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 そして、乱暴に歩き続けた足の裏が鈍く痛み始めるころ、気が付けば俺は本部から離れた住宅街まで来ていた。  歩くことで衝動が発散され、頭に上っていた血も降りて、冷静さが戻ってくる。歩を緩めると、唐突に重だるい疲労を感じた。俺はちょうど通りがかった児童公園にふらりと入り、ベンチに腰を下ろした。 「はぁ……」  無意識のうちに、力ないため息が漏れて、白い蒸気になって外気に溶ける。俺はぼうっと空を眺めたまま、じくじくと痛い胸を抱えていた。  桂木が、俺のことをそんな、打算的な人間だと考えていたことにショックを受けた。  桂木の無茶な捜査の仕方を、「いざという時に仕事ができなくなるかもしれないから迷惑だ」だなんて、一度も思ったことはない。ましてや、「怪異に襲われたときに桂木がいないと困るから」、なんて身勝手な考えもだ。  桂木からそんな風に思われていたのはとても悲しかったけれど、前原や浦賀まで、そんな薄情な人間だと思っているのなら、これは俺にとってもはや侮辱に近い。本当に桂木があの二人のことをそんな風に思っているのなら、一発ぶん殴ってやりたい程だ。  前原がここ最近どんなに気をもんでいたか。浦賀だってこっそり、「いっそ桂木さんに情報渡すの止めていいっすか?」とまじめな顔で相談しに来るほど心配していた。そして俺だって、たくさん、ものすごく、心配した。  その気持ちをすべて台無しにされた気分だ。悔しいし、腹が立つ。そして、沸騰するような怒りが収まった今は、とにかく悲しい。 (ずっと、そんな人間だって思われてたのかなぁ……)  改めて考えると、相当へこむ。放っておくとこのまま気持ちがどこまでも沈んでいってしまいそうだった。俺は頭を振り、思考を切り替えるべく、無理やり別のことを考え始めた。  そういえば桂木はともかく、浦賀のことも無視して支援室を後にしてしまった。桂木を連れてきてほしいという任務は達したが、あの後どうしただろうか。脱走したという芹沢はどうなっただろうか。  冷静に考えればかなりの大事件なのに、直後の桂木の発言に血が上って、ほぼ頭からすっぽ抜けてしまっていた。  何か連絡が入っていないかと、ポケットに入れていたスマホを取り出す。これも、地面を踏みしめるのに夢中で気が付かなかったが、数分前まで浦賀からの着信とメッセージが立て続けに届いていた。  前半は不在着信ばかりだが、途中で諦めたのかその後はすべてメッセージになっている。開いてみると、困惑交じりで少しキレ気味の浦賀からのメッセージがつづられていた。  その内容を、順番に読み進めていく。捜査本部総出で捜索しているようだが、どうやら芹沢はまだ捕まっていないらしく、今日は身辺保護の名目で桂木を本部仮眠室に泊めることになったらしい。  それだけではない。桂木の警護もかねて、俺も今日は本部に泊まるよう指示が出ているらしい。俺自身も芹沢に狙われた経験があるから、保護も兼ねての措置だそうだ。  その、“桂木の警護”という文字に盛大に顔をしかめた。たった今、桂木に激しい怒りをぶつけ、ざっくり深く傷ついたばかりだというのに、よりによって夜通し桂木のそばにいなければいけないというのか。 (どうしてこのタイミングなんだよ……)  浦賀からのメッセージは、ところどころに隠し切れない怒りを滲ませつつ、心配だから落ち着いたら連絡をほしい、といつもの若者敬語口調で締めくくられている。  その文面をしばらく眺め、俺はポケットにスマホをしまい込んだ。そして、冷えたベンチから立ち上がる。歩き出した方向は本部とは逆方向だ。  浦賀には申し訳ないが、今の状態で桂木と顔を合わせるのは正直つらい。だからもう少しだけ、本部に戻るのを後回しにすることにした。  どうせ今日仮眠室に泊まるなら、着替えなり洗面道具なりあったほうが便利だろう。俺はそう理由づけて、いったん自宅へ寄ってから、本部へ向かうことにした。  幸い、あてどなく歩いてたどり着いたこの公園は、自宅アパートにほど近い。