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02

「吉野さん、ちょっといいですか」  解けた雪の雫が滴るダウンジャケットを脱いでいると、ふいに背後から声をかけられた。驚き、反射的に振り返れば、手に持った資料をこちらへ差し出す桂木がいる。その思いのほか近い距離に、無意識に体が一歩後ろへ退いていた。 「あっ、……桂木さん。すみませんどうしました?」 「……いえ。ここの、沼田地区の派出所に吉野さんの同期がいると聞きまして、話を聞かせてもらえないかと」 「ああ。それならすぐに連絡を……」  何事もなかったかのように笑って答える。だけどその実、急な接近に心臓があばらの奥でどくどくと脈打っていた。  避けてしまったことに気づかれただろうか。とっさに身を引いたあと、一瞬投げかけられた桂木の視線が気にかかる。気にするくらいなら過剰に反応しなければいいのに、とは思うけれど、どうしても反射的に体が反応してしまう。  哲生の遺体を見つけた後の、身も世もなく取り乱した桂木を事務所に送り届けたあの夜。動揺する彼を落ち着かせるという名目で、縋ってくる桂木を受け入れた。  いや、この言い方だと語弊がある。桂木は、そんな事態にならないようにと俺を拒んでいた。だけど俺がそれを押し切って付いていき、なし崩しにああなった。  あの時は色んな感情で頭が沸騰しそうで、何かを考えることなんてできそうになかった。が、冷静に振り返ってみればわかる。桂木が好きだ。だから俺は、半ば確信犯であの時、桂木を送って行った。言葉を選ばず言えば、自ら襲われに行ったようなものだ。  後日、そんな自己分析に至ったときは本当に、自分の頭をかち割りたくなった。桂木の辛い心境を利用して彼に近づいた自分が浅ましい。  そして同時に、自分は肉欲も醜い嫉妬も伴うような熱量で、桂木のことが好きなのだと自覚してしまった。  以来、桂木への罪悪感や羞恥心が折り重なって、感情と行動のコントロールがまるできかない。桂木に近づかれれば以前にもまして心臓が跳ねあがるし、それに気づかれまいかと冷汗が出る。その結果、最近の俺は桂木を避けがちになってしまっている。  幸いと言っていいのか悪いのか、ここ最近は仕事が別々で顔を合わせることも少なかった。それは俺に心の平穏をもたらしたが、離れてみると今度は疲弊していく桂木のことが心配で、やきもきしてしまう。  近くに居られないのがもどかしい、だけど傍に来られると避けてしまう、という、J-POPか少女漫画かというようなありさまだ。28にもなる成人男性の癖に。  普段、桂木を見かけたときは、挙動不審にならないように適度な距離を取っているのだが、今のように不意打ちで近づかれるとまずい。  なんとか心臓も落ち着いてきて、平常心で話を進められるようになった。しかし、桂木の手にする資料を読み込んでいくに従い、だんだんと俺の声のトーンは落ちていく。 「……アポ取るのはいいんですが、……これって、この通報の話を聞きに行くんですよね?」 「ええ、その予定です」  桂木が示す資料に記載の通報記録は、1件しかないうえに、どうも子供の悪戯のような気配がする。要するに信憑性が薄い。以前、桂木と2人で調査をしていた時は、このくらいの小さな情報は調査対象から外していた。  俺は、ざわつく気分を唾と一緒に無理やり飲み込み、桂木の顔を見上げる。 「信憑性が薄いと思うんですが、行くんですか? もう少し有力な情報を待ってから行った方が、」 「タブレットがあればどこでも情報収集はできますので。その間に現地へ行けば無駄が省けます」 「……遠回しに言っても駄目みたいなんでストレートに言いますが、ちょっと休んだほうがいいです。顔色、やばいですよ」 「…………」  そんな言葉は聞きたくないとでも言わんばかりに桂木は目を伏せる。曖昧に頷いてはぐらかし、桂木は逃げるようにくるりと振り返った。そのまま足早に支援室の扉をくぐろうとして、今度は前原に捕まった。何事か声を掛けられ、桂木の足は扉の寸前で止まる。  やはり前原も桂木の体を心配して、小言めいた言葉をかけていた。しかし、その会話も長くは続かず、桂木は前原を振り切るように支援室の扉に手をかける。  それを止めようと腕を伸ばした前原の顔が、突然苦悶に歪んだ。顔をしかめ、伸ばした腕を腰に当てる。とっさに俺は前原に駆け寄った。 「前原さんっ?」 「あいて。