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 ---------------------------------  雨が降ろうと槍が降ろうと、同僚と一線を越えようと、死にさえしなければ明日はやってくる。  翌日、支援室に出勤した俺は、朝一番で前原に呼び出された。内容は想像がつく、昨日の桂木の件についてだろう。  話をする場所として、前原は珍しく、支援室の応接スペースではなく空いている会議室を選んだ。朝イチだから会議室はどれも使われていない。  適当な一つに入ると、前原は椅子に座らず机に寄りかかる。椅子を勧めたら、鬱陶しそうに手で追い払われた。  前原の足腰の調子はあまり良くないと聞く。本人はもちろんそんなことをわざわざ俺に言わないから、情報源は前原の家族、最近ではもっぱらに孫の美津が情報提供者だ。  あまり心配な顔をすると前原が怒り出すので、せいぜい要件を早く済ませようとこちらから話題を向ける。 「桂木さんなら昨日、事務所まで送って……落ち着いたのを確認してから帰りました。まあ、今日はお休みするようお願いしましたけど」 「へぇ……そうか、ならよかったがな」  嘘は言っていないが、少し気まずい。  前原はちょっと驚いたように目を見張って、それから破顔する。なんだか妙に上機嫌だった。 「なぁ、吉野」  どこか嬉しそうな声でそう言うものだから、俺もいつもの調子で返す。 「なんです?」 「先生を頼んだぞ」  続いた言葉に虚を突かれ、一瞬言葉が出なかった。 「俺はもう、来月いっぱいでいなくなる。でも、お前ならあいつをちゃんと見ていてやれると、そう思ったんだ」  そう言われて俺は気づいた。前原は今年度で、つまり来月で退職だ。支援班は、姿を見せない班長を除いて、俺と浦賀の二人だけ、桂木を含めても三人だけになる。  それはいいとして、”見ていてやれる”とはどういうことなのだろう。  前原は急にその顔から笑顔を消す。怖いほど真剣な表情で、まっすぐ俺に向き直った。  その迫力につられて、俺の背中もピンと伸びる。強面に似合いの、どっしりとした声が、太鼓の音のように腹に響いた。 「いいか。あいつが万が一、“馬鹿な事”をしでかしそうになったら、お前が止めるんだ。他の奴じゃ駄目だ。お前じゃなけりゃ」  ―――何故、そう断言できるのか。  思っていても、俺は口を挟まない。前原がこんなに真剣な表情で俺に頼みごとをしているのだ、きっと何か根拠があって言っているに違いない。 「あいつが……哲生にしか興味の無かったあいつが、お前のことはやたらに心配する。危ない目に合ってないか、困っていやしないかって。先生にとってお前は特別なんだ」  特別。その言葉に俺は目を大きく見開く。そんな風に前原から見られているなんて、思いもしなかった。  驚いている俺に前原は机伝いに近づいてくる。その大きな手が俺の腕を掴んだ。 「お前ならあいつにちゃんと届く。だから、見ていてやってくれ。何かしようとしたら、踏み込んで止めろ」  それは前原の、強い願いだった。  前原がこんなにも強く、俺に何かを求めてきたことは無かった。むろん、恩師の願いなら全力で応えたい。だが。 「…………」  俺はその言葉に、即座に答えることができなかった。それでも、下から見上げてくる前原の鋭い視線に、ぐびり、と息を飲み……押し流されるように弱く頷く。その緩慢な動きを、前原はじっと見つめていた。 「……吉野、」 「わかってます」  前原の言葉をさえぎるように言い訳がましく叫ぶ。 「わかってます。俺は、桂木さんを人殺しにさせる気はない。絶対に、何があっても止めます。桂木さんが哲生さんの後を追おうとするなら、それも、」  虚勢であれ何であれ、言葉にしてしまおうと思ったのに、どうして俺の喉はこうも言うことを聞かないのだろう。もどかしさを抱えながら俺はどうにか吐き出した。 「……それも、止めます。俺が、止めます」  その表情を前原はどう捉えたのか。じっと、観察されているような視線を感じる。  一体何秒沈黙が続いたのか、急に俺の頭に手が伸びてきて、髪の毛がわしゃわしゃとかき混ぜられた。  その乱暴な動きに俺は抗議するように声を上げる。 「ちょっ、なっ……!」 「……心配すんな、お前ならうまくやれるよ」  手つきの粗雑さに似合わない、穏やかな声が降ってきた。  顔を上げると前原は、なにかを慈しむような目で笑っていた。瞬間、俺の意識が過去へと遡る。  その頃の俺は小さくて、前原の背は見上げるほど大きかった。頭上から前原の手が降ってきて、頭を撫でる腕の影から見上げた前原は、丁度今のようなまなざしを俺に向けていた。  過去の光景を脳裏で再生し、ぼうっとしていた俺の横を、いつの間にか前原がすり抜ける。  慌てて振り返ると、前原は扉を開けて外へ出ようとしているところだった。 「前原さん!」 「話は終わりだよ。俺ぁこの後お外でご挨拶だ」  ついていこうとすれば、そう邪険に追い払われる。また、各所へのあいさつ回りがあるのだろう。 「そんな顔しなくても、明日からはお前も諸国行脚の道連れにしてやるよ。いろいろ、顔を繋いどかなきゃならんしな。せいぜい今日はゆっくりデスクワークに励めよ」 「は、あ……。はい!」  気の抜けかけた俺の返事を待つことなく、前原は会議室から出て行ってしまった。  