113 / 120
11
息を切らして走る。
時刻は明け方、繁華街といえど通りには人っ子ひとりいない。嫌なふうに逸る胸を荒い息で上下させ、もつれる足を叱咤して、薄い霧のかかる街を桂木の事務所を目指して走る。
階段を駆け上がり、体当たりするように扉を開くが、事務所の中には誰もいない。
上だ。すかさず給湯室を抜けて階上の居住スペースへ向かって階段を駆け上る。
扉を開けた先には、求めていた姿があった。安堵に息をつき、声をかけようとするも、ぶらりと揺れたその背中にかけるべき言葉を失う。
瞬いた目が映し出すのは、宙に浮いた桂木のつま先だ。ゆらゆら揺れているそこから、ゆっくり上へと視線でたどっていく。力のない四肢が柳の枝のように垂れ、うつむいた顔が俺を見下ろしている。
その力なく濁った目と、目が合う。こみ上げる衝動をこらえきれず、喉が割けんばかりに叫んだ。
心臓がばくん、と痛いほど脈打ち、俺は自室のベッドの上で目を覚ました。
はぁ、はぁ、と懸命に息を吐きながら、薄暗闇の中で呆然とする。しばらくして、俺は無意識のうちに天井に向かって伸ばしていた腕を、ぱたんと布団に落とした。全身べっとりとした汗にまみれていて気持ちが悪い。
俺は目を閉じて、いまだ体中に残る恐怖の余韻が消えるのを待った。少しずつ、脳と体が『あれは夢だ』と理解するにつれて、疲労と安堵がないまぜになって押し寄せてくる。俺は長いため息をついて、両手で顔の汗をぬぐった。
あの山で一夜を過ごして、もう三日が経った。
あれから俺は、外出すら許されず自室に軟禁されている。それもこれもすべて、今までちらとも姿を見せていなかった支援班の上層部―――正式な名前は教えられていないが、”管理局”と仮称される―――のせいだ。
あの日。
芹沢が死に、哲生の最後の姿を見送った夜明けに、俺達は森の中を歩いているところを発見され、保護された。
俺たちを発見したのは、浦賀と、そして浦賀の連れてきた所属不明の救助隊……と思しき男たちだ。彼らは救助隊に似た制服を着てはいたが、その制服は近隣警察のどの救助隊の制服とも異なるものだった。それに加え、彼らは一言もしゃべらなかった。無言のまま俺と桂木の怪我の有無を調べ、身振り手振りのみで互いに意思疎通をする救助隊もどきは異様だった。
この男たちは何なのか、どうして浦賀がいるのか、それを問いただそうと浦賀に近づこうとすると、やんわりと、だが力強い腕で、救助隊もどきから制止された。『今は何も聞くな』という無言の圧を感じて、俺はおとなしく引き下がった。
ただ、連れていかれる俺たちに浦賀が見せた困った表情だけを鮮明に覚えている。浦賀はすまなさそうに言った。
「大丈夫っす。その人たちが送って行ってくれるんで。詳しくはまた後に」
どうしてお前がそれを保証できるんだ、お前は何を知っているんだ。そう問いたくても、先に進めと促す腕には逆らえない。俺はせめてもと、首だけで背後の浦賀を振り返った。
「わかった。気を付けて」
浦賀を案じる言葉を投げたのは、年上としての面子を保ちたかったからかもしれない。浦賀はちょっとびっくりしたように笑って、はいっす、といつもの口調で答えると、俺達が連れていかれる方向とは逆の、木立の奥へと向かっていった。
哲生の遺体が埋まっていた広場を通り過ぎる際、芹沢の落ちた崖を降りていく救助隊もどきたちを目にした。
一部始終を目撃した俺が何か言う前に、彼らはもうきっと芹沢を見つけたのだろう。どこか裏寂しいような気持ちを抱えながら、疲労した頭はそれ以上考えることを放棄した。
救助隊もどきの男たちが運転するワゴン車で、疲れにまどろむ俺と桂木は山を降りた。
芹沢に連れられてここへ来たときは大層時間がかかったように思えたが、心地よいワゴン車の揺れにいざなわれてぐっすりと眠ってしまったせいで、目が覚めたらあっけなく車は深御市へ着いていた。
早朝の誰もいない繁華街の路地裏で、先に桂木だけが車から降ろされる。桂木は涙が枯れるまで泣いた後、俺に連れられて山を歩く間も、救助隊に保護された後も、一言も口をきかずただ男たちの指示に従って動いていた。
その様はまるで、あの山に心を置き忘れてきてしまったかのようで、急に不安になった俺は、桂木を引き留めよう身を乗り出す。だが、それを見越したように、車に同乗する男たちに素早い動きで阻まれてしまった。
文句を言う俺と、桂木の身の安全は保障するから大丈夫だと俺をなだめる男たちをしり目に、桂木は無言のまま職員の一人に付き添われて事務所のあるビルへと入っていった。
それから車は俺の住むアパートへ向かう。到着した後は、男二人に両脇を固められながら自室へ送り届けられた。
それで終わりかと思いきや、正体不明のその男たちは懐から書類を取り出し、そこに書かれた、今後俺に課せられる行動制限を事務的に読み上げた。
曰く、今後は連絡が入るまで部屋から出ず、誰かと連絡を取ることも控えるようにとのことだった。
「……ここの、『我々から連絡があるまで』の我々って誰なんです?」
「正式名称は伏せられています。”管理局”と仮称ください」
淡々とした返答とともに、電話番号のメモと新しいスマホを渡された。俺はこれ以上彼らと対話する気力もなく、それらを受け取って自室にこもった。
死んだように寝て昼過ぎに起きたら、玄関先に当面の生活必需品と食事が差し入れられていた。