……ああ、大丈夫だ、ちょっとピキッときてな」 「大丈夫っすか!? ギックリっすか!?」  浦賀までも慌てて駆け寄ってきて、前原は鬱陶しそうに、しっしっと手で追い払うそぶりを見せる。  そんな中で桂木はというと、困惑した様子で扉の前に立ち尽くしていた。突然痛みを訴えた前原を支えようとしたのか、伸ばしかけた右手が中途半端な位置で空中をさまよっている。  しかし結局、桂木は前原に駆け寄ることなく、そのままくるりと背を向けて部屋を出て行ってしまった。視線の先で、扉がむなしくぱたんと閉まる。いつの間にか、前原と浦賀も、言葉を飲み込んで桂木の出て行った扉を見つめていた。  抱く気持ちは同じだ。だけど、桂木にそれを届けるすべをここに居る誰も持ち合わせていない。  きっとそれを持っていたのは、今は亡き彼の恋人だけだったのだろう。  ------------------  翌日も前原とともに外出の予定だった。の、だが。前原は通院の予定が入っていたのをすっかり忘れていたらしく、急遽車の行き先は病院に変更となった。そして前原を無事送り届けた俺は唐突に予定が空いてしまった。  ひとまず、やることもないし本部へ戻ろうと車を走らせる。その道中から、思えば嫌な予感はしていた。  頭皮がぴりぴりするというか、ざわざわするというか、そんな不快な感覚には覚えがあった。大抵こういう感覚がした時は、怪異が近くにいる。  何となく嫌だなあ、と思ったら、人ごみの中で隣に立っていた人の片足がなかったり、曲がった道の先で何か黒いものが蠢いていたり。そういう事が繰り返されるうちに、嫌でも遭遇パターンのようなものがわかってくる。この“嫌な予感”もその一つだ。  案の定、それは当たった。  本部へ着き、端々に雪が残る駐車場に車を止めたその後だった。車外へ出した右足が着地するや否や、踵が何者かに掴まれた。くるぶしを両側から挟むように圧迫されたその感触は、“掴まれた”としか形容しがたい。  この姿勢で踵を掴もうと思ったら、車の下に身をひそめるしかない。ついさっき、地面には雪以外何もないと確認して駐車したばかりの、“その”車の下に。 「……ひっ、うわ!」  驚きに固まったのは一瞬だった。その一瞬の間に、氷のように冷えた指が、ズボンの裾をかいくぐって這入りこむ。温まった足に冷たく湿った五指が絡みつくその感触に、驚きぞっとする。とっさに足を蹴ってその手を振り払い、乱暴に車の扉を閉めて本部の自動ドアへ走った。  幸いなことに、足を掴んだ何かは、本部一階ロビーに逃げ込んだ俺を追ってくる様子はなかった。しばらく自動ドアの外をじっと見つめていたが、何かがやってくる気配はない。  ほっと息をついた俺が支援室へ向かって歩き始めると、一階受付の窓口を横切ったあたりで、その窓口の奥から声がかけられた。呼び止めたのは、窓口で受付を務める事務職員だった。  曰く、例年よりも多い積雪のため、駐車場の雪かきが追い付かず、表側の出入りしやすい駐車場は地域住民のために確保しておいて、職員は奥まったところにある駐車場を使うようにとのことだった。  本部から借りている車を使用している俺は、もともと普段から奥の駐車場を利用しているため、問題はない。  そう、何も問題はない。あるとすればたった今、右足首に絡みついてきたひんやりした手指の感触が、果たして俺の勘違いか、それとも認めがたい現実か、という点だ。 「わかりました、注意しておきま……っ!?」 「ど、どうしました?」  息をのんで見下ろせば、四つん這いの人物が俺の足首を掴んでいるのが目に入った。窓口にいる職員からはカウンターが邪魔で見えないだろう。アクリル板の向こうで、彼が様子のおかしい俺に首をかしげている。 「な、んでもないです。ちょっと、あはは。びっくりしちゃって。……失礼しますね」  ぎこちない笑いを浮かべつつ、そして右足を引きずりつつ、窓口から遠ざかる。右足を無理やり動かすたび、濡れた皮膚が大理石を模した艶のある床を滑って、ぎゅ、ぎゅ、と音を立てた。この音は窓口にいる彼や、通りがかる職員に聞こえているのだろうか? 特に無反応だったから、聞こえていないのかもしれない。ひきずられた皮膚が床に突っ張る感触までもが生々しく、掴まれた足を通って伝わってくるというのに、誰もこの異様な事態に気づいていない。  いよいよ耐えかねて、俺は周囲に誰もいないのを確認して、水たまりに脚をつっこんだ犬のごとく、掴まれた脚をぶんぶんと振った。