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12※
駐車場へ車を止め、ミラーで後部座席を窺う。桂木は車が止まったことにすら気付かないのか、微動だにしない。
車を降りて後部座席の扉を開ける。項垂れて座席にもたれる桂木に呼びかけ、肩に触れて揺さぶると、ようやく桂木は顔を起こした。
前髪がまばらに束になり、滑り落ちる隙間から桂木のよどんだ瞳が見え隠れする。その目が俺を捉えていることに気づき、肩に添える手が一瞬強張った。
桂木は弱々しく首を振る。
「いい、です。大丈夫」
そして肩にのった俺の手から逃れるように、自ら車外へ足を踏み出した。
だがその歩みは相変わらず頼りない。俺は一瞬逡巡したが、目の前でふらついた桂木の背中にとっさに手を伸ばした。
重心の傾いた体を支えるように、両手で肩を受け止める。分厚いダウンジャケットに包まれた背中が強張るのがわかった。その反応に多少なりとも傷ついて、やはり手を離そうかと迷ったが、俺はぎゅっと目を瞑って迷いを振り切った。
「危なっかしいです、やっぱり送っていきます、せめて部屋に、戻るまで」
声が喉に張り付いたようにうまく話せない、だけど平静を装ってうそぶいた。
桂木の足取りが危なっかしいから、途中で転んで怪我でもしたら大変だから、そんな風に頭の中で繰り返し唱える。
また拒まれたら、と思ったが、桂木が俺の手を振りほどく様子はない。桂木が、一体今何を考えているのわからない。俺を遠ざけたいのか、それとも……。
俺はからからになった喉で唾を飲み込み、抗わない桂木を支えて歩き出した。
たった数分の距離がやたら長く感じる。
階段を上り、鍵を拝借して事務所の扉を開くと、室内は昼間だというのに薄墨を溶いたような暗さだ。閉じたブラインドから辛うじて届いた光が家具類の輪郭を浮かび上がらせている。
一歩その中に足を踏み入れると、心臓の鼓動がなお一層早まるのがわかった。
部屋まで送る、そう言った。”部屋”ってどこまでだよ、と心の中で突っ込む。とにかく、桂木を室内に入れなければ。
桂木に室内に入るよう促すつもりで振り返った。そこで、こちらを見つめている桂木と目が合った。
乱された前髪は珍しく、何をせずとも彼の両目をあらわにしていた。ぽっかり空いた虚ろの奥、喪失の痛みに苛まれ、飢える桂木の心がそこから覗き込めるようだった。
昏い穴のようなそれから俺は目が離せない。そして静かに息を呑んだ。こく、と上下する喉は桂木の目にどう映ったのだろうか。脳が痺れたように、深く考えられない。俺は震える唇を引き結び、平坦な声で、
「……”部屋まで”、送りますから」
と告げた。
桂木がどんな表情をするのか確かめるのが怖い。桂木の目から逃れるように顔を俯かせ、ぎこちなく腕を差し出す。
のっぺりとした床を見下ろす視界の隅に、桂木の履いたブーツのつま先が見えた。
「…………っ」
差し出した指先に冷たい手が触れる。そっと顔を上げれば、真っ暗闇の瞳がそばでこちらを見ていた。
彼も俺も、何も言わない。俺は指先の震えを押し殺し、先ほどと同じように彼の肩を支えて歩き出した。
事務所の奥の階段を、桂木の手を引いて上る。その先にある居住スペースの扉を開き、狭い給湯室を抜けると、以前見た時と変わらないそっけない空間が広がっていた。
ブラインドを通して、青みがかった光が部屋を染めている。桂木が靴を脱ぐのを手伝ってやり、彼をダイニングチェアまで引っ張って行って、そこに座らせた。
「……大丈夫ですか。気分は悪くないですか」
その声にも桂木は反応しない。ふっつりと黙り込んだまま項垂れている。その様子を見て、今更ながらじわじわと心配が湧き上がってきた。
自分の事ばかり考えてしまっていたが、今心身ともに一番ショックを受けているのは桂木だ。手だって凍えそうなほど冷たかったし、とにかく今は部屋を温めて、桂木を休ませなければならない。
「ちょっと待ってください、すぐ部屋を温めますから」
慌てて部屋を見渡すと、壁に備え付けてあるエアコンが目に入る。それ以外の暖房器具はなさそうだ。部屋を大股に横切り、そちらへ駆け寄る。伸ばした手が壁に掛けてあるリモコンを掴み取る前に、いきなり背後から伸びてきた腕にその手を取られた。
「…………!」
ぴり、と電気が走ったように感じた。恐ろしくひんやりした手。何かを言うより先に腕を引かれ、くるりと体を反転するように桂木の腕の中に収まった。
