112 / 120

10

 呆気に取られてあたりに目を凝らせば、つい先ほどまで近くにあった崖も、俺の掘った穴も消えている。  足元は踏み固められておらず、奔放に伸びる下草に覆われている。乱立する木の幹の間には白い霧が立ち込め、見上げた空も曇った灰色。まるでこの山自体が雲の中にあるようだった。  桂木は、俺の背後にいた。呆然と立っている姿を見つけて、安堵から一気に体の力が抜ける。足元の悪さに苦戦しながら、彼のもとへ駆け寄った。 「だ、大丈夫ですか、桂木さん!」  声をかけても、桂木は一点を見据えたまま動かない。つられてそちらに目を移すと、数メートル先の木立の中、霧に溶け込むように一人の人間が立っていた。  山の中には不似合いなその姿に、俺も思わず足を止め、そちらを見る。  襦袢、というのだろうか? 白く薄い着物を着た青年だった。その顔を見て、息が止まる。さきほどまで俺が腕に抱えていた、そして桂木がいとおしそうに見つめていた、あの首と同じ端正な顔がこちらを見ていた。  俺は呆然と、視線の先に立つ青年―――哲生を見る。身長は高くはないが、すらりとした手足や首、痩せた体は脆いガラス細工のようで、容易に目が離せない。  これまで、自分は哲生の“全身像”を見たことがなかった。遺体はどれもパーツごとに分かれていたし、調書に乗っていた写真は顔写真のみ。そこまで考えて、俺はざわりと肌が粟立つ感覚を覚えた。  自分がついさっき、芹沢に投げかけた言葉を思い出す。  ―――きっと、バラバラだったことなんて嘘みたいにまた動き出すんじゃないか。  まさか本当に? でもどうして。あの場には哲生の首だけしかなかったはずなのに。  いや、もしかして。浦賀は鞄について聞かれて、俺と桂木と、そして“哲生に”届けに来たと答えた。ならば浦賀の持ってきたあの鞄の中身はまさか。  哲生は見たところ、何ら変わったところのない普通の人間のように思える。だけど、醸し出している雰囲気のようなものは明らかに普通のそれとは違う。ただそこにいるだけの違和感、とでも言えばいいのだろうか。  ここにあるはずのないものがある、その落ち着かなさがわけもなく心臓の鼓動を速めた。 「……哲生?」  桂木がぽつりと、聞き漏らしてしまいそうなほど小さな声で呟く。隣にいる俺でようやく聞こえるかすかな声だったというのに、哲生の耳には届いていたらしい。そうとしか思えないようなタイミングで、哲生は桂木に笑いかけた。その顔は少しだけ寂しそうだった。 「ごめんね、一巳」  繊細な見た目を裏切る、思いのほかハスキーな声で哲生は言った。 「つらいことをさせてごめん。苦しめて、ごめん。一巳が苦しむとわかっていても、俺は一巳に頼ることしかできなかった。どうしても、ここに来なきゃいけなかったから」  桂木が草むらをかきわけ、一歩足を踏み出す。するとその歩みに合わせて、哲生も一歩後ずさる。哲生は桂木に向かってかぶりを振り、それ以上近づくなと無言のうちに拒んだ。 「俺がいつか話したこと、覚えてる? 俺は26歳で死ぬんだって話」  俺にとっては初めて聞く話だった。無意識のうちに俺は桂木の横顔を凝視する。その口元が静かに動いた。 「“鬼に食われて死ぬか、死なずに…………”」 「そう。“死なずに、かみさまになるか”」  桂木の後を引き継いで哲生が言った言葉、その突拍子の無さに啞然として、哲生の顔を食い入るように見る。 (かみさま? 神様って言ったか?)  人には見えないものが見えるようになって、神様と呼ばれる存在にも会ったけれど、人が神になると言われて、なるほどそうかと納得できるほど俺はまだ場数を踏んでいない。  “神様になる”。それが何を意味するのか、良いことなのか悪いことなのか、想像もつかない。  驚きと疑問が渦巻くけれど、今彼らの間に口をはさむ勇気は俺にはなかった。ただ、二人の会話を息を潜めて見守る。 「小さいころ、俺に物騒な予言を残していったのは、この山の神様だった。