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05
芹沢は改めて俺の首筋にナイフを当てる。
「そうと決まれば、移動しなきゃ。吉野さん、気を付けてね、いい?」
芹沢は子供に言い聞かせるように馬鹿丁寧に、ゆっくりと俺に語り掛ける。
「暴れたり、大声をあげたり、俺の行動を妨げるような行為をしたらすぐに殺す。何も知ることなく吉野さんは死ぬことになる。俺は別段、どっちでも構わないけど、できるだけ吉野さんと一緒にいたいから、余計なことはしないでくれると嬉しいなァ……。OK?」
「移動って、どこ、に」
芹沢は笑って俺の問いかけを黙殺した。喉に沿わせたナイフがわずかに押し込められる。俺からの問いには答える気がないとわかり、しぶしぶ、「わかった」と答えた。
「よかった。じゃあ、暴れないで待ってて」
芹沢はパッと表情をほころばせると、上機嫌に立ち上がる。俺の背後にまわり、何かごそごそ音をさせていたかと思うと、大きなスポーツバッグを担いで再び俺の前に現れる。腕には黒いジャンパーも抱えていた。
続いて芹沢は俺の足元にしゃがみこみ、膝と足首の拘束をナイフで外す。ナイフを持った奴が警戒しているのは分かり切っていたため、今このタイミングでは身動きせずおとなしくしている。
そして芹沢は持っていた黒いジャンパーを俺の肩にかけ、全身をくるむと、上半身を抱きこむように床から立ち上がらせた。
とたん、自分でも制御できない程の悪寒に襲われて、反射的に芹沢の手を振り払っていた。縛られた手が無意識に動いて、自分の身を守るように身をかがめる。全身をびっしりと鳥肌が覆い、心臓がばくばくと嫌な音を立てていた。
触れられた瞬間、否応なしにフラッシュバックした。肌をまさぐられる感触、ナイフが皮膚をひっかいていく痛み、舌と、刃と、歯と、性器の感触。
青ざめ、口元に手を当てている俺を、今度は問答無用の強さで芹沢が引き寄せた。吐き気におののいて硬直したままの俺の耳元で、芹沢がいやらしい笑いを含んでささやく。
「そういうさァ、反応されると何かしたくなるなぁ……」
「…………っ」
「でも、残念。時間がないんだ」
芹沢の笑い声が再び耳に吹き込まれ、唇を噛みしめる。顔を伏せて黙ってついてくるようにと言い聞かせ、芹沢は俺の肩を無理やり抱きよせた。
再び鳥肌が全身を覆ったものの、先ほどの衝撃に比べればましだった。目を閉じて恐怖と屈辱に耐え、芹沢に連れられるまま足を動かす。
玄関を出て階段を降り、アパートの外へ出る。吹き付ける寒風にさらされても、大きくて重い防風仕様のジャンパーはめくれあがったりしない。
外へ出ても、俺は素直に、顔を伏せて唇を引き結んでいた。……分厚いジャンパーの下で、芹沢の手がしっかりと俺のわき腹にナイフを突きつけていたからだ。
芹沢に上体を持たれかけさせるようにして歩く俺は、はたから見れば、具合が悪くて介抱されている人のように見えるのだろう。芹沢もご丁寧に「大丈夫?」だの「歩ける?」だのこまめに声をかけている。そのせいで、アパートから出て道を横切る際、すれ違った近所の住人にも、視線を向けられただけで何も言われなかった。悔しさにゆがんだ顔も、苦しさに耐えている表情として取られたに違いない。
一体どこへ連れていかれるのかと、顔を下げたまま注意深く足元の道路を観察していたが、芹沢がまっすぐアパートの駐車場に向かっていることに気が付いて、怪訝に思った。
芹沢は今朝、単独で逃げてきたばかりだ。車など持っているはずがない。
(盗む気か?)
