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哲生の失われた首と肩の間に額をこすりつけ、祈るように遺体を抱きすくめる。そんな桂木を見つめ、俺は数歩後退ると、ポケットに入れていたスマホを取り出した。
いつもより遠いように感じるスピーカーから浦賀の声が聞こえてきて、俺は哲生の遺体を見つけたことを報告した。
浦賀を通し、前原からの指示を受け取ると、通話を切る。未だ哲生の体と共に蹲る桂木の元へ歩み寄り、そっと声をかけた。
「桂木さん。ここは冷えますから、車に戻りましょう」
「…………」
「きっと、哲生さんも寒いでしょうから、さあほら」
驚かせないようにゆっくりと肩に手を回し、抱えるようにして立ち上がらせる。桂木は抵抗せず、促されれば立ち上がるし、自分で歩きもする。だけど、意識はずっと腕の中へと向けられて、俺の言葉に反応はない。
それで良いのだ。この後のことを思えば、できる限り彼らの時間を邪魔したくない。頭のどこかで、馬鹿にしたような笑い声がした気がした。
(わかってるよ)
自分の中にいる自分に言い聞かせる。
(わかってる)
矛盾だらけで、自分でも何が何やらわからない。でも今の自分は確かに、桂木と哲生をもう少し二人きりにしてあげたいと思っている。そう思うなら、俺はきっと、そうするべきなのだ。
ふと思い出して、俺は桂木を抱えたまま周囲を見渡す。先ほど見た時と同じ場所に、あの女性は立っていた。
「…………」
目が合う。やはり曖昧な笑みを浮かべた彼女は、俺に向かって小さく頭を下げた。つられて俺も会釈を返す。視界がぶれたその一瞬の間に、俺はその女性を見失った。驚いてまたあたりを見渡せば、先ほどよりもずっと奥まった木々の間に彼女は立っていた。もちろん、人がその一瞬の間に移動できるはずはない。
ふと、彼女が肘から先を持ち上げ、小さくこちらに手を振った。ばいばい、とでも言うように。
それは多分、先ほど目礼を交わした俺ではなく、別の誰かに向けた挨拶だったのだと思う。俺は無言で、桂木の腕の中に収まった現実離れした遺体に目をやる。そしてそのまま、振り返ることなく彼らを支えて歩き出した。
腕の中のものに見入っている桂木を後部座席に乗せ、車に載せてあったブランケットを引っ張り出してそのショッキングな光景を覆い隠す。そして急いで運転席へ戻ると、慌しく車を発進させた。
助手席に置いていた、今日の昼食にと買ったサンドイッチがころりと倒れる。それを横目に、今日はこれを食べる暇もないだろうな、と他人事に思った。
向かった先は、以前にも来たことがある大学病院だ。高い塀をぐるりとまわって、その切れ目から車を侵入させると、人気のない裏口へと到着する。
車を止め、前原へ連絡を入れると、両開きの扉を押し開けて、裏口から前原が出てきた。
「前原さん、お疲れ様です」
「そっちこそ、お疲れさんだったな」
運転席から出て前原と顔を合わせる。前原は白い息を吐きながら、俺の肩をねぎらうようにポンと叩くと、車の後部座席に視線を投げた。とたん、痛ましいものを見るような表情に変わる。
「吉野、今日はお前も一緒に来い。先生に付き添ってやるんだ」
「えっ……俺も入っていいんですか」
前回は権限が無いからと病院内へは入らせてもらえなかった。いつ、どのような権限が俺に付与されたのは知らないが、今回は待ちぼうけを喰らわないで済むらしい。
「ああ。だから、先生を連れてついてこい。中で監察医の先生が待ってる」
その言葉に頷いて、俺は後部座席の扉へ向かった。桂木の肩に手を添え、一言声をかけてから車外へと連れ出す。そして桂木を支えるようにしながら、裏口の前で待つ前原の方へと向かった。
