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09

 どれくらい時間が経っただろうか、俺は震える手でその辺に転がっていた懐中電灯を掴むと、おぼつかない足取りで芹沢の消えた急斜面へ近づく。  下生えに覆われた地面は、どこからが崖の始まりなのかぱっと見ではわからない。手探りで淵を見つけ、暗い下を覗き込んだ。  懐中電灯を左右に振るが、光が照らし出すのは斜面の途中から生えた木々の枝ばかり。つまり、簡単には底が見えないほど斜面は下へ下へと深く続いているのだ。  それを理解した俺は、覗き込んでいた体を起こして、その場に立ち尽くした。水の音だけがさらさらと、場違いなほど清らかに耳に聞こえていた。  つい先ほどまで悪意にまみれた笑い声に苛まれていた耳が、ことさら敏感に静かな山の音を拾う。  風が木々を揺らす音、遠くから聞こえる水のせせらぎ。その中に、かすかに別の音が混じり始めたことに気が付いた。  規則的に刻まれる、土を踏みしめる音。人の足音だとすぐにわかるリズムだ。その音を追うように周囲を見渡せば、木々の間を一瞬白い閃光が走り抜ける。その光は足音とともにゆれ、こちらへ近づいていた。  誰かがやってくる。こんなところに、誰が何の用なのかと考えを巡らせる気力は俺にはもうなかった。  俺は棒立ちのまま、強烈な光を正面から浴びせられるのを黙って受け入れた。一瞬見えた人影は、閃光に塗りつぶされて見えなくなる。まぶしさにとっさに片手で目を覆った。  山道を登ってきたせいか、相手の弾んだ呼吸の音が聞こえる。少なくとも相手は人なのだ、とぼんやり考えていると、その人影が光を下ろし、ざくざく足音を響かせてこちらに近づいてきた。  自分の足元に転がった懐中電灯の照らす光に映し出されたその人物は、自分がよく見知った男だった。 「……桂木さん」  かすれた声で名前を呼んだ。どうして彼がここにいるのかと、呆然と相手を見つめるばかりの俺に、桂木は息を荒げながら歩み寄る。 「……吉野さん、芹沢は、哲生は?」  切羽詰まった様子の桂木に尋ねられたが、何も答えられなかった。本来なら、どうして芹沢や哲生のことまで桂木が知っているのか疑問に思うだろうが、あまりにも様々な出来事が起こりすぎて深く考えることができない。  自分が陥っているこの状況に理解が追いつかず、そしてそれらをどう伝えればいいのかもわからず、ただ必死な様子の桂木の勢いに押されて、自分が崖の間際にいたことも忘れて後ずさった。 「……うわっ」 「……!」  間一髪というところで、追いついた桂木が俺の腕をつかんだ。崖の向こうへ傾きかけた体が引き寄せられる。  内臓を持ち上げられるような浮遊感にぞっとし、その衝撃で意識がようやく現実に戻ってくる。俺ははっとして桂木の顔を見上げた。 「か、桂木さん……! どうしてここに」  困惑した問いに答えることなく、桂木は俺の肩越しに背後の崖を見て、もう一度俺に視線を戻した。  どうしてだか、この時初めて、ここにいる桂木が俺を見てくれたような気がした。 「吉野さんこそ、どうしてこんな危ないところに……。大丈夫ですか、どこか怪我は?」  熱に浮かされたような口調がいつもの調子に戻り、俺の体を心配そうに見下ろす桂木を見て、こんな時なのに嬉しさで胸が締め付けられた。その甘い痛みで俺はようやく、桂木がそばにいること、そして芹沢の脅威がなくなったことを理解する。  途端、一気に安堵と震えの波がやってきた。膝がかくんと抜けてしまいそうになるのを必死に耐えて、桂木の腕をつかんで訴える。 「それよりも、芹沢が落ちて、哲生さんが、」  気持ちだけが先走るせいで時折つっかえながらも、芹沢ががけ下に落ちたこと、そして哲生の最後の遺体が見つかったことを伝える。にわかに桂木の顔色が変わった。 「……哲生は?」 「あ、あっちのほうに」  震える声で尋ねる桂木の腕を引き、俺は地面を懐中電灯で照らしていく。やがて、地面に空いた穴の横に、生白い肌の色が浮かび上がった。  吸い寄せられるように桂木がそちらへ歩を進める。俺は後を追わなかった。桂木と哲生の再開に水を差すことはできないし、するつもりもない。  懐中電灯で照らさなくとも、木々のない広場の中心に立つ桂木の姿は月明かりに照らされてよく見えた。  