これから盗むのであれば、隙をついて逃げられるかもしれない。そう考えた直後に、予想は裏切られた。芹沢がポケットに突っ込んだ手を抜くと、その手には車のリモコンキーが握られていた。ピッ、と軽快な音とともに、近くの車のロックが解除される音が響く。芹沢は目の前にあったシルバーのセダンに歩み寄り、「乗って」と、助手席の扉を開けた。
まさか、車を用意しているとは思わなくて、俺は一瞬乗るのを躊躇った。
車を盗む気なら隙を突ける。もし徒歩で移動するなら、警察が厳戒態勢を敷いている深御市から出るのは難しいはずだ、そう思っていた。
だけど、車を使って遠くまで、例えば人気のない山にまで連れていかれてしまったら。そうなったら、逃走は格段に難しくなる。
顔を引きつらせる俺のわき腹に、ちくり、と鋭い痛みが走った。見れば、人畜無害そうな笑みで芹沢が俺を見下ろしている。手には隠し持ったナイフを持ち、それで俺の腹を小突きながら。俺は仕方なく、出迎えるように扉の開かれた車の助手席に体を滑り込ませた。
芹沢の手が離れると、あからさまに体がほっと弛緩するのが分かった。とはいえ、警戒状態はまだ続いているが、それでも芹沢に触られているときの嫌悪感とは比べようもない。
俺が座席に座り、指示に従ってシートベルトまできっちり締めたのを確認すると、芹沢は慌てるでもなく、普通の足取りで運転席に回る。その間、俺は車内をぐるりと見渡したが、全体的に使用された痕跡がないことに気が付いた。
盗難車なら何かしら、前の所有者が残したものがあると思ったのだが、綺麗さっぱり何もない。しばらく使われていなかったのか、ダッシュボードには埃が積もっている。未使用車だろうか。ますます、この車をどうやって芹沢が手に入れたのかわからない。
首を伸ばし、助手席の後ろまで覗き込もうとしたところで芹沢が運転席に乗り込んできたため、俺は慌てて首をひっこめた。
「……うん、よし。両手はシートベルトの下から出さないでね」
「おい。この車、どうしたんだ」
芹沢は、拘束された俺の腕が見えないよう、そして俺が容易に立ち上がれないよう、ジャンパーでくるんだ上からシートベルトをきっちりかけ直す。俺の問いかけを綺麗に無視して、さっさとエンジンをかけて車を発進させた。
なめらかな動作で車は細い路地から大通りへ出ていく。町の中心部とは逆方向にハンドルを切った車は、そのまま市の郊外に向かう道路をまっすぐ進んだ。
俺は期待しながら、車の窓の外をじっと眺めていた。あまり目立つ動きをすると芹沢に何をされるかわからないため、チラチラと観察するしかなかったが、不幸なことにすれ違う道に警察官は見つけられなかった。パトロールするパトカーの姿も見つからない。
浦賀からのメッセージでは、深御市の学校に集団下校するように連絡が入ったとあったから、芹沢が脱走したことはすでにニュースになっているはずだ。だから、警察も市内をパトロールして回っていると思ったのだが、これはどういうことだろう。
あまりにも外ばかり見ている俺に気が付いたのか、芹沢が笑い交じりに答えた。
「警察は俺が車を持ってるなんて知らないから。もっと俺が逃げたところに近い場所を探してるよ。市内全域に捜査の範囲が及ぶのはまだ先じゃないかなァ」
「お前、どうやって車なんて……」
「ツいてたんだよ。今日連れてかれたところの近くにセーフハウスがあってさ……あ、俺のじゃないよ。俺の面倒見てくれてた人の。丁度いいかなって思って試しに逃げてみたらうまくいっちゃって。セーフハウスで一通り手に入っちゃったから、勢いそのまま吉野さんちにきちゃった。死ぬ前に一目でいいから、吉野さんに会いたいな~って。願い事って叶うもんだね」
芹沢は「神様ありがとう」とのたまってその場で合掌する。そんな宝くじばりのラッキーを犯罪者にプレゼントする神なんて、人類の、少なくとも警察官の敵だ。
俺は一度、意識的に大きく息を吸って、長く吐きだす。冷静さを失わないように気を付けながら、そっと探りを入れた。
「……“面倒見てくれてた人”ってのは、その筋の人間か?」
「そういうこと」
これまで長らく黙秘を続けていた割にあっさりと肯定され、思わず俺は芹沢の顔を振り返ってしまった。
深御市の隣県には指定暴力団本部があり、特に県内最大の都市である深御市繁華街に深く組織の根を張っている。
芹沢一人では到底できないような手の込んだ潜伏・逃亡のやり口から、何らかの反社会勢力と芹沢が繋がっていることは早くから疑われていたが、本人が黙秘していたためはっきりとした証拠は得られていなかった。
芹沢を逮捕してから数十日、捜査員たちが聞きたくても聞き出せなかった情報。それがこうも簡単に手に入ってしまった。その事実に、俺は喜びや達成感よりも不穏な空気を感じた。