(手も、体も冷たいな。寒いだろうに)
他人事のようにそう思いながら、抵抗せず桂木に抱きすくめられる。桂木の額が俺の肩口に埋まり、切ない吐息が否応なしに耳を掠めた。
これは自分のためではない。自分の汚い感情を満たすためじゃない。桂木が心配だからだ。
我ながら最低な言い訳だと思ったが、麻痺したように動けなくなった自分の体を動かすためには必要なことだった。
行かないで、と言う声に、どこにも行きませんよ、と答えて、強張った背中を撫でてやるためには、必要だった。
(……可哀想、に)
桂木の腕が体温を求めるように、前を開けていた俺のダウンの下に滑り込んでくる。そのまま脇腹を撫でられ、背中を掻き抱かれる。背骨が軋みそうな力に耐えて、大丈夫だと背中を撫で続けた。
桂木は立派な大人だが、まるで子供をあやしているようだと感じた。俺に子供をあやした経験はないが、その拙い動きでも桂木は必死に求めて縋り付く。
そのまま、飢えを凌ぐように首筋を食まれ、感電したように動けなくなった。求められているという感覚に涙が出そうになる。
「行かないで、ください」
一瞬、それは、俺を通して見た哲生にではなく、俺自身に向かって投げかけられた言葉のように感じた。しかし、考える間もなく傍らのベッドに押し倒されて、そんな小さな疑問はあっという間に霧散する。
「桂木さっ、……」
のしかかられて、頭上から押さえつけるように唇をむさぼられる。その濡れた感覚に呼び起されて、きつく閉じた瞼の裏に一瞬オレンジの光が散った。
古びた畳の匂いが鼻を掠める。オレンジ色の光に照らされた天井、動かない腕、口をこじ開けるナイフの刃と、粘膜を蹂躙する芹沢の舌。俺の意思に関係なく。きゅっ、と喉奥が収縮して、痙攣するように舌が硬く痺れた。
「ぐっ、ぅ……!?」
藻掻くようにしてはっと目を開けば、そこは深海のように静かな、青い光に満ちた室内だ。
背中の下にあるのは畳ではないし、両手は自由に動かせる。安堵から大きく息をつけば、整髪料のような香りと皮脂の匂いが交じり合った、桂木の匂いが脳を埋め尽くした。
一瞬、堪らなく泣きそうになった。
ああ、大丈夫だ。ここはあの場所ではないし、触れているのはあいつではない。緩んだ唇を割って、舌がさらに奥へと侵入してきても、そこはもう強張ることなく、柔らかに桂木の舌を受け入れた。
桂木は浅く深く、口内の体温を探り尽くすと、はあ、とため息を残して唇を離す。ようやく解放された口でせわしなく息をしていると、一度離れていった桂木の手が、ダウンを羽織った襟元に伸びてきた。
その意図を察して、俺はとっさに自分からダウンを脱いだ。前回は力任せに脱がされて、シャツのボタンが千切れてしまった。またそんな風に服を駄目にされたら事だ、そう思っての行動だったが、その合理的な判断が俺の煮えた頭に理性を呼び戻してしまった。
ダウンを脱ぎ、シャツの裾を捲りあげたところで、はたと気づく。
(……自分から服を脱ぐなんて、こういう事を期待してたみたいじゃないか)
その事実に気が付いて、俺の手がピタリと止まる。じわじわと顔に朱が上りはじめるのを感じた。
しかも、何が恥ずかしいって、それが誤解でなく図星だということだ。いくら桂木のためだとか言い訳をしても、自分が桂木を好きで、あわよくばと触れて欲しがっているのは事実だ。
哲生の代わりでもいいと、そう思った自分の浅ましさまでが桂木に露呈してしまうようで、俺は羞恥と焦りから、慌てて言い訳を口にする。
「これはあの、また服が破かれたりしたら困っちゃうなと、思って、その……」
口元を意味もなく笑みの形にひきつらせ、そろそろとシャツの裾を戻そうとする。インナーごと捲りあげたそこは臍の上まで肌を露出していた。
「……はは、ええっと、急にすみませ、んっ!?」
いきなり、裾を掴んでいたその手もろとも、首元までシャツを捲りあげられた。
目を瞬かせ固まっている間に、俺の上半身は桂木の目の前に晒される。桂木は屈みこみ、その胴体の真ん中に額を、すり、とこすり付けた。
「……っ」
その仕草に、哲生の胴を抱く桂木の姿が脳裏に蘇った。まるで祈るように、哲生の肩口に額をこすり付け、その体を抱きしめる桂木の姿。
その姿が今、目の前の桂木の姿に重なる。脳内の映像と異なるのは、桂木の額をのせた肌が、鼓動に合わせてとくん、とくん、とわずかに上下する事だ。