パッ、と手が振り払われたのを見て、すかさず廊下を走り出す。支援室へ続く長い廊下を一気に半分ほど走り切り、十分距離を離せたと思ったところで後ろを振り返った。  廊下の上に、追いかけてくるものは何もいなかった。  しばらく息をつめて、廊下の向こうの気配を窺うが、何かが動く様子はない。それを確認して、はぁ、というため息とともに体が弛緩した。 (なんとか逃げきれてよかった……)  過去、しつこい怪異相手に30分も1時間も逃げ続けたことがある。それ以上になると、逃げるのをあきらめて桂木に泣きつくことが多いのだが、今は桂木に頼るのは気が引ける。  何はともあれ、面倒なことになる前に撒けて良かった。やれやれ、という思いで俺はまた脚を踏み出す。床に着地したその足に、三度の嫌な感触が襲った。 「うわっ、……!」  いつの間に、なんて些末な疑問は、見下ろしたそれを見て一気に吹き飛んだ。  足首を掴むなんて生ぬるいものじゃなかった。まるで、「今度は逃がさない」とでも言うかのように、その怪異……ざんばら髪の女の幽霊は、床に投げ出した下半身はそのままに、両腕を俺の右脚に絡め、上半身をしなだれかけさせ、しがみついていた。  膝のあたりで首をかしげる女の顔は、青白く濡れ光り、魚を連想させる感情の読めない目がこちらを見上げている。目が合ってようやく、厄介な相手に目をつけられたことを思い知る。全身にいやな汗がにじんだ。  反射的にまた振り払おうとして、がっちりと押さえられた脚がびくともしないことに気が付いた。まずい、と思った矢先、女の手が脚を這いあがるように膝頭へかけられる。見開いた目は俺の顔に固定したまま、ゆっくりと体を登ってこようとする。その目に間近で見据えられたらと思うと、ぞくり、と背筋が冷たくなった。  このままでは危ない、とにかくこれを引きはがさなければ。くそ、と悪態をついて覚悟を決めた。  ぎゅっと目をつぶり、思い切って女の額あたりを掴む。ぬるりとしたものに覆われたその感触に鳥肌を立てながら、ぐいぐいと女の顔を押しやろうとする。しかし、手が滑って上手く力が入らないうえに、女は恐ろしい力で俺の脚を引き寄せてくるため、思うように引きはがせない。 「いてっ。くそ、離せ……!」  女の爪がぎりぎりと腿に食いこんで、痛みにひるんだ隙にまた女の体が這いのぼる。女の頭が近づくにつれて匂ってくる生臭い臭気に、頭がくらりとした。  これは本格的にまずい、と焦り始めたとき、ロビーの方向へ続く廊下の先から足音が聞こえてきた。徐々に大きくなる足音は間違いなく、こちらへ近づいてくる。  俺は、果たしてこの状況に人が通りかかることが、良いことなのか悪いことなのか判断できず、力を緩めればすぐに上ってこようとする女を押しとどめるのに必死になっていた。そして、とうとう足音の主が廊下の奥に姿を現す。 「……あ、」  なんの巡りあわせか、そこに現れたのは桂木だった。薄暗い廊下の奥から蛍光灯の下に現れた桂木は、いつもよりも深い猫背。髪に隠れて顔色さえ見えないものの、疲れているのが一目でわかる足取りだった。  口を開きかけて、だけど言葉に詰まってしまった。  桂木が万全の状態だったら、迷わず助けてと叫んだだろうが、彼に頼りたくないと思っていた手前、助けを求めるのは忍びない。かといってこのままスルーしてくださいと言う訳にもいかない。  どう説明しよう、と固まっている間に、桂木がこちらに気が付いて、のろり、と頭を上げた。 「あ、えっと、桂木さん。これは、」  言い訳を口に乗せるたった数秒で、桂木はつかつかと俺との距離を詰める。近い、と息を呑んだ瞬間、桂木は触れ合いそうな距離でその身をかがめ、ぬるついた女の頭を覗き込んだ。 「今、あなたに構っている暇はありません。退きなさい。」  傍らの壁に手をつき、上体をかがめ、かすれた声で告げられたそれは、恐ろしく冷たい言葉だった。その言葉の鋭さと、空気を介して体温を感じられるほど近くにある桂木の体に、俺はぴくりとも動けなくなる。  そうして、息をひそめていた時間はきっと数秒にも満たない。だけど俺には数分ほどの長さにも感じた。と、右脚に食い込んだ爪の痛みが、ふっと消え失せる。見下ろしてみれば、右脚を包むスーツの生地に、ぐっしょりと濡れた跡だけを残して女の霊は消えていた。

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