何をもって俺を神にすると決めたのかは知らないけど」 「哲生が……この山の、神に?」  哲生は静かにうなずく。そして、その優しげなまなざしを急に俺の方へ向けた。 「予見通り、案の定“鬼に食われ”かけたけど、……一巳と、吉野さんのおかげで、どうにか約束を果たすことができそうだ」  いきなり名前を呼ばれて心臓がはねた。にっこりと笑ってこちらを見る顔は、とびぬけた美貌ではないはずなのに、男の自分でも目を奪われるような美しい表情だった。 「哲生、俺は……」 「俺は行かなきゃ」  言いかけた桂木を封じるように哲生が言うと、再びカンッと甲高い音が鳴り渡った。この不可思議な場所へやってきたときに聞いた音と同じだ。それは耳を通じて、脳まで震わせる澄み切った不思議な音だった。  その音が残響を残して耳から消えていくのと入れ替わりに、まるで水があふれるように、何かのざわめきが周囲からあふれ出す。それは、こしょこしょと囁きあう人間の声だった。  ぎょっとして周囲を見渡すと、いつの間にか俺と桂木の周りは大勢の人で埋め尽くされていた。  いつの間にこんなに近く、と驚くけれど、普通こんな腕が触れ合いそうなほど近くに人がいれば、気付かないはずがない。  俺は突如現れた群衆に飛び上がりそうなほど驚き、あたふたとあたりを見渡した。  異様なのは、周囲の人々の顔だった。老若男女問わず、誰もがお面や布、果ては現代ではめったに見ない笠のようなものをかぶり、顔を隠している。着ている服も、今時見ない地味な和装が多いようだ。  それだけでも異様なのに、よく見ればそもそも人間かさえも怪しいシルエットの者―――並外れた長身や短躯、四肢の無いもの、四肢以外の何かが多いもの―――までいた。  驚きを通り越し、呆気に取られてぽかん、と口を開ける俺の脳裏に、翁の面をかぶった祠の神……桃羽様や、沼の水神の姿がよぎった。  人ならざる存在。そうとしか言いようのない者どもが、無造作に生える木々の合間にひしめき合うようにして立っている。  一体これは何なんだと、再び哲生のいた場所に視線を移せば、先ほどと変わらずその場に立つ哲生の背後に、大勢の人間がずらりと並んでいた。その明らかに妖しげな雰囲気に目を瞬かせる。  行列は木立の間を縫うように左から右へずらっと続いており、列の最後尾は木と群衆に紛れて見えない。  こちらから見えるのは行列に並ぶものの横顔だけだが、その顔は周囲の人間と同じようにお面で隠されていた。皆一様に麻や木綿を思わせる着物―――よく知らないが、紋付袴に似ているものや、神社の宮司が来ているものに似ている―――を身にまとっている。  自分たちを取り囲む有象無象の衆は、行列とその前に立つ哲生との間に少し距離をあけつつ、熱心な視線を向けているのだった。  触れそうなほど近くにいる彼らから距離を取るように後ずさり、背後の桂木にぶつかって止まる。奇怪な人の群れにおののいている俺の耳に、それらのささやく声が言葉になって聞こえてきた。  ―――……輿入れじゃ、お輿入れじゃ。  ようやっと。待ちに待った―――  お山の御元へお輿入れじゃ……――― 「輿入れ……?」  意味が分からず呟いた俺の横で、桂木が身じろぎする。 「哲生、待て!」  鋭い声に驚き振り向くと同時に、しゃん、とどこかで大量の鈴が打ち鳴らされる。  俺が見たのは、行列の先頭に立つ人物が手に持っている提灯に、ぼっと火が灯った瞬間だった。  桂木がはじかれたように人ごみの中に飛び込み、哲生のもとへ向かっていく。慌てて俺もその後を追った。  しかし、人波をかき分けるのは容易ではなかった。  しゃん、しゃん、しゃん、と責め立てるように早くなっていく鈴の音に合わせて、周りの人々は一斉に動き出し、俺たちはあっという間にその流れに飲み込まれてしまう。  無遠慮に押し合いへし合いする中で、どうにか足を踏ん張って人々の頭越しに先を行く桂木を探す。和装の中ではことさら目立つ、黒い化繊の防寒具を来た背中めがけて、俺は群衆を泳いだ。  