裏口の向こう側は、のっぺりした廊下と壁が広がる、薄暗い廊下だった。ぎい、と音を立てて扉が閉まれば、窓のないその通路はさらに一段階暗さを深める。その暗闇の中に、緑色の術衣を来た人影が佇んでいた。
「ああ、わざわざ出てきてもらってすみません。こちらがうちの新人の吉野です」
前原が紹介するのに合わせて、俺はその医者と思しき初老の男性に頭を下げる。
「初めまして、吉野です」
「監察医の高橋です」
医者は軽く礼を返すと、俺の腕に支えられている桂木と、その桂木の腕を覆い隠すようにかけられたブランケットを見る。
「……今度は胴体という話でしたね」
そう言って力ないため息を吐いた。
前原が桂木に歩み寄り、彼の腕に手を添える。俯いた顔を覗き込むように言った。
「……桂木さん。さあ、ご遺体をこちらに」
それは諭すような優しい響きだったが、桂木は動かない。黙って抵抗するように俯いている。
「なあ、渡しちゃくれないか。櫛橋さんも、早く体がそろったほうが嬉しい。早く返してやろう、な?」
前原がさらにそう声をかけ、そろり、と桂木の腕の中のものをブランケット越しに触れる。徐々に桂木の腕からそれを取り上げるが、桂木は抵抗しなかった。ただじっと、俯いていた。
布にくるまれたそれが完全に前原の手に渡ると、待ち構えていたように監察医がそれを受け取る。桂木は、哲生のいなくなってしまった腕の中を見つめ、呆然としている。そんな彼を監察医は憐みの目で一瞥し、くるりと踵を返した。
突然、顔を上げた桂木が、廊下の奥へ歩き去ろうとする監察医を追いかけようと立ち上がる。じっと成り行きを見守っていた俺は、すぐにその気配を察知して桂木の腕を掴んだ。桂木は、がくん、とその場に立ち止まる。
一瞬慌てた前原は、俺が桂木を止めたのを見て、ほっとした様子で頷いた。
「あとは医者の先生に任せよう。吉野、先生を送ってやってくれ」
「了解です。じゃあ車で……っ」
頷いて答えた俺の腕を、驚くほどの強さで掴まれた。びくっとしてその腕を見下ろせば、青白くこわばった桂木の手が俺の腕を掴んでいる。
「……一人で、……見送りは、不要です」
弱々しく、かすれた声だったが、間違いなく桂木は己の意思をそう主張した。
「あんた……」
驚き唖然とした声は前原のものだった。おそらく前原は、この状態の桂木がこんな風に話すのを初めて見たのではないだろうか。前原は驚きから困惑へと表情を変え、頼りない声で唸る。
「しかし、だな。こんな状態じゃああんた……」
前原の言いたいことはわかる。いくら本人の意思でも、この状態の桂木を一人にしておくのには不安がある。それには俺も全面同意だ。
(だって、前回は事務所にたどり着くまでに足元だって覚束なかったんだぞ。階段から落ちて頭でも打ったらどうするんだ)
それに、と俺は思う。
前回の桂木の行動を思い返して、人知れずざわついた胸を押さえた。
俺に、縋り付いてきた桂木。我を失い、目の前にたまたま居ただけの俺に、助けを求めてしがみついてきた。
桂木を一人にしたら、桂木は誰に縋るのだろうか。他の、適当な誰かに? それともたった一人であの飢えにも似た衝動を凌ぐのか? どちらも、考えただけで腹の底が不快感にざわめいた。
前原は迷っているようだった。桂木を一人にするのは危ないが、こんなにもはっきりと彼が主張するのも珍しい。戸惑っている前原と返答しない俺の様子を見て取ると、桂木はふらふらと病院の裏口へ一人で向かおうとする。その歩調はまるで泥酔しているかのような千鳥足だ。慌てて駆け寄ったが間に合わず、桂木の脚が入口近くにあった観葉植物の鉢を蹴倒した。
「危なっ……!」
