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08
芹沢は一瞬目を瞠って沈黙したあと、爆ぜるように笑いだした。あはは、あははは、と小刻みな哄笑が静かな夜の山に響く。
物の怪じみたその笑いはなかなか止まない。芹沢は馬鹿にした表情でこちらを嘲っていたが、俺はぴくりとも表情を変えなかった。地面に手を突き、肩越しに振り返ったまま動かない。
芹沢が馬鹿にしようがしまいが、事実は揺るがない。冷めた俺の目に感化されたのか、徐々に芹沢の笑いが小さくしぼんでいく。
やがて笑いを完全に消し去り、代わり苛立ちをあらわにした芹沢は、煩わし気に頭を掻いた。
「あー……あー……。まァ、そうだとしてさ。百歩譲って、哲生の遺体が腐らないのが本当だとしてさ。それが何だっていうの?」
「あんたは、哲生さんが怖いんだ」
手のひらを握りしめ、乾いた唇から言い放つと、視線の向こうで芹沢が表情を失くした。
それを認めるやいなや、芹沢はたった数歩で俺との距離を詰め、能面のような無表情で俺の肩に手をかけると荒々しく胸倉を掴む。
こうなるとわかっていた俺は、それでも逃げなかった。代わりに、握りしめていたシャベルを振りかぶって思い切り芹沢の頭を打ち付けた。
がつん、と肉と金属のぶつかる音が響く。
振りぬいたシャベルの刃は、こめかみを垂直に打ち据えるはずだった。だが、俺の目に映っていたのはこめかみではなく、寸前で掲げられた芹沢の腕だった。
はっと目を見開いた俺を、ぎらついた目の芹沢が平然と見下ろしている。隙を突いた反撃が少しも効いていないことは明らかだった。
もう一撃とシャベルを振りかぶるよりも早く、掴まれた胸倉が引き上げられ、殴るように地面に叩きつけられた。
背中を強く打ち付けた俺が息もできず悶えている間に、芹沢があっけなく俺の手からシャベルをもぎ取る。そのまま馬乗りになられて、身動きを封じられた。
「せりざ、……っ」
「口をきくな」
とっさに話しかけて時間を稼ごうとした俺の頬を、芹沢が平手で殴る。すさまじい衝撃と痛みが頬で破裂して、とっさに目をつぶる。続けざまに数発、顔にこぶしが叩き込まれた。綺麗に顎に入った一発に、数秒意識がブラックアウトする。
気が付けば、芹沢が俺の胸倉を掴み上げ、何かをわめき散らしていた。
頬を張られたときに耳までやられたのか、ぼわんぼわんと反響するばかりだった聴覚がようやく機能を取り戻す。
ヒステリックな芹沢の声の意味を理解すると同時に、かすみのとれた視界に映る芹沢の顔に、知らず自分の唇が歪む。
「俺が―――あいつを、怖がるはずがない! だってあいつは俺が―――殺した! 刺してバラバラにして埋めた。俺が殺したんだ!」
「……せりざわ、お前、じぶんが、今どんな顔をしてるかわかるか?」
芹沢の顔は傑作だった。口の中の切り傷からこぼれてきた血を気にも留めず、俺はにっと笑う。たまらなくおかしかった。
俺に言われて苦々しげに唇をかむ芹沢の顔は、今まで見たことがないほど動揺していた。いつもふてぶてしく、冷静だった瞳が小刻みに揺れている。額はうっすらとかいた汗でわずかに光っていた。
「……うるさい!」
「……相手を殺して、それで支配した気になってたんだろ。人を食べたいとかなんとか言ってるが、結局、相手を殺して自分が優位に立ちたかっただけだ」
「そんな一般論聞きたくないんだよ!」
「聞こうが聞くまいが、お前がただの一般論で片づけられる犯罪者なことに変わりはないんだよ!」
怒鳴り散らしながら放った右フックはぎりぎりのところで芹沢の腕にはじかれる。
頭上から俺の両手を押さえつける芹沢の顔が、怒りで醜く歪んでいた。血走り、眼を剥き、こちらを射殺さんばかりに見下ろすその視線を正面からとらえる。
鬼のようなその表情は殺人鬼と呼ばれるにふさわしいのかもしれないが、むしろ俺にはこちらの表情のほうが鬼というより人に近いように思えた。
人とは思えない感性ですべてを嘲っていた芹沢が、今はただありふれた犯罪者だ。
「あんたは哲生さんを支配できなかった。哲生さんは、ただの死体みたいに腐ったりしない。今もそこにいる。まるでまだ生きているみたいに」
