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06

   それから勢い込んで質問を投げつけたものの、結果として脱出につながりそうな情報は得られなかった。どころか、状況がさらに悪化した。  今俺は、ジャンパーでぐるぐる巻きにされた状態で、視界すら奪われて後部座席に転がっている。  道中通りがかった人気のないパーキングエリアで、芹沢は俺をいったん助手席から降ろし、後部座席へと移動させた。手足の拘束は新たにしっかりと追加されたし、ジャンパーのパーカーで目元も覆われている。どうして今更、と抗議の声を上げると、芹沢は憎たらしい笑みとともに答えた。 「アパート前で乗せるときは、まだ病人ロールプレイの途中だったしね。病人簀巻きにはできないでしょ」  そこから先は、周囲の観察もできなくなり、道路標識で把握していた現在地もわからなくなってしまった。  口だけは自由だったため、懸命に会話を試みたが、役に立ちそうな情報は出てこなかった。せいぜいが、芹沢の逃げた場所が深御市南に位置する隣町だったことと、アパートには大家の家に押し入って手に入れたマスターキーを使って侵入したことぐらいだ。  そして、どのくらい時間が経った頃だろうか。  俺は縛られた体をよじって、不自然な姿勢のせいで痛みはじめた肩や脚をずらす。喉も口もカラカラで、重くしびれて熱っぽい。聞き出したいことも底をつき、何よりしゃべりっぱなしの喉が疲れて、力尽きたように口を閉ざしてから、もう随分経ったような気がする。  ぼんやりする頭で俺は、その違和感に気が付いた。 (……外が、暗い?)  芹沢に話しかけていた時は目隠しされていても外の光が認識できたのに、今は墨を流したかのようなのっぺりした黒が目の前に広がっている。どうやら、肉体的にも精神的にも疲弊していたところに視界が閉ざされて、無意識のうちに居眠りをしてしまったらしい。  おい、とか、ここはどこだ、とか、運転席にいるはずの芹沢に問いかけようとして、俺は激しく咳こんだ。酷使したうえに水分も取らなかった喉がうまく動かない。 「……あ、おはよぉ、吉野さん。よかった、もう少しで着くから、起こそうと思ったんだ」  間延びした声は芹沢のものだ。げほげほと咳をしながら、着くってどこへだ、と疑問を抱いたその瞬間、全身に一斉に鳥肌が立った。  身にまとう服を通り抜け、ざわりと何かが無防備な素肌を撫でた気がした。不穏な気配、何かが待ち受けているという予感。この感覚を俺は何度か味わったことがある。 「……ここ、哲生さんの遺体を埋めた場所なのか」  呆然として呟いた問いかけに芹沢は甲高い声で笑った。 「あたり! 良くわかったね。そうだよ、今からあの男の、頭を埋めた場所に行くんだ」  目を見開いて、絶句した。その間も、車は道を突き進んでいく。車体の揺れがガタゴトと大きくなり、車の外からはざわざわと木々の揺らめく音が聞こえてきた。一筋の不気味な鳥の鳴き声が、びょう、と長く響き渡る。その中に、何かのおぞましい気配がちらちらと交じり始める。  俺は、フードで隠された真っ暗な視界の中で思った。ここはもう住み慣れた町の近くではない。人の死体を隠すに適した、どこか遠くの。  ―――きっと、山だ。  ほとんど確信に近い直観だった。そしてなぜだか、とても嫌な気配がした。車体の外に広がる空気は、山林に囲まれ、街中よりも澄んでいるはずなのに、淀んだ、饐えた空気に満ちているような、そんな気配がする。 (ここは……嫌だ。落ち着かない) 「ど―――どうして、俺をここに連れ来た。そもそも、これに何か意味があるのか? お前は、何がしたいんだ?」  言葉にできない嫌な気配から少しでも逃れたくて、あえぐように叫んだ。どうして自分がこんな目にあっているのかわからなかった。事件の真相をネタに俺を脅して、こんなところに連れてきて、一体芹沢は何がしたい。  