桂木よりもさらに向こう側、行列の中ほどで、哲生が身をかがめるのが見えた。  白い着物の裾を押さえながらそろり、と足を上げ、何か板のようなものの上に姿勢よく座る。と思ったら、その姿が高く持ち上がった。  哲生は四人の担ぎ手によって支えられた、屋根も装飾もない簡素な輿の上に背筋を伸ばして正座していた。  お輿入れ。先ほど聞いた言葉が頭をよぎる。  なおも高く強くなっていく鈴の音がピークに達したとき、提灯を持った列の先頭が一歩、足を踏み出した。  鈴の音が一歩、一歩と足の歩みに合わせて鳴らされ、しずしずと列が動き出していく。その動きに合わせ哲生の乗った輿がゆらりと動き、着物の裾をなびかせて進み始めた。 「待て!」  人々の歓声に紛れて桂木が悲鳴のような叫び声をあげる。なりふり構わず人垣を押しのけるが、周囲の人間は気にする様子もない。よろめいても転びそうになっても、ふらりと体を揺らしただけで人の流れに戻っていく。  人々はどうやら行列の後ろへ並ぼうとしているようで、手に手に鳴り物や扇を持ち、浮かれ調子で騒ぎながら、俺たちとは真逆の方向へ進んでいく。その流れに逆らって、桂木と俺は哲生のいる列の最前方を目指した。 「……いったい、何なんだよ!」  人に揉まれ、足元を草に取られ、思うように進まない苛立ちが混乱に拍車をかける。  今起きているこれが何なのかはよくわからない。だけど、哲生がどこか、別の場所へ行こうとしていること、そしてそれは到底人が足を踏み入れてはならない場所だということは本能でわかった。  哲生はもう生きた人間ではない。そんな彼についていけばどうなるのか。 (桂木さん、桂木さん、待ってくれ)  面で顔を隠した頭たちの間に、桂木の黒髪が見え隠れする。  桂木が哲生とともに居たいと願うなら、このまま彼を哲生のもとに行かせれば良いのかもしれない。  自分でもずっと悩んでいた。彼が哲生のもとに行きたいと本気で願うなら、そうさせてやるのが一番なのではないか、止める事が本当に桂木のためになるのだろうか、と。  その答えはまだ出ていない。出ていないから、桂木をここで見送る踏ん切りもついていない。焼けつきそうな衝動のまま、桂木を見失わないように懸命に背中を追っている。 (待ってくれ、まだ、わからないんだ)  わからない。少しもわからなかった。桂木を思うなら俺はどうするべきなのだろう。その答えは誰が知っているのだろう。  桂木が哲生を追い、その後を俺が追いかける。  鈴の音に混じって鳴る鉦や太鼓、笛が絡み合い、いつしか奏でられる音楽は賑やかな祭囃子のようになっていた。  列に加わらなかった人々も、楽しそうにざわめきながら列を囲んで見守っている。  笑い声、歓声、高揚する笛の音、かき鳴らされる鉦。  ゆっくりと、だが滑るように進む行列とは裏腹に、俺と桂木は、足元の木の根や凹凸のある土に何度も足を取られてはつまずいてしまう。  加えて、進む先を観衆や木の幹が遮り、それを避けたり、時にはぶつかったりしながら進まなくてはいけない。行列に並ぶ連中はどうしてそんなにしゃなりしゃなりと優雅に進めるのか、いっそのこと憎らしい。  それでもめげずに悪路を駆け、前を行く桂木がようやく人垣をかき分けて行列の横に飛び出した。 「哲生!」  行列を成す人々は、列に並走し、哲生に呼びかける桂木に見向きもしない。輿の上の哲生も前を見たまま動かない。 「哲生、待ってくれ。俺は、」  その声が届いたのか、ようやく哲生が輿の上で振り返る。哲生は桂木と目を合わせるとかすかに微笑み、手を差し伸べる。周囲の楽奏は耳をつんざかんばかりだというのに、その声は俺の耳にもはっきり聞き取れた。 「一巳がそう望むなら。一緒に行こう」  その言葉に、俺は全身が焼けるような焦燥感を覚え、藻掻くようにして人垣を抜けた。  転がるように飛び出して、揺れる視界の中で桂木を追う。  桂木は肩を大きく上下させ、足元を草に取られながらも、哲生の差し出した手を食い入るように見つめている。