今までにないほど動揺する芹沢も異様だったが、それは俺も同じだった。
こんな状況にもかかわらず、言葉を止めることができなかった。出てくる言葉が本当に自分のものかすら怪しい。まるで誰かに口を乗っ取らているかのように、何かに魅入られているかのように、夢中で言葉を紡ぎだす。
「この頭がバラバラになった遺体の最後の一つだ。哲生さんの体がそろったらどうなるのか。きっと、バラバラだったことなんて嘘みたいにまた動き出すんじゃないか、」
「やめろ、やめろ!」
「……どうして哲生さんの遺体が腐らないのか、ようやくわかった。それに、お前が哲生さんの遺体をバラバラにした理由も」
その言葉に、芹沢は虚を突かれたように無防備な表情になる。俺が何を言っているのか、本気でわからない、そんな表情だった。
その顔を俺は真下から見上げる。
「哲生さんは、お前を恨んでる。それが怖かったから、お前は哲生さんをバラバラにして、離れた場所に埋めたんだ。死んだ人間が―――蘇 らないように。蘇って自分を殺しに来ないように。……念入りに」
「は―――……」
すぅっと。怒りに赤く染まっていた芹沢の顔が青ざめたように見えた。すぐさま、食いしばった唇から、「違う」という否定の言葉が飛び出す。だが、虚勢を張る言葉がばかばかしくなるほど、その目には恐怖が浮かんでいた。
と、つい今しがたまで歪んでいた顔が唐突に真顔に戻り、俺はわずかに目を瞠る。
すわった眼差しも、いきなり冷静さを取り戻したその態度にも、言いようのない不気味さを覚えた。
まっすぐに俺を見下ろす芹沢の、真一文字に結ばれた唇がほどかれる。
「怖い? そんなわけがない」
虚ろな声に、嫌な予感が膨れ上がった次の瞬間、芹沢の手が蛇のような動きで俺の首を捉える。抵抗する間もなく、すさまじい力で両手の輪が絞められて、俺は背を弓なりにして藻掻いた。芹沢の手に爪を立てるがびくともしない。
「そんなわけない。そんなこと言う吉野さんは可愛くないよ。少し躾けて、お行儀のいい口にしなくちゃ」
「…………っ、……!」
必死にあがく。だけど、その苦労もむなしく徐々に苦しさが増していく。
頭が破裂しそうな痛みに、目の前が真っ赤になる。
痛覚以外の感覚が鈍くなり、意識を手放しそうになる間際、突如耳に飛び込んできた奇妙な音が、俺の意識を引き戻した。
甲高く不気味に響く声。何度も聞こえてきたあの不気味な鳥の鳴き声だった。
動揺した芹沢の手から力が抜け、せき止められていた血液と空気が一気に循環し始める。
苦しみ、咳こみながらも、俺はやみくもに半身を起こして体当たりする。
バランスを崩した芹沢に馬乗りになろうとして、逆に地面に転がされる。
地面に置かれた懐中電灯の光に照らされ、取っ組み合う俺と芹沢を映し出す。くっきりした光と影が視界を乱舞した。
押し負けた俺が地面に背中を打ち付け、頭上から芹沢にのしかかられたそのとき、しわがれた声の小さな悲鳴が頭上から聞こえてきた。
見上げれば、俺の上で芹沢が顔を上げて固まっている。体は微動だにせず、地面に仰向けになった俺の頭上あたりを見ているようだった。
「あ…………」
その体が頼りなく揺れたかと思うと、視線の先から顔をそらせないまま、芹沢はぎこちなく後ずさった。俺の存在など見えていないかのような行動に呆気に取られて、俺は上体を起こして芹沢の視線の先を追う。
旋回した首の周りを、すぅ、と冷たい空気がなぞっていくのに俺は気が付いた。
振り向いた先で、地面から、丸い何かが覗いていた。
俺がさっきまで掘っていた穴がそこにある。掘り起こされた土がその横に山になっていて、穴の中には、盛り上がった土塊のようにも見える何かがあった。
だがそれは土ではない。
月明りをつやりと反射する黒い毛束が纏いつき、土汚れのひとかけらもついていない陶磁器のような表面は白く、ぼうっと発光しているようにすら見える。
まるで水面から半端に頭を出したかのように、それは顔の左半分だけを地上に見せていた。
そして、見る者の視線をくぎ付けにするそれ。
ふっくらとした下瞼に覆われ、半月の形になった目が、地平線から上る月のように、地下の穴から地上へと、その姿を覗かせている。
