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03

「い、いない。良かった……」  ほっと安堵のため息をつけば、桂木は無言で体を起こす。その距離の近さにまた心臓が暴れそうになったが、桂木があっさりと体を離したため、逆に妙なもの寂しささえ覚えてしまう。 「ありがとうございます。助かりました」 「いえ、気になさらないでください」  改めて礼を言って落ち着いたところで、桂木の着ている服が昨日と同じことに気が付く。まさか、昨日から今日まで、ぶっ続けで捜査に出かけていたのだろうか。そう思い当たって、俺は歩き出そうとする桂木をとっさに引き留める。 「待ってください。今日は支援室に何の用で?」 「……次の場所へ、捜査へ向かおうと。資料を取りに」 「……その、昨日見せてもらった資料の捜査はどうなりましたか。あの後、すぐに向かわれたんですよね、もう終わったんですか?」  桂木が顔を背け、沈黙する。渋い表情を浮かべるその顔を見て、やはり捜査を終えたその足でここに来たのだと確信する。  頑なに口を閉ざしたままの桂木に、俺はなおも話しかける。 「桂木さん。どうしても休む気になれませんか。何だったら、今から仮眠室使ってくれてもいいです。少しでも横になって、休憩とりましょう」 「……」 「無理したって効率あがらないですよ。そんなんじゃ、見つかるものも見つからな……」 「何度も、言われなくても、分っています」  唐突に低く唸るような声が言葉をさえぎった。まるで獣の唸り声にも似た、噛みしめた歯の隙間から漏れ出すその声の異様さに、ひやりとする。  だけど桂木は怒るでもなく、弱々しく片手で顔を覆った。 「……寝ようとするんです。でも、そうすると、哲生の声がする。ここに居る、と言って俺を呼ぶんです」  手指の合間から一瞬垣間見えた口元が苦し気に歪んでいた。その表情にハッとする。桂木自身、休みたくても休めないこの状態に苦しんでいるのはないか。  そう思い当たるが、しかし。その手が外された下に現れる顔は、能面のような無表情に戻っていた。まるで、今見たものが幻だったかのように。絞り出すようだった声音も、平坦ないつもの口調に戻っていた 「芹沢がのうのうと生きているなら、せめて哲生だけでも早く見つけてあげなければ。あと少し、あと少しなんです」  俺は何も言えなかった。体が休息を求めても、それを心が許さない。それほど、桂木は追い詰められているのだと感じた。  自分でも、どちらかというと体育会系の思考回路をしているという自覚はあるが、いっそ、体力の限界が来るまで好きにさせてしまったほうがいいのかもしれない、とも思う。  桂木はきちんと自制の利く自立した大人だ。それが全部めちゃくちゃになってしまうほどの強い衝動なら、無理に止めることはいっそ酷な気がする。  俺が四六時中桂木のそばにいることができるなら、それもOKしたかもしれない。  だけど、今の桂木は俺たちを遠ざけ、一人で背負い込もうとしている。周囲に誰もいない場所でもし倒れてしまったら? 今は真冬だ、外で倒れたりしたら凍死の可能性もあるし、倒れた瞬間どこかに頭をぶつけてそのまま……ということだってある。  そうなったら、本当に危ない。大変なことになる前に、病院に行くなり睡眠薬を飲むなりして、無理にでも体を休めさせなければ。  そう決意して口を開こうとした矢先、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。継続的に鳴動し続けるそれが着信であることがわかる。取り出して画面を見ると、そこには浦賀の名前があった。 「……浦賀さんです」  桂木は無言でうなずく。電話に出てくれという意思表示だ。俺は、電話をしている間に勝手に桂木がどこかへ行ってしまうのではないか、とちらちら桂木を窺いつつ、電話に出る。幸い、桂木はどこかへ行く気はないようだった。むしろ俺の持つスマホに視線を一心に注いでいる。その眼差しの強さから、新たな情報がもたらされることを期待しているのがはっきり分かった。  電話に出ると、浦賀はかなり焦った様子で、今どこにいるのかと尋ねてきた。その尋常でない様子に眉をひそめる。 「今、支援室に向かうところだ。本部の廊下。