自室へ向かい、簡単な着替えをそろえて、再び本部へ戻るまで、どんなに時間をかけても1時間にはならない。そのくらいの自由は、許してほしかった。 (桂木さんって、捜査の時は観察眼がすごいのに、どうしてあんなに鈍いこと思いつくかな……)  とぼとぼ歩きながら思うのは、考えまいとしても容赦なく頭を占領してしまう相手のことだ。  桂木は元警察官だけあって、相手の動作から心理を見抜き、事情を聞き出したり、揺さぶりをかけたりするのがうまい。だけどその観察眼が発揮されるのは容疑者や情報提供者に対してだけであって、プライベートでは働かないようだ。……桂木のプライベートといっても、今のところ俺が知っているのは、支援班チームか藤連さんぐらいのものだが。 (……哲生さんには、また違ったのかな)  俺の知らない、桂木の最も近くにいた人。彼に対してなら、桂木はもっと態度や見る目が違ったのだろうか。  桂木はかつて、哲生のことを、初めての理解者であり、師匠のような存在でもあったと言っていた。俺含め、支援班メンバーは桂木のただの“同僚”に過ぎない。いや、もっと悪かった。桂木の言葉を借りれば、俺たちは彼にとって“取引相手”でしかない。  確かに桂木からすれば支援班は、情報提供を受ける代わりに従属を約束した取引相手だ。でも、表向きな関係性がどうであれ、長いこと一緒にいたのに、俺たちの間には仕事上の関係以上のものは何も生まれなかったのだろうか?  少なくとも、桂木が探偵になる前から関りのあった前原は、絶対に桂木のことを自分の直属の部下レベルで心配している。浦賀だってなんだかんだ桂木には遠慮なく接しているし、俺に至っては……。  考えが自分の恥ずかしい思考のほうにまで至ったあたりで、うがーっと唸って頭を上げた。気が付けば、いつの間にか自分のアパートを少し通り過ぎている。慌てて道を戻った。  芹沢の事件以降、総菜屋が入っていた店舗スペースは、売りに出されることもなくただシャッターを下ろしている。そのそっけない灰色の外観をちらりと見ながら、そういえば、芹沢が逃げ出したというのはいったいどこでの話だったのだろうか、と今更ながら疑問に思った。  詳細な情報を聞かされていないせいで、芹沢が脱走した、という事実以外あいまいだ。  浦賀からのメッセージに何か書いてなかったっけ、とスマホを取り出し、見返してみる。詳しくは書いていなかったが、深御市全域の小、中学校に集団下校の指示が出ていることから、騒ぎが起きているのが深御市付近であることは確かだ。  捜査本部は芹沢が犯行を行ったり、遺体を埋めたりした場所を中心に現場検証して回っている。一体どのあたりだろう、と以前見た捜査情報を思い返しながら俺は階段を上った。  念のため、階段を上がり切ったところで廊下の左右を見渡す。ついでに、手すりから身を乗り出して吹き抜け階段の上と下も確認した。  普通のサラリーマンだったら会社に行っている時間帯だからか、人っ子一人いないことに妙に拍子抜けする。ほっと息をつきながら、鍵を取り出して手早く開錠した。  事件以降、当然だが部屋の鍵は付け替えてある。侵入された俺の部屋だけでなく、このアパートすべての鍵が付け替えられた。  どちらかといえば、芹沢が市中に潜んでいる可能性がある今、注意すべきは扉を開ける瞬間だ。  玄関の鍵を開けた瞬間、もしくは鍵を開けた扉に家主が入り、再び鍵をかけるまでのわずかな瞬間、力尽くで家に押し入って犯行に及ぶという手口がある。その場合、犯人は階段や廊下の死角や、エレベーターの中などに潜んでいるのだが、その点は先ほど確認して問題なかった。  他に気を付けるべき点といえば、鍵を開けたら素早く中に入り、またすぐに鍵をかけ直すこと。  その基本的な防犯対策に習い、鍵を開けた扉を素早く開けた。その時だった。声を上げる暇さえなかった。  ぱっと開いた扉の向こうから、ぬぅと腕が伸びたかと思うと、襟元をつかまれ、有無を言わせず引っ張り込まれる。とっさに抵抗しようと脚をふんばりかけて、二度と聞きたくなかったジリジリした破裂音に目を見開いた。  あっ、という驚きの声を上げたきり、声が出なくなった。