黒々とした、妖艶な、目だった。
「……あっ、……あァ」
背後で、呆けたような悲鳴が聞こえた。芹沢だった。
尾を引くように悲鳴が途絶えたかと思うと、くっ、と小さな喉音が聞こえる。
それはやがて吐息交じりの含み笑いになり、徐々に空気を震わせる哄笑に変わっていく。その狂気じみた声にも、俺は振り向くことができない。ただ、目の前の半月の瞳から目をそらせない。
そんな俺の背後で、とうとう芹沢の叫び声が爆ぜた。
―――なんだ生きてたのか! 生きていたのか! と、馬鹿になったかのように、そのフレーズを何度も、何度も繰り返す。手をたたき、噎せるような笑い声を時折響かせながら。
そして唐突に、そのガラスをひっかくような不快な笑いが止んだ。
「ならもう一度殺さなくちゃ」
もはや笑い声とも呼べない、悲鳴のような声で叫びながら、俺の横をすり抜ける。足音荒く、芹沢は駆け寄っていく――――首へ、哲生の首のある場所へ。
「やめろ!」
止めようと叫び、地面から立ち上がった時にはもう、芹沢は穴のそばにたどり着いていた。目の前で芹沢は、地面に半ば現れた首の、つやのある髪の毛をむんずと掴む。
「生きてるなら、もう一回殺せばいいんだ。今度は、形も残らないくらい―――ぐちゃぐちゃに、潰してやるよ!」
叫んで、芹沢は首を掴み上げた腕を振りかぶる。ちょうどその腕が高々と掲げられた時だった。
――――――すぅ、と、口笛のなりそこないのような音が、妙にくっきりと耳に届いた。まるで、誰かが何か言葉を発しようと、息を吸い込んだ時のような。
芹沢の動きがぴたりと止まる。
まじまじと、芹沢は自分の手に持つ首を見つめた。
不思議と、離れたところにいる俺にも、その首が息を吸い込んだように聞こえた。
首は芹沢に乱暴に扱われても、半月の目をピクリともさせずそこにある。
芹沢がそっと、目線の高さを合わせるように、その首を持ち上げた。
と、その白く端正な顔が、ふわりとほころぶように微笑んだ。
―――――あ、
さっと筆で撫でたような薄い唇が、そのあわいを開いて音を発する。
モノクロの髪と肌に、淡く色を乗せるかのような艶めいた声に背筋を震わせたのもつかの間、小さな唇は徐々に開かれていき、幽かだったその声は長く、大きく、膨れ上がっていく。
あ、あ、あああああ――――――……
ついにそれは嘲笑になって破裂した。
あはははははは、と大口を開けて生首は笑う。目の前で目を見開いている芹沢に向かって、怯えた目で身動きすらできない男を嘲笑うがごとく。
ああは、ああぁあははあは、あああははははははははははぁはははは―――……
その口が、顎が、美しい顔が破壊されていくのにも構わず、人ならざる域まで大きく開かれていく。
真っ赤に燃えるような口内の粘膜がてらてらと光る。
炎のように揺らめく舌にあぶられるように、芹沢は、うわぁっと叫び声をあげて首を取り落とした。
どさり、と地面に落ちた首は、なおも笑い続けていた。ごろり、と転がってもその目はひたと芹沢を追い続けている。
その間も嘲笑は止まらない。
あははは、あははは、とひたすら、気分の悪くなるような哄笑を、子供のようにあどけない、邪悪な顔で、青年の首が笑う。嗤う、嗤う――――――。
絶叫は、一瞬誰の口から発せられたものかわからなかった。だが自分の歯がカチカチと小刻みに鳴っていることに気づき、その叫びは少なくとも自分ではないと思い当たる。
叫び声の主は芹沢だった。芹沢が、絶叫していた。
やめろ、笑うな、とわめきながら芹沢は耳を塞ぎ、身をよじらせる。だけどその目だけはかっと見開かれ、自分を嗤う首からそらすことができない。おぼつかない千鳥足で後ろも見ずに後ずさる。
それは、あっという間だった。
あ、と思った瞬間、絶叫が途絶えた。目の前で芹沢の姿がふっと掻き消える。そのいきなりの消失に、わずかに目を見開くのと同時に、遠くから、ど、っという重く湿った音が聞こえた。
俺は、芹沢が消えた急斜面の向こうに広がる闇夜を見つめていた。
いつの間にか、禍々しい哄笑は止んでいた。
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