死ぬ前に一目でいいから、と芹沢は言った。情報を吐くのに抵抗がないのは、どうせ死ぬのだと自暴自棄になっているからではないか。その道行に付き合わされている俺は、この男の道連れにされるのではないか。
全身に、腹の底から凍るような怖気が走った。そんな最期は死んでもごめんだった。
自分が、この男の死の添え物のように扱われるのは我慢ならない。そんな屈辱があってたまるか。
(そうだ、むざむざ死んでたまるか)
怪しい非公式組織に所属してはいるが、腐っても自分は警察の人間だ。
俺の職務は、芹沢に殺されることでも、怯えてただ縮こまっていることでもない。芹沢を再び牢屋にぶち込んで、法の裁きを受けさせること。哲生の遺体も含め、殺された被害者を一人残らず見つけ出すことだ。
そして、叶うならば。哲生を悼む桂木をそばで支えたい。俺に許される範囲で。
自分の望むもの、やるべきことが見えた瞬間から、自分の中に一本、ぶれない芯が通った気がした。ふつふつと体の奥から沸き上がる何かが、恐ろしさや怯えといった、思考を曇らせていた何もかもを溶かしていく。
今目指すことは一つ。何が何でも生きて帰って、事件を解決しなければ。
(それなら、まずはやることは一つ。この状況からの脱出だ)
俺は表情を変えず、先ほどと同じ姿勢で窓の外を見ながら、必死で考え始める。
生きて帰り、事件を解決するためにはまず、芹沢から逃げることが最低限かつ最重要の条件だ。このまま一緒にいて助かる可能性は、かなり低い。警察の救助が間に合うとは思えない。
まずは逃げて安全を確保すること、そののちに、支援班……警察への通報だ。通報手段も考えなくてはならないが、それは後回しだ。このまま手をこまねいて、人里離れた山にでも連れていかれるのが怖い。以前拉致されたときのように、逃げても周囲に誰もいなければ、通報もできないし助けを求めることもできない。
やはり、できるだけ迅速に脱出がすることが第一目標だ。
(……できれば、生きていたいけど。もし無理そうなら、居場所だけでも伝えたいな)
ふとそんな考えが脳裏をよぎったが、感傷的な考えを今は捨てることにした。二重に拘束され、走る密室に閉じ込められているこの状況を突破することだけに集中する。
(……トイレに行きたいとか言ってみるか? いやでも、そんなのこの状況で言ったって、逃げる気満々だと思われるのがオチだろ)
考えてばかりいても状況は変わらない。トイレは確かにあからさますぎるが、芹沢から情報を引き出して突破口を探るのは妥当な手段だと思う。今俺にできることといえば、周囲を観察することと、しゃべること、そして聞くことだけだ。
(ぶっちゃけ口をきくのも癪だけど、まずはとにかく、会話だ。なんでもいいから情報を集めないと)
よし、と胸の内で覚悟を決める。芹沢に気取られないよう、深く息をつき、口を開いた。
「……それで、この車はどこに向かってるんだ。どこまで行くつもりだ?」
腹をくくったせいか、思ったよりなめらかに声が出た。その自然な調子に安堵しつつ、芹沢の反応を窺う。芹沢は、なんの気負いもなく答えた。
「ひーみつ。着いてからのお楽しみ」
「……事件の全貌とかいうのも、目的地に着いてからか?」
「そう。だからそれまで、余計な事して殺されたらだめだよ? 俺に」
次なる質問を口にしようとしたその時、いきなり芹沢の左手が俺の顔めがけて伸びてきて、びくり、と肩をすくめる。殴られるか、ナイフを突きつけられるか、びくついた俺をからかうように、芹沢の指は緩慢に俺の頬を撫でただけでひっこめられた。
俺はその手を追いかけるように、きつく相手を睨みつける。芹沢は俺と目を合わせ、柔らかく、でもどこか嘲るように笑った。
「おしゃべりも、詮索好きも、ご自由にどうぞ。なんだって受け入れちゃうよ、大好きな吉野さんのことだもん。でも、逃がすことだけは絶対にしない。逃がすくらいなら殺す。殺して食べて、俺のものにする」
俺の魂胆なんて全部お見通しと言わんばかりの言葉に、心臓を冷たい手で掴まれたような心地がした。思わず息が止まる。先ほど自分でくくった腹がもう緩みそうだ。
けれど、こんな男にねじ伏せられたくないという意地が、揺らぎそうな決意を支える。睨みつける目元に力をいれ、俺は竦みそうになる心を懸命に奮い立たせた。
「そうかよ。なら、“おしゃべり”と“詮索”ぐらいならお前に殺されないってことだな?」
「答えるかどうかは別としてね」
勝気に笑って言葉尻を捕らえれば、何がおかしいのか笑い交じりにあしらわれた。上等だくそ野郎。
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