殺して食うだけなら簡単だろうに、わざわざ危険を冒してこんな回りくどいことをする意味とはなんだ? 「それは……えへへ。吉野さんだからかな」  芹沢は照れたような笑い声をあげる。まったく意味が分からない。わからないのに、俺の肌にはさらにくっきりと鳥肌が浮かぶ。この状況にまったく不釣り合いな、幸せに満ち足りた声音の異様さに、怖気を覚える。 「吉野さんは特別だから、死ぬ前に全部教えてあげたいなと思ったんだ。知りたいでしょう? 俺も知りたい。すべて知った時の吉野さんはどんな顔をするのか。……吉野さんは俺の、初恋の(あいて)と同じ指を持っているから」 「はつ、こい?」  少なくともそれは、俺の知っている“初恋”とは遠くかけ離れたものだった。  芹沢は、小刻みに振動する車内で、静かなのによく通る声で語り始める。  運命の瞬間は、何の変哲もない、お昼の給食の時間に訪れた。小学生の時だった。芹沢はその指に出会った。  芹沢のもとに配られたシチューの深皿の底に、それはあった。人の指。指の付け根から切断された指が、煮込まれた人参やじゃがいもの間に転がっていた。  綺麗で、ほっそりしていて、長くて、少し骨ばっていた。作り物かと見まごうほど整ったそれには、本物であることを主張するかのように、根元のあたりを小さなほくろで飾っていた。 「ほかの誰の皿にも入っていない。それは俺だけの特別なものだったんだ。誰にも見せたくなかった。だから、食べたんだ」  芹沢はいつぞや、俺の指にほくろがあると言っていた。つまり俺の指が、初めて食べた指に似ていたということだろう。  芹沢はその時食べた指の味に魅了された。それは年齢を重ねても変わらず、アングラなサイトで同好の士と交流したり、相手との同意のうえで食人行為に及んだりと、そちらの世界へのめりこんでいった。その過程で知り合った人物から、非合法な仕事を融通してもらうようになり、そのうち、やくざの死体処理や拷問といった仕事を下請けとして引き受けるようになっていった。 「でもさ、食べたい人と、食べられたい人って、どうしても食べられたい人のほうが少ないんだよね。それに、食べられたい人はほとんど“一度きり”なんだ。中には死なない程度に体を切り売りして、何度も提供している人もいたけれど、それでも足りない。だから、誰かを襲うしかない」  まるで仕方ないとでも言いたげな口調だった。じりっと焦げ付くような怒りを覚えたが、いまさら俺が説教したところで、狂った人間に一般常識は通用しない。 「通りを歩いて物色するんだ。線が細くて、肌がきれいで、できれば手も綺麗そうな……。哲生、だっけ? あの男もそうやって見つけたんだ。あとは、運よくターゲットが人気のない場所に入れば、そこで襲う。いつもみたいに、すぐに殺すつもりだった。……でもあの男は、俺に、殺す間際だっていうのに、俺に頼みごとをしてきたんだ」  それまで熱に浮かされていたような声が、急激に冷めていく。徐々に過去の記憶にのめりこんでいくように、平坦な口調で芹沢は語り続ける。俺はいつしか息をひそめ、その声に聞き入っていた。 「命乞いも、泣き叫びもしなかった。ただ、熱心に頼むんだ。自分は抵抗しない。だけどその代わりに、自分をある場所で殺して欲しい、って。目の前のさァ、自分を殺そうとしている奴に、普通そんなこと言える? 俺も、そんな反応するやつ初めてだったから、面白いなと思って、乗ってやったんだ。そしたら、連れてこられた。……ここに」  じゃりじゃりとタイヤで砂利を踏みにじりながら、芹沢は車を止める。妙に車が揺れると思ったら、いつの間にか未舗装の道を通っていたようだ。  芹沢が運転席から降り、後部座席の扉を開ける。寝ころんだ俺の頭上に吹き込んでくる冷たい空気に身を縮こまらせると、芹沢の腕が俺の体を引き起こした。  目隠しのフードも取り払われ、車の外に広がる夜の森が視界に飛び込んでくる。冬の凍てついた空気の中でも、その独特の湿気た香りは変わらない。  