちゃぐちゃになってしまった。
(なんなんだよ、)
さっきまで考えていた事が、とんだままごとのように思えてくる。嫉妬なんておこがましいなどと、どの口が言えたのか。
俺は、俺の今の頭の中は、よろこびで一杯だった。桂木にそう認めてもらえた事、それが身に染みるほど嬉しい。だが、心が打ち震える要因はそれだけじゃないだろう、と頭の中で冷静なもう一人の俺が囁く。
”この瞬間、桂木は哲生の捜索よりも俺を優先している”。気づいたとたん、鳥肌と一緒に全身を歓喜が駆け巡った。それは脳を一瞬で幸福に染め上げ、そして胃の腑を強烈な吐き気で満たした。
(なんでなんだよ。どうして。俺は嬉しい……のか?)
嬉しくて、でもそれがひどく苦しい。自分はこんなことを思う人間じゃない、と否定したかった。己がひどく醜い存在になったような気がした。
見ないでくれ、ともう少ししたら叫び出していたかもしれない。それをせずに済んだのは、ごみの山の向こうに現れた”それ”のせいだった。
ざわ、と何かが肌に触れるような気配を感じる。それは桂木も同じだったようで、俺に向けられていた視線はあっけなく取り上げられた。
俺と桂木の進行方向にそれはいた。
ごみとごみの狭間に立ち、こちらをじっ、と見つめているのは、古びたブルゾンとズボン姿の中年の女性だった。
一目見て、印象に残りづらい見た目をしていると感じた。どこもかしこも、輪郭がぼやけているかのように、のっぺりと特徴のない見た目をしている。まとっている服も色彩を欠いていて、まるで存在そのものが煙か何かのようだ。
その女性は、笑いともとれるような微妙な表情で、すっ、と右腕を持ち上げる。まっすぐに伸びたその腕が指し示す先に、鈍い銀色をした冷蔵庫が置いてあった。
(あ……)
見た瞬間からわかった。あそこに、ある。
雰囲気、存在感というものに質量があるなら、それは間違いなく触腕のように俺たちに絡みつき、こちらへおいでと誘っていた。
桂木の体がゆら、と揺れる。そのままふらふらと、幽鬼のようにその冷蔵庫に向かって歩き出す。俺も足を踏み出してそれに続くが、まるで水の中を進んでいるように足が重い。
その冷蔵庫は一般的な家庭用冷蔵庫よりもやや小ぶりで、上下に二つ扉があるタイプのものだった。上が大きい扉だから冷蔵室、下は冷凍室なのだろう。錆びや汚れが目立つ以外、変わったところなど何もない、ごく普通の冷蔵庫に見える。
気が付けば、冷蔵庫のすぐ横にいたはずの女性は、俺達から少し離れた場所で、例の笑っているのかそうでないのかわからない曖昧な表情でこちらを見ていた。
桂木は夢遊病者のような不確かな足取りで冷蔵庫のもとへたどり着く。俺は無意識のうちに、桂木の行動のすべてを見届けられるよう冷蔵庫の少し手前で立ち止まっていた。
桂木が冷蔵庫の扉に手をかける。張り付いていたゴムが剥がれる粘着質な音と共に、鈍色の扉が開かれる。唐突に、スクリーンで映画を見ているかのような感覚に襲われた。それまで近くにいたはずなのに、目の前の桂木が絶対に手の届かない遠くの光景のように感じる。
そして、彼の唇が小さく震えた。
(ああ、)
それを認めた時から、俺の中の熱が急激に冷めていくのを感じた。
桂木は細く長いため息を吐く。俺の位置からは、桂木の横顔は見えても冷蔵庫の中は見えない。だが、桂木が震える手を冷蔵庫の庫内に差し入れるのを見て、何が入っているかはもう察しがついた。
頭上の太陽は薄曇りの空に隠されて光が届かない。触れれば切れるような冷たい風が俺達の間を通り抜け、桂木と俺の前髪をまたかき乱した。
舞い上がった髪の下で、恍惚とした目が爛々と輝いていた。
「哲生」
呟いて桂木は、冷蔵庫に頭ごと、そして体ごと、腕を差し入れる。とっさにその肩を引いて止めようとしたのは、まるでそのまま桂木が飲み込まれてしまいそうに感じたからだろうか。
後から思えば滑稽だが、その時は桂木の魔的な表情を見た後で、そんなこともあるような気さえしていた。果たして、桂木は何かを両腕に抱えた状態で、そっと冷蔵庫の中から身を引いた。
両腕でひしと抱きしめているそれは、精肉工場で吊るされている半身の肉塊のようにも見えた。
桂木の腕に埋もれるようにしてあるもの、それは、肩と腿と首から先を失った、人の胴体だった。
俺は、それが人の死体であることも忘れて、ほんの一瞬、見入ってしまった。
以前に見つけた哲生の遺体と同じ、明らかに異常な死体。腐敗の様子などかけらも見せず、まるで今しがたまで生きていたようなみずみずしい肌をしている。そしてそれは、ひどく妖しい魅力を放っているのだった。
白くすべすべすべとして、柔らかな曲線を描いている躯幹。四肢の絶たれた断面からは、粘膜を思わせる艶々した肉が覗いている。腕の中でくったりとしなる白い肉は、力強い桂木の両腕に抱えられ、かえってそのなまめかしさを際立たせている。
人としての形状を失った肉の塊に縋り付く男の光景は倒錯的で、それだけで世界が完結しているような美しささえあった。
先ほど自分が感じた歓喜は、もう体のどこにも無かった。幸福がこぼれそうなほど自分を満たしていたのはほんの数秒で、今はただからからと、虚しさだけがそこにある。
「……哲生」
それでも、がらんどうだと思っていた胸は、桂木の声にじくりと痛む。桂木の声が温かく名前を呼ぶほど、表情が穏やかであればあるほど、桂木が哀れでたまらなくなる。
探し求めてきた恋人が、かりそめとはいえ、自分のもとに戻ってくる。桂木はその一瞬をどれほど待ちわびていただろう。長くは続かないその一瞬を。
「…………」
そして、その一瞬にどれほどの安らぎと、幸福を覚えるのだろう。
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