黒い影のように見えるその長身を折り曲げて、哲生の首をそっと地面から抱き上げる。月明かりに掲げるように、哲生の首を自身の目線の高さに合わせた。  桂木によって捧げ持たれた哲生の首は、芹沢と俺に見せた禍々しい表情は浮かべていなかった。地獄の窯の蓋を連想させるようだった口はつつましく閉じられ、目は仏像を思わせるような薄い半目になっている。  桂木は、その表情をじっと見つめていた。くるむように優しく首を支えていた手の親指をかすかに動かし、なめらかな頬を一度なぞる。その動作一つから、愛おしさがあふれてくるようだった。 「哲生、すまない」  無言のまま、想いを一心に注いでいた桂木が小さく呟くのが聞こえた。 「……もう少し、待っていてくれ」  桂木は哲生の首を胸に抱き、まっすぐ俺のもとへやってくる。全身を黒い服で統一した死神のようないでたちの桂木と、その腕の中の美しい生首は、言葉にできない凄絶な光景だ。この世のものとは思えないそれに勝手に眩暈を覚えていると、桂木は何を思ったのか、哲生の首を俺に差し出す。 「哲生をよろしくお願いします」 「えっ、ちょっ」  反射的に受け取った手のひらに、吸いつくような肌の感触が伝わる。ひんやりとしたその温度に全身がざわつく間もなく、どこかへ行こうとする桂木を慌てて止めた。 「桂木さん、どこに行くんですか!」 「芹沢を探しに行くんです」 「は!?」  思わず大声で叫ぶが、桂木が崖の方へと足を向けていることに気づき、飛び出すようにしてその前に立ちふさがる。  ゆれた桂木の前髪の下で、つややかな眼球の反射光がちらりとこちらを見下ろした。 「ここから覗き込んでも崖下の確認はできないでしょう。芹沢が本当に死んだのか確認しなくてはいけません。もし生きていたらまた逃げられます。そうなる前に今度こそ確実に殺さなければ」  そういって俺の肩を掴み、横にどかそうとするその手を片手ではねのける。 「何言ってるんですか! こんなに暗くて足元も悪い中で崖を降りる気ですか!? 桂木さんが死にますよ!」 「俺は行きます」  問答無用で振り切ろうとする桂木を押しとどめる際、真下から覗き見た桂木の表情にぞっとした。  なんの感情も窺えない抜け殻のような顔の中で、暗い衝動を湛えた目だけが燃えている。この火が燃え尽きたら最後、桂木の目に二度と光が戻ってこないのではないか、そんな心配を抱いてしまうような目だった。 「もし、芹沢が生きていたら、そしてこのまま逃げられたら、この先芹沢を捕まえるチャンスは二度と来ないかもしれないんですよ」  そうは言うが、俺は芹沢が生きているとは到底思えなかった。あの時聞こえた衝撃音の遠さは、絶対に人が助からない高さだったと思う。 「そんなことより桂木さんの安全のほうが大事です! お願いですから、せっかく見つかった哲生さんのそばにいてあげてください」 「それは……、できない」 「……~~っ、どうしてだよ! あんた、芹沢と哲生さん、どっちが大事なんだよ!」  せっかく哲生を見つけられたというのに、あくまで芹沢の生死にこだわる桂木に怒りが湧きおこり、勢いで怒鳴りつける。ぐっと顎を引いた桂木は、ゆるゆると頭を振り、やがて耐えきれないとでもいうように髪を振り乱して叫んだ。 「そんなこと……、そんなこと、哲生のほうが大事に決まっている! でも芹沢は。……殺さなければ。俺は、哲生に……!」  桂木は声を荒げ、彼にしか聞こえていない何かと会話しているかのような支離滅裂な言葉をわめきたてる。「殺さなければ」「哲生が」と執拗に繰り返すその内容に、哲生を救えなかった後悔が桂木を苛んでいるのだと理解できた。  桂木の急な取り乱しように、俺はどうしていいかわからず、なだめようとする手が宙をさまよってその腕をそっと掴む。 「……か、桂木さん、」 「殺さなければ、殺さなければとずっと。そうすれば哲生のもとへいったときに、少しは許されるのではないかと、俺は。哲生のもとに……」  青ざめた顔をゆがめ、痛みに耐えるように身もだえる桂木は、苦しそうで無様で、でも血の通った人の熱を感じさせた。  切なくて、自分のことのように胸が痛むのに、どうしようもない愛おしさのようなものもこみ上げる。自分を歪めてしまうほど哲生を想う桂木を、好きだと思う自分はおかしいのかもしれない。  