髪が乱れて剥き出しになった目元で、見開いた眼が光を反射していた。  桂木は誘われるように自身の手を持ち上げる。ゆっくりと、哲生の手を取ろうと。  それを見た俺の全身を激しい衝動が駆け巡った。  桂木があの手を取れば、哲生のもとへ行ける。彼にとって最も大事な存在である哲生のもとへ。  ―――だけどその代わり、俺の前から、俺の人生から、桂木は消えてしまう。  嫌だ。考えたとたん、腹の底が焦げ付くような、じりじりとした熱い熱に襲われた。その燃え尽きそうな熱さに飲み込まれる。  嫌だ。そんなのは、嫌だ。 「―――嫌だ!」  俺は邪魔する木や草をむしるようにかき分け、追いついた桂木の背中にしがみついた。  無我夢中で、桂木の伸ばされかけた手を取り、自分の体で抱え込む。 「駄目です、行っちゃだめだ、桂木さん!」 「哲生、でも、哲生が」  行くな、行くな、行かないでほしい。喚きたてる俺の声など耳に入っていないかのように、桂木は身をよじって哲生に腕を伸ばそうとする。  行列は、進むのにすら苦労する俺たちをしり目に、なめらかに、だがゆっくりと確実に進んでいく。差し出された哲生の手は一歩ごとに揺れ、桂木を誘うように伸ばされている。  そのほっそりした手が、今だけはおぞましい。  桂木にとって何が最善なのかなんてどうでもいい。身勝手だとか、桂木を止める権利なんて俺にはないとか、どうだっていい。他人にどう思われようが知ったこっちゃない。  ただ俺が、桂木に生きていてほしい。そばにいて欲しい。置いていかないでほしい。  抱擁なんて生ぬるいものでは足りない。俺は桂木の厚い背中に額を押し付け、後ろから羽交い絞めにした。なおも哲生に手を伸ばそうとする桂木向けて、懇願する。 「い、行かないで。置いていかないで、ください」 「―――……」  興奮して熱くなった吐息が、背中に跳ね返されて自分の頬を温かく湿らせる。ぎゅっとしがみつく腕の中で、桂木の体がぴたりと動きを止めた。  立ち止まった俺と桂木を置いて、列はゆっくりと離れていく。少しして、哲生がもう一度柔らかく微笑み、その手を引いたのが見えた。  腕の中の桂木がぐっと息をのんだ気配を察知する。しかし、最後まで桂木を引き留める腕を緩める事はしなかった。  哲生は、二度とこちらを振り返らなかった。  やがて、桂木の肩に顔をうずめていた俺は、周囲が静かになっていることに気が付く。ついさっきまで笛や鈴の音で満ちていたのに、耳を澄ましてみても、もう木々がざわめく音しか聞こえない。  そっと顔を上げると、薄闇に包まれた森の中に、俺と桂木は寄り添って立っていた。哲生も、哲生を担いでいった行列も、その周りの群衆も消えている。  静けさの中に、小さな鳥の声や木の葉のゆれる音がする。不思議と、初めてこの山に来たときに感じた不気味さは鳴りを潜め、木々のぬくもりに包まれているようなあたたかさを感じた。  桂木の体に回していた手をほどこうとすると、追いかけてきた桂木の手が俺の手を捕まえた。  お互いに冷え切った手の上に、ぼとりと熱い雫が落ちたのを感じて顔を上げる。  手を握り合ったままそっと桂木の顔を覗き込めば、開いたままの桂木の目からぽたぽたと涙がこぼれていた。  しばらく、その涙が流れるさまを見つめていた。 「吉野さん」  桂木が呟く。そして俺の手をもう一度しっかり握りなおした。 「もう少しこのままで」  いつの間にか俺も視界が揺らいでいた。なんとなく、今泣いていいのは桂木だけのような気がして、俺は涙をしまい込むように目を伏せる。  俺が流す涙は、何に対する涙なのだろうか。桂木がどこへも行かなかったことへの安堵なのか、桂木を踏みとどまらせたことへの罪悪感なのか、それとも彼の涙にただつられただけなのか。すべてが混ざり合って判然としない。ただ俺は桂木の手をずっと離さなかった。  夜が白み、朝焼けで森が白く染まる頃になっても、ずっと桂木の手を握っていた。

ともだちにシェアしよう!