桂木さんも一緒だ」 「……まじですか」  電話口の浦賀が奇妙な沈黙を落とす。向こうから漂ってくる緊迫した雰囲気を感じ取り、俺は何となく、無意識に桂木に背を向ける。電話の内容を秘するように。それと同時に、すう、と息を吸い込む音がスピーカーから聞こえてきた。 「ええと、良いすか。これから言う事を桂木さんにできるだけ知られない方がいいっす。そして必ず、桂木さんを支援室に連れてきてください。先ほど元町班長経由で連絡が来ました。今朝、事件現場で行っていた調査の最中、同行させていた芹沢が脱走しました」 「……な、んだって」 「詳しくは支援室に着いてからっす。早く桂木さん連れてきてください、あの人、これ知ったら何するかわかんないっすよ!」  語られた話の衝撃に、気を取られていたのがいけなかった。いつの間にか背後に近づき、会話を盗み聞きしていた桂木が、廊下を支援室とは逆側に駆け出そうとする。しかし俺は、その桂木の腕をすんでのところで掴んで引き留めることができた。 「桂木さん待って、どこ行くんですか!」 「……放してください」  乱れた前髪の隙間から見える瞳が、一瞬憎悪に燃え上がる。体の奥で、きゅう、と何かが縮こまる気がした。  出会ってこの方、これほど激しい目を桂木から向けられたことはない。ショックと悲しさで、怯みそうになるのを奥歯を噛んでこらえる。 「どうして、止めるんですか」 「どうしてって……当たり前でしょう! 今の話聞いてたんですよね、危険です」 「ええ、それでも、お願いします。行かせてほしいんです」  苦し気な声音が、今度は懇願する声に変わる。真っ黒な瞳と視線がかち合った。訴えかけるように、その目が俺を捉えている。その意味を受けとった俺はまた、胸が引き絞られるような心地がした。  桂木は俺に、警察官としての職務を一時放棄して、見逃してほしいと頼んでいる。  支援班の人間として、俺は上からの命令には従わなければならない。それは桂木も同様で、彼は警察職員ではないが、支援室の業務を何よりも優先しなければならない契約を交わしている。その専属契約があってこそ、情報の横流しが可能になっているのだ。  浦賀を通じて支援班に命令が下った以上、俺たちは二人とも従わざるを得ない。桂木が拒むなら、警察所属である俺が、契約を盾にとって桂木を強制的に従わせることができる。それをわかっていて、桂木は俺に、頼みを聞いてほしいと願っている。  今この場にいるのは俺と桂木だけ。見逃すのは簡単だ。さっき、俺が桂木の腕をつかみ損ね、逃がしてしまったことにすればいい。  だけど俺は揺るがなかった。これは警察としての俺も、そうじゃない俺も、満場一致の結果だった。  必死さをにじませる桂木に胸は痛んだけれど、桂木を外へ行かせるわけには絶対いかない。俺はぎゅっと目をつぶり、桂木の視線を断ち切って首を振った。 「だめです。ただでさえ、今のフラフラの桂木さんを外に出すのは心配なのに、危険すぎます。ひとまず今は、支援室で詳しい情報を聞きましょう。桂木さんも、一緒に来てください」 「……それは吉野さんが警察官として、俺を逃がすわけにはいかないから、でしょうか」 「……それも無きにしも非ず、です。だけどそれよりも、俺は桂木さんが心配だ」  今度は俺が懇願のまなざしを送る番だった。これでまだ渋られたら、支援室からの協力要請として同行を願うほかなくなる。桂木は苦い表情を見せつつも、抵抗をやめ、「わかりました」と頷いた。  意気消沈したように腕をひかれ、黙ったままついてくる桂木に罪悪感を抱きつつ、これでよかったのだと内心思う。  支援室に下った命令からして、それを下した存在は、桂木が芹沢を探して報復することを第一に心配しているようだ。  だけど、俺の心配は少し違う。桂木が復讐を遂げ、芹沢を殺すことよりも、その過程で桂木が傷ついたり、逆に芹沢に襲われたりすることが心配だった。  芹沢は狡猾で、身体能力も平均より高い。暴力団との関りも示唆されているし、戦闘能力というか、人を痛めつけたり殺したりする能力が高いのだと思う。実際に俺が体験したあの逃亡劇のさなか、何よりも恐ろしかったのは、芹沢の躊躇のなさだ。何のためらいもなく急所をえぐり、人を死に至らしめることができる。単純な身体能力の強さ、戦闘技術の高さよりも、そういった“人を殺すことが当たり前”な人間のほうが、よほど恐ろしい。  