溢れそうな思いをこらえ、桂木をどうにかなだめようと口を開きかける。だが、桂木の発する声の合間を縫って聞こえてきた物音に気が付いて、俺ははっと耳をそばだてた。  それは先ほど聞いた音と同じ、規則的に響く足音だ。桂木との攻防に夢中になっていたせいか、その音はもうすぐ近くまで迫っている。  ざく、ざく、と桂木の足音よりも間隔の長いその音のする方へ、意識を集中させて身構える。そっと、足元に転がっていた懐中電灯を拾い上げた。  足音に合わせて揺れるライトの白い光が、俺たちのいる平地の入り口付近に差し掛かる。タイミングを見計らい、俺はその人物が姿を現すと同時に自分の持つ懐中電灯の光をその人影にあてた。  そこにいる人物の顔を見て、俺は目をまん丸に見開いた。 「桂木さぁん、吉野さん、いたっスか~? うわ、まぶしっ」 「……お前、浦賀?」  ぴかぴかと彼の額で光る強烈なライトのせいでうまく顔は見えないが、その声と口調は間違いようがない。狭い山道からこの開けた場所へ出るちょうど境目の場所で、大きな荷物を抱えた浦賀が木に寄りかかりながら立っていた。 「あ、その声吉野さん!? いや、無事でよかったっす~……」 「無事、っていうか、お前どうしてここに……」  浦賀に駆け寄りたいが、その場から動く気配のない桂木のそばを離れるのも心配で、俺は仕方なくその場から浦賀に声をかける。  浦賀はやたらとまぶしいヘッドライトを付けて、両肩に一つずつスポーツバッグを下げていた。一瞬、あの大きさの荷物を二つ抱えて山を登る体力が浦賀にあったことに驚いたが、すぐにその驚きは浦賀の奇妙な言動にかき消される。  浦賀は道と広場の境目に立ったまま、少年のような照れ笑いに似た笑顔を浮かべた。 「どうしてって言われると……。うーん、吉野さんと桂木さん、あと哲生さんかな? に、これをお届けに上がるためですかね」  そう、妙な発言をした浦賀は、その両肩から二つのスポーツバッグを下ろす。そして偶然なのか意識してなのか、そのバッグを自分のいる道側ではなく、俺たちのいる広場側の方に押しやるようにして置いた。  荷物を置いた反動からか、それとも過酷な山登りによる疲労のためか、浦賀がうわっと声を上げ、バランスを崩してその場にしりもちをつく。  どしゃっ、と派手な音がして、とっさに浦賀のもとへ駆け寄っていた。腕に抱えたままだった哲生の首をそっとバッグの横に置き、浦賀の肩を助け起こす。 「おい、大丈夫か。どこか捻ったり打ったりしてないか?」 「んはは……大丈夫っす」  ちょっと膝にきまして、と言って笑う浦賀が、しゃがみこんだ俺の頭を飛び越えた上の方を見上げた。  つられて振り向くと、桂木がすぐそこに立って浦賀を見下ろしている。  桂木はじっと浦賀を見た後に、すっと視線を横へずらした。そこには、浦賀の持ってきたバッグが二つ並んで置かれている。  もう一度浦賀の方を振り向けば、浦賀は顔の汗をぬぐい、一仕事終えたようなすがすがしい顔で桂木に笑いかけている。二人の間に何か無言の意思疎通があるような気がして、俺は困惑気味に何度か二人を見比べた。 「なあ、この荷物はなんなんだ。どうやってここが分かったんだ? お前も、桂木さんも。それにどうして……」 「細かいことは後で、っす。それよりも、」  眉を寄せた俺の問いかけをバッサリと切って捨てた浦賀は、俺の顔を見上げてへらりと笑う。いつもの浦賀の気の抜けた笑顔のはずなのに、得体のしれない誰かの顔のように見えて胸がざわつく。  浦賀はおもむろに、肩を支えていた俺の手を握って外す。そして、俺の胸元に握った手を突き返すようにして押しつけた。  驚く俺をしり目に浦賀はぱっと手を離すと、一歩下がってその場でひらりと手を振る。 「あとは俺にはどうしようも。吉野さん、よろしくお願いしますっス」  その含みを持たせた言葉の真意も、謎めいた笑みも、問いただすことは叶わなかった。  唐突に、澄み渡るカンッという音が、脳を貫くように一度響き渡り、目の前の浦賀の姿も暗い夜の山の風景も、すべてが白に置き換わる。  急激な視界の切り替わりは瞬きのような一瞬の出来事だった。いつの間にか周囲は、同じ山でも深夜ではなく、太陽の照った昼の山に様変わりしていた。

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