しん、と急に静かになったような気がするその空間で、俺はため息をつく。自分が吐いた言葉が、途端に重く肩にのしかかってきて、俺はよろよろと壁にもたれかかった。  桂木がもしも……もしも哲生の後を追うだなんて、馬鹿な真似をしたら。数カ月前の俺なら迷うことなく、彼を止めると宣言していただろう。  だけど今は、違う。桂木が好きだ。だからこそ、桂木が哲生へ向ける感情のひたむきさに、打ちのめされた。そして、桂木の中で、哲生がいかに大事な存在で、かけがえのないものなのかを知った。 (もしも、桂木さんが心の底から、哲生さんのもとへ行きたいと願ったら?)  俺にはわからなくなっていた。行かないで、と、切なく孤独にあえぐ桂木の姿が、頭から離れない。  あれほど辛い思いをさせてまで、彼を一人きりでこの世にとどめておくことが正しいことなのか。 (……俺に、止められるのか? 本当に?)  桂木の声、そして無我夢中で求める腕の感触。昨日体で感じが感触のすべてが、俺の心を惑わせる。  桂木の心からの望みを踏みにじってまで、俺は俺の欲を通して、彼をこの世に繋ぎ止めることができるのだろうか。  俺は壁に背中を預けたまま、しばらくその場で動けずにいた。  ---------------------------------  深御市警察本部の一角。建物の奥に位置する取調室は、築何十年の古い建物だったが、近年ようやく新しく建て替えられたばかりだ。  だというのに、この部屋に与えられた役割のせいなのだろうか、どんなに綺麗にしていても、部屋の中はどこかくすんで見える。  くすんだ壁に埋め込まれたくすんだ扉、内壁と同様クリーム色に統一されたそれが開くと、一人の警察官が、手錠を掛けた男を先導して部屋に入ってきた。  拘束された男の名前は芹沢業。昨年の年末にかけて世間を騒がせた連続殺人鬼だ。  芹沢は、自身を拘束する手錠と腰縄など気にもかけず、いたって涼しい顔で取調室の椅子に腰かける。警察官が彼の腰縄を椅子に括り付けている間に、刑事がふたり入室してきた。入ってきた彼らの渋い顔を見て、芹沢は淡く微笑み小首を傾げる。 「残念。また今日も吉野さんじゃないのかぁ。ねぇ吉野さんはここで働いてるんでしょ? いないの?」  刑事はただじろり、と芹沢をねめつけるだけで、彼の問いには答えない。芹沢は物憂げな表情で、あからさまなため息をつく。 「ねぇ、居るか居ないか、今日はここに呼んでもらえるのか、もらえないのかぐらいは教えてよ」 「吉野巡査部長はお前の取調べの担当ではない」  芹沢の向かいに座った刑事は、食いしばった歯の隙間から、苦々しい声で答える。この刑事は既に、このやりとりを何度か芹沢と交わしていた。だからこそ、この後に続く言葉を知っていて、彼は憎悪にも似た眼差しを芹沢に向ける。  芹沢はそんな視線をするりと交わし、悩まし気に眉をひそめた。 「最初からずっと言ってるよね。俺、吉野さんとならお喋りしてもいいよ、って」  覚えの悪い子供に向けるようなその声に、刑事は腹を煮立たせる怒りを押し殺すしかない。  事実、芹沢はここに運び込まれた初日から「吉野忠幸巡査部長にならすべてを話す」と告げていた。その宣言通りに、芹沢はどんな相手にも重要な情報を話そうとしない。  しかし、警察組織としては吉野をこの場に呼ぶことはできなかった。彼は事件の被害者だ。事件関係者は捜査から外すのが鉄則であり、何より彼は目の前の男から暴力を受けた身で、今もなおカウンセリングを続けている。  彼をこの場に呼んで仕事をさせることは、職業倫理の面から不可能だ。―――あくまで職業倫理の面では。  ……さっさとその吉野とやらを呼び出せばいいじゃないか、と、芹沢の向かいに座る刑事は苛立ちを募らせる。  たとえ被害者だとしても、吉野なにがしは警察官だ。凶悪犯を逮捕するきっかけを作ったこの事件の立役者と言ってもいい。その彼が来てくれさえすれば、芹沢は情報を落とすかもしれないのだ。もう一度くらい、協力したっていいじゃないか。この、胸糞悪い男と8時間も睨めっこしなくちゃならない俺達を、救ってくれてもいいじゃないか。  ついつい、小さな舌打ちが漏れる。その様子を芹沢は、うっすらとした笑みを浮かべて眺めていた。  今日も同じ内容の質問が、言葉を変え口調を変え、何度も何度も繰り返される。  苦労し、消耗するのは刑事だけだ。芹沢はただ、吉野を待ってじっと椅子に座っていればいい。  どれほどの時間が経ったろうか、頬杖をつき、疲れ果てた様子の刑事の体越しに、取調室の扉がノックされる音が聞こえる。  傍らで書記をしていた刑事が扉を開くと、扉の向こうとぼそぼそ会話してこちらを振り返った。 「一時休憩です」  刑事二人が早々に部屋を辞する間、芹沢の背後に居た警察官が、椅子に括り付けられた縄をほどき、その一端を握る。そうすれば、芹沢はおとなしく警察官の後をついていくはずだった、いつもならば。  その日芹沢は、縄を引かれてもそれに気が付かない様子で、ぼうっと天井を見上げ、椅子に座り続けていた。  その顔からは、先ほどまでの淡い笑みは抜け落ちている。がらんどうを思わせる無表情を天井に向けて、芹沢はぽつん、と呟いた。 「飽きちゃったなぁ…………。会いたいなァ、吉野さん」  FILE 06:寄り憑くもの  事件終了

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