桂木に追いついてその両肩を掴んで支える。ごろごろ……と存外軽い音で転がって行った鉢は、ありがたいことにプラスチックのイミテーションだったようだ。
「やっぱり、危ないです。とりあえず、事務所までは送らせてください」
たまらず、植木鉢を起こす前原と桂木の両方に向けてそう告げた。桂木は俺の目の前で、立ったまま項垂れている。桂木よりも背の小さい前原が近づいてきて、その項垂れた頭を見上げた。
「先生、何があったかわからんが、こんなに辛そうなのに放っておく訳にはいかないんだよ。頼むから送って行かせてくれや」
桂木は何も言わない。ただその首をのろのろと、縦に振った。それを確認した俺は、前原に向かって軽く頷く。行ってこい、という合図とともに、俺は桂木を連れて病院の裏口から外へ出た。
完全な喪心状態ではないとわかったものの、桂木の動きは重く、鈍い。その体を支えて再び後部座席に座らせると、心持ち粗いハンドル捌きで病院を後にした。
見慣れた道を走りながら、そして後部座席の桂木を意識しないようにしながら、俺はぐるぐると考える。いつもなら呆然として意味のある会話などできないはずの、”遺体を見つけた後の桂木”が、ここまではっきりと自分の意思を主張したのはなぜなのだろうか。そうまでして、一人で帰ると言った桂木の真意は何なのか。
「…………」
俺には心当たりが、あった。
桂木は、正確には”俺の見送り”を拒絶しようとしたのではないか。脳裏に、桂木の部屋で過ごした夜の光景がよぎる。
桂木は……あれをなんと形容すればいいのかわからないが、俺に触れてきた。人肌が恋しかったのかもしれない。桂木はまるで失った哲生のぬくもりを求めるように、あるいは忘れようと必死になるように、俺に縋り付いてきた。
あれが一時的な錯乱によるものだという事はわかっている。あの後、部屋に残された桂木のメモはとても冷静だったし、己のしたことを詫びてもいた。だから俺も、忘れようと思っていた。
(そもそも、そのすぐ後に芹沢に拉致られたから、あれが何だったのか整理する暇がなかったというか)
たとえ桂木に「あれは何だったのか」と聞く気があっても、あの後立て続けに起きた事件でそれどころじゃなかっただろう。
ともかく、二人の間には、”あの夜は何もなかった”とする暗黙の了解があったのは確かだ。
そして桂木は、また”ああなる”事を恐れて、俺の見送りを断ろうとしたのではないか。
そこまで考えて、俺はステアリングの柔らかな表面に、無意識のうちに爪を立てる。またもや、胃の奥を不快な何かが撫で上げる。
桂木に初めて触れられたとき、俺は桂木への気持ちを自覚していなかった。
伸びてきた桂木の手に、性的な含みが合ったのかは定かではない。それでも肌を探られ、唇をむさぼられたあれが純粋な行為だったとは思わない。それでも拒絶しなかったのは、桂木が心底苦しそうで、辛そうで、寂しそうだったからだ。それを慰められるなら、触れられるくらい構わないと思った。同情に近いものだったと思う。
でも今の俺は、どうだろうか。
(もしまた同じ状況になったら?)
そう考えるだけで背筋を何かが走り抜け、ぷつぷつと肌が粟立つ。
そして、もし俺がいなくて、彼が別の人間を求めるようなことがあったら? そう考えると、途端に腹のそこから熱い何かが湧き上がり、粟立った肌を内側から焦がした。
(俺は、)
答えを出すためには病院から事務所への道のりは短すぎた。
あっという間に繁華街の路地裏へ、車は滑り込んでしまう。朝一に車で出かけて、現地にいた時間はほんの30分程度だったから、まだ外は日が高い。そのはずなのに、曇った空はまるで灯りを消した室内のように薄暗かった。
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