ここが、哲生の埋められた場所。哲生が、自らを埋めて欲しいと芹沢に頼んだ場所。 「……どうして、哲生さんはそんなことを」 「さぁ?」  理解不能のあまりに呆然とする俺の体から、芹沢は拘束を取り除いていく。数時間ぶりに自由になった体で、俺は砂利の混じった山の土を踏みしめた。相変わらず、不気味な気配は周囲を不穏に漂っている。木の枝が折れる音、だしぬけに響く鳥の鳴き声。何かが木立の奥に潜んでいるような気がして、音がするたびきょろきょろとあたりを見渡してしまうのに、芹沢はそれらになんの興味も示さなかった。  暗闇が、そこに何があるかわからないという不安が、芹沢には恐ろしく感じないのだろうか。  車を止めた場所は、先ほどまで俺たちが登ってきた道の横にある、車が何台か止まれそうなほどの平たいスペースだった。整備された様子はなく、雑草も好き放題生えていて、ただ単に地形の問題で空間が空いているだけのように思える。  道の両脇には背の高い木が生い茂り、遠くまで見通すことができない。頼りない街灯に照らされているのは、未舗装の道と周囲の木々のみ。  その木々の隙間に一か所だけ、規則正しく並んだ木の幹が途切れている箇所があった。その切れ目に吸い込まれるように目線を奪われていた俺の背中に、とがった何かが突きつけられる。 「そこに道があるでしょ。そのまま、進んで」 「…………」  木々の間の切れ目は、細い道だった。自然公園の遊歩道のようにごつごつしていて、革靴では歩きづらいだろうが、進めない程でもない。  俺は芹沢の持つライトで足元を照らされ、わき腹はナイフの切っ先で突かれながら、ゆっくりその道へと足を踏み入れた。  冬の夜。空気は冷えきっているはずなのに、今日はたまたま気温が高いのか、凍えるほどでの寒さではない。だが、その中途半端な温かさがかえって、この大きな山自体が巨大な生き物であり、その体温や、鼓動や、息遣いが、そこら中に満ちている妄想を掻き立てる。俺はおさまらない腕の鳥肌をこらえながら進んでいた。  この山は落ち着かない。怪異の気配に敏感に反応するようになった自分の全身が告げている。  そこかしこに何かがいるような気配がするのだ。  雑多に、何か目的があるでもなく、ただざわざわとそこら中で蠢いている。哲生の遺体が埋められた影響で、この山もまたおかしくなってしまったのだろうか。 (……だけどどうして、哲生さんは、自分からここに埋められることを望んだんだ?)  普通に生きてきた人が、どこかの山に埋められたいなんてそんなことを望むだろうか? 家族の墓に入りたい、とか、美しい海に灰を撒いてほしい、とか、そんなありふれた願いとは違う異常さがそこにはある。 「その道、左のほうに進んで」  道が二手に分かれている場所で、芹沢は後ろから指示を出す。二股に分かれた道は、右のほうがまっすぐで、左のほうはぐねぐねと蛇行しながら斜面の上へと続いている。しかも左の道は、右の道に比べて道そのものが分かりづらく、草や木といった自然の浸食がすすんでいて歩きづらそうだった。  そのつづら折りの急な道を登りきると、やや開けた場所に出た。木々が器用に避けて生えたかのように、そこには何も生えていない。右手には急な登り斜面を藪が覆っている。対して左手は、崖と言って差支えないほど急な下り斜面だ。下からはかすかに水の流れる音が聞こえる。近くに川でもあるのだろう。  この一角だけ木々が生えていないせいか、上空からは枝葉に邪魔されることなく月の光が降り注ぎ、灯りが無くてもぼんやりとすぐそばの芹沢の姿が見て取れるほどだった。 「…………」  俺は自然と、その場所で足を止める。ここから先に進む道がなく、行き止まりだからということもあるが、それだけではなかった。  この場所で間違いない。ここに、哲生が埋まっている。

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