ぐりぐりと強く額を押し当てられれば、たわんだ肉の内側にわずかに桂木の額が沈む。俺はまた胸が絞られるような痛みを感じながら、くせ毛に覆われた桂木の後頭部を撫でた。
桂木が顔を上げ、体を起こす。改めて俺の体を見下ろしたと思うと、その動きがピタリと止まった。そのままじっと動かない。
訝しく思って桂木の視線を追えば、桂木は脇腹に残るひきつれた跡を凝視している。それは、芹沢によってつけられた傷跡だった。
見下ろせば、そこだけではない。晒された肌のいたるところに、小さな傷の跡が点々と残っている。打撲や噛み痕はおおよそ治っていたが、ところどころ深く切り付けられた場所はいまだに皮膚の色が違う。
唐突に、こんな体を晒していることを恥ずかしく思った。逃げるように、桂木に背を向けて体を丸める。だが、ぎしり、とベッドが軋んで、桂木が逃げた俺の体を追ってきた。横たえた体の脇腹に唇が落ちくる。あっ、と鋭い声が漏れた。
蚯蚓腫れが治りかけた跡のような、カサついたそこを潤すように口に含まれ、にゅるりとした口内の感触に薄い肌がさざめく。むずがゆいような堪らない感覚がぞくぞくと全身に広がった。
乱れそうな息を必死にかみ殺していると、きゅっと縮こまった腕をかいくぐるようにして、俺の胸元に桂木が顔を寄せる。腕で押しのけてみても無駄だった。右乳首の横に走るひきつれた傷跡に、ちろりと温かな舌が触れる。
「っ! ふ、ゥ……」
癒すように蠢く舌の動きに、右の乳頭が巻き込まれ、ぬるぬると捏ねられる。愛撫に似たその動きに、耐えるための唸り声が一転、子犬が鳴くような甲高い声に変わった。
口を離されると、硬く凝った乳首が唾液にまみれてひんやりとする。その感覚に羞恥を覚えている間にも、桂木は俺の体を頭のてっぺんから順に丁寧に撫でていく。その目が芹沢につけられた傷を見つけるたびに、舌と唇を使って優しく慰撫された。
「……っき、傷のとこ、だい、大丈夫ですから、やめ……」
何が大丈夫なのか分からないが、とにかくその検分するような行為をやめてほしくて懇願する。けれど桂木はそんな声など耳に入っていないようで、俺の肌をじっくりと探り、唇で触れていく。俺は赤くなった顔を腕で覆って必死に耐えた。
(ど、どうして。前回と違う、こんなの、違う)
桂木は何がしたいのだろうか、侘びのつもりなのか、それとも俺をいたわっているつもりか。
以前の桂木は、自分の思うままに手を伸ばし、好きなように触れてきた。それも、ただ目の前の体温や鼓動を確かめたいがために、そうしているような印象を受けた。
だけど、今は違う。
傷つけられた部分を選び、ゆっくり、そうっと触れてくる。まるでこちらを気遣うように、反応を窺うように。
俺の体を探る桂木の手が腰にまで及んだ時、思わず身じろぎした。
外仕事になるだろうと履いてきた、動きやすい黒いスキニーはベルトもしていない。待って、という言葉がとっさに口を突いて出るがもう遅い。引き下ろされたスキニーがぽいとベッドの横に飛んでいく。
踵でシーツを蹴って後退りしようとしたが、立てた膝をそっと腕に抱きしめられて、また俺は動けなくなってしまった。
初めて感じる下肢への体温に、体中が総毛立つ。抱え込んだ手をそっと滑らせて、腿の筋肉を撫でられた。と、同時に、膝頭を甘噛みされる。情けないことにその感触だけで、びくっと腰が跳ねた。
腿の内側の傷跡に唇を落とし、手のひらは腿を上へ上へとさかのぼる。その動きは止まることなく、指先がボクサーパンツの裾に潜った。
「っ!」
唇を噛みしめていたので、声を上げるのは免れた。桂木の指が、脚の付け根の皮膚の薄いくぼみをなぞる。今までにないほど強く、ぞくり、と全身が戦慄いた。
「ぁ、駄目、だっ……!」
ばねのように体を起こし、そこを隠すように腕を伸ばす。だがその腕はすぐに、桂木の手に掴まれ、有無を言わさない力で退かされてしまう。
下着越しにもわかるほど、自身のそこは緩く反応していた。堪え性の無い自分が情けなくて恥ずかしくて死にたくなる。桂木が下着のウエスト部分に指を引っ掛けるのを見て、俺は覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。
躊躇なくずるりと下着がはぎとられ、脚の間を冷えた空気が通っていくのがわかる。桂木の前に自身の性器を晒しているのだという事実を、否が応でも思い知らされる感覚だった。
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