きっと芹沢は、桂木を相手にしたとしても、なんのためらいもなく殺そうとするだろう。ただでさえ疲弊しきっている桂木が、そんな芹沢とたった一人で対面することになったら……考えたくもない。 「……どうして」  背後で、のろのろついてきていた桂木が呟く。支援室の扉はもう目の前だが、俺はその声に足を止めた。振り返れば、少し見上げる位置にうつむいた桂木の顔がある。傘のように表情を覆い隠したその前髪の下から、ぽつりと言葉が落ちてきた。 「どうして、そんなに……皆さんは俺を心配するんですか」 「どうしてって、それは」  俺にとっては当たり前のその答えを告げようとして、桂木の強い言葉にさえぎられる。 「前原さんも、浦賀さんも、俺は言ってしまえばただの取引先に過ぎないというのに。吉野さんだってそうでしょう。いくら組んで調査をしているからといって、いつも俺の体調を心配して、あんな風に俺を慰めるようなことまで」 「……っ」  桂木が何のことを言っているのかわかって、瞬時に顔が赤くなる。自分の中で用意していた答えが一気にぐちゃぐちゃになって、口だけがぱくぱくと無意味に開閉していた。  そうして俺が答えに詰まっている間に、桂木は視線を下げ、そこで「ああ、」となぜか納得したようなため息をついた。何だろうと思って視線をたどれば、じっとり濡れた自分の片脚がそこにある。  桂木の肩から力が抜け、すぅっと下がるのが見えた。ゆっくりこぼれた声は、先ほどまでの焦燥や困惑の滲んだものではなく、いつも通り冷静で、時によっては冷たく聞こえる声だった。 「ああ……。いえ、すみません。俺の自己管理ができていないと、万が一の時に支障をきたしますね。吉野さんが怪異に困っているときもすぐに助けに行けませんし、気が回らずすみませんでした」 「……はい?」  出てきたのは、自分でも驚くほど物騒な、低いかすれ声だった。  一瞬、桂木が何を言っているのかわからなかった。だけどその発言が意味するところを理解し、一拍遅れて体がカッと熱くなる。同時に胃のあたりがひどく冷たくなった。頭からつま先までを得体のしれない何かが一気に満たしていくようだった。 「それ……。それ、あんた、本気で言ってます?」  それだけどうにか呟くことができた。桂木は一瞬、奇妙なものを見るような目で、俺を見る。その視線だけで、桂木が本気でそう思っていることは十分伝わった。  そこでようやく、先走る感情と体に頭が追い付いた。 「本気というのは、どういう……」 「もういいです」  困惑した問いかけを切って捨て、支援室の扉に向き直る。ドアノブに伸ばした手がうっすら震えているのを他人事のように感じた。構わず扉を開きながら、逆の手で桂木の腕をむんずと掴む。そのまま力任せに引っ張って、桂木の体を支援室の中に押し込んだ。  扉の向こうで、何事かと中腰になって椅子から立ち上がる浦賀が見えたが、かまわず桂木を突き飛ばす。ふわ、と揺れた前髪の下で、桂木の目が珍しく見開かれていた。 「浦賀、桂木さんお願い。しばらく外出てくる」 「えっちょっ、吉野さん?」  待って、と浦賀が追いすがる声が聞こえたが、聞こえないふりで乱暴に扉を閉めた。淡々とした己の口調とは裏腹に、扉はばんっと予想以上に大きな音をたてたが、気に留めていられなかった。  世界が内と外で切り離されてしまったかのように、頭の中で渦巻く考えと関係なく、外の世界が動いていく。脚が勝手に前に出る。ずんずんと速足で廊下を突き進む。次々と景色が流れていく。 (なんで、そんな風に思うんだ。俺は、皆は、桂木さんを純粋に心配して)  怒涛の勢いで感情が溢れてくる。ぎゅっと唇を噛みしめていないと、その奔流が口から飛び出してしまいそうだった。 (俺だって、ただ桂木さんが心配で、倒れたりしたらどうしようって思って。それだけだったのに)  どうして、なんで、そんな繰り言を何度も声に出さずにつぶやく。怒りで沸騰しそうな頭と、悲しさで凍えそうな胸の両方を抱えて、本部を飛び出し通りに出る。怒りからくるすべての衝動を踏み出す両足に込めて、一歩一歩道路を殴りつけるような気持で、力任せに道を突き進んだ。

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