叫びたくても、胴体に走った激痛と衝撃に肺から息を吸うことも吐くこともできなかった。無様に玄関に引きずり倒され、続いて玄関の扉が閉まる音が響く。仕上げに、とばかりに、腹ばいになった俺の上に、人一人分の重さが遠慮なくのしかかった。 「―――!」  膨らんでいた肺から無理やり空気が押し出される。そのせいで、酷く痛むわき腹がさらにえぐられるように痛んだが、続く衝撃にその痛みも吹っ飛んだ。  再びの忌々しい音。今度は肩らしい。おもしを乗せられた腰部を中心に海老のようにのけ反った。手足が引き絞られるように勝手に引き攣り、肩に押し付けられていたそれが離されると、今度は力なくフローリングに崩れ落ちる。  しばしの間、頬を床に押し付けて放心した。頭がちかちかする。痛いのか、そうでないのかすらわからない。  意識こそ失わないものの、ろくに物が考えられないほどの衝撃だった。再び頭がはっきりとしたときには、俺の腕は後ろ手に、両足は足首と膝でひとまとめに、拘束されていた。  念入りに俺の全身を探って、スマートフォンと財布を取り上げた相手が、ふう、と一息ついて頭上から声をかける。 「二度も同じ手に引っかかるなんて、案外抜けてるんだね。いや、まさか二度も同じ手を使うと思わなかった、って感じかなァ。どちらかというと」 「う……あ……」  未だしびれている口の代わりに、鋭い目線で頭上の男を突き刺す。それをむしろ嬉しそうに受け止めて、芹沢は柔和な顔をほころばせた。  髪が乱れ、顔も少し窶れて見えるが、芹沢に間違いない。どこにでもあるような黒いウィンタージャケットに、黒いアウトドア用のグローブをはめ、その手には黒い箱型のスタンガン。青白い顔と色あせた髪の毛以外、全身真っ黒な姿だった。 (どう、して)  真っ先に頭に浮かんだのは、その一言だった。  どうして部屋の中に入ることができたのか。どうして俺のところへ来たのか。それについて考えようとしても、組み上げた端からぽろぽろと崩れていくように思考がまとまらない。  奴は拘束した俺の上からいったん退くと、そのまま俺の体を俵抱きにして部屋の奥へと運び、リビングに無造作に転がした。  まだ麻痺している体の節々が、フローリングに転がされて鈍く痛む。芋虫のように転がった俺の目の前に影が落ち、見上げればすぐ正面に芹沢がしゃがみこんでいた。  芹沢の手が伸び、顔を上げた俺の無防備な首筋に、すぅ、と薄いナイフを当てる。視線を合わせた先で芹沢は、しー、と人差し指を口の前に持ってきて微笑んだ。  その微笑みに、何よりも先に体が反応を示した。刻み込まれた恐怖と嫌悪が蘇り、全身が固く強張る。 「不用意に声を出さないで。質問に対してだけ答えて。今すぐ首を搔き切られて死ぬか、事件のすべてを知ってから死ぬか。どっちを選ぶ?」 「ふ、……」  恐怖を飲み込み、ふざけんな、と悪態をつこうとした。だが唇が動いた瞬間、喉にあてられたナイフが食い込む。その感触にごく、と息をのんだ。  目の前の芹沢を見上げるように睨みつける。三日月のようにたわんだ目は笑って見えるが、以前対峙したときとは違う、ピンと張りつめた硬質さがあった。それは余裕の無さの表れでもあり、それゆえの容赦のなさでもあった。  今俺が少しでも奴の意に沿わないことをすれば、俺の首に添えられたナイフは真一文字に喉を掻っ捌くだろう。それが嫌というほどわかった。  芹沢は細めた目で、俺の決断を待っている。おそらく、あと数十秒限定の猶予だ。考えている暇はない、それならば。  俺は唇をぎゅっと引き結び、しわがれた声で答えた。 「……今すぐは死ねない。教えろ、全部」  くそやろう、と続けたかったが、のけぞり続けている喉が引き攣って咳込んでしまった。激しく動いた首にナイフが食い込むかと思ったが、芹沢はそれより早くナイフを引く。  咳のおさまった俺の頭上から、小さな声が落ちてきた。 「……ふふ。よかった」  まったくよくない、こっちは最悪な気分だ。どこか安堵したような雰囲気のその声に、内心そう吐き捨てた。

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