退屈すぎて、少しくらいいいだろうと一階のコンビニへ出ようとしたら、アパートの階段に差し掛かった瞬間にどこからともなく現れたスーツ姿の男に腕を掴まれて部屋に戻された。冗談ではなく、本当に部屋から出るなということらしかった。
スーツの男に、事件がどうなったのか聞いても答えてもらえなかったし、桂木や浦賀、前原と連絡を取りたいと言っても許可は出なかった。
どころか、芹沢の襲撃にあった割に妙に部屋が片付いていると思ったら、自分のスマホやパソコンは部屋から没収済みで、あの男たちが事前に回収していったのだと察した。きっと浦賀の言う”管理局”の指示だろう。スーツ男も救助隊もどきも全部その組織の人間というわけだ。
もちろん、男らから手渡されたスマホは制限が付いており、ネットには繋がらない。情報源を絶たれた俺は、結局テレビで流れるニュースで事件の顛末を知った。
警察の隙をつき、捜査の現場から脱走した芹沢は、以前から市内に隠していた車で山中へ逃走し、誤って崖から転落、死亡したと報じられていた。
なぜ山奥へ向かったのかは明らかにされていない。不可解な行動と死に、下世話なワイドショーでは世を儚んだ自殺ではないか、いや逃亡資金の隠し場所へ向かったのではないか、と好き勝手に騒ぎ立てられていた。他には、芹沢を逃がした深御市警察本部が番組内でコテンパンに叩かれているぐらいで、芹沢が警察官一名を拉致したことや、山中で遺体が発見されたことは一言も報じられていなかった。
いい加減俺は、この生活にも飽き飽きしていた。
退屈というだけではなく、俺は切実に、支援班のメンバーがどうなったのか気になっていた。
前原にはきっと心配をかけただろう。心理的にも、それから弱っている足腰にも、余計な負担をかけていないだろうか。浦賀は……あいつは一体何を知っているんだ。というか、何者なんだ。そして桂木は、どうしているだろうか。俺と同じ軟禁生活を強いられているだろうか。元気にしているだろうか。
(……元気に、ってそんなの、あんなことがあったんじゃ無理に決まってるよな)
やる事の何もない毎日。考えるのは自然と、あの日の出来事ばかりだった。
自分の目の前で、暗い崖下へ落ちていった芹沢。人の踏みこむことができない場所へ行ってしまった哲生。共に行きたいと願っていたのに、俺のわがままで現世に引き留められてしまった桂木。
ずっと考え続けている。俺は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。桂木は今頃、哲生のいないこの世に絶望しているのではないか。
最初の一日は、今にも桂木が哲生の後を追って死んだという連絡が来るのではないかと気が気でなかった。
今でも一日に何度もその不安に襲われる。怯えもしたし、自分を責めもした。
その結果が、繰り返し見る短い悪夢だ。自分の不安をそのまま具現化した、桂木が哲生のもとへ旅立ってしまう夢。
不安を抱えていても、自分にはどうすることもできない。だから、夢のように自分ではコントロールできないものは仕方ないとして、日中はできるだけそのことを考えないようにした。
それに、スーツたちが俺のアパートと同様、桂木の事務所も見張っているのなら、たとえ桂木が死のうとしても彼らが止めるはずだ。俺を確保したスーツにもその心配は伝えてあるし、きっと大丈夫だろう、と考えるようにしている。
暇な時間を存分に使って、何度もあの日の事件を反芻した。今回のような特殊な事件で、いつものように報告書をまとめるのかはわからないが、書き始めたらよどみなく書き終えられるほど、事件のあらましは頭の中で何度も整理した。
その過程でわかったことがある。
ドラマか何かで重大な決断を下した後、『もう一度あの瞬間に戻れるとしても、俺は同じ決断を下すだろう』なんて言うシーンを時々目にする。だけど、自分は逆だ。もう一度あの瞬間に戻ったなら、自分がどちらを選ぶかわからない。
俺は桂木と一緒にいたいと思うのと同じくらい、桂木の意思を尊重したい。
結局、どちらの選択が良かったのかと、この三日間、悩みに悩んだ。考えすぎて訳が分からなくなるころ、『自分にできることはやったのだから、後はなるようにしかならない』というある種の諦めがふっと浮かんできて、俺の心を楽にした。
いくら振り返っても結果は変わらない。なら悩むだけ無駄だ。あの時の俺は自分にできる限り悩んで最良の選択をした。後悔はない。
……とはいっても、桂木の様子が気になることには変わりない。
そうやって俺はまた性懲りもなく、スマホにあらかじめ登録されていたスーツ男の番号に電話をかけて、桂木と連絡を取れないか交渉する。
そしてすげなく断られ、再び桂木が事務所の天井からぶら下がってやしないかとはらはらさせられるのだ。
そんな停滞の毎日がようやく動き出したのは、四日目の夜だった。
暇をもてあまし、差し入れに所望した賃貸情報誌―――殺人鬼に2度も侵入される部屋なんて、何か呪われているに違いない―――をめくっていた時だった。
ふいにテーブルの上のスマホが鳴る。寝っ転がっていた姿勢から跳び起きてスマホをひっつかむと、ディスプレイにはメモで知らされていた電話番号が表示されていた。
通話は、10分後に迎えを寄こすので一緒についてくるように、と簡潔に伝えるのみで、一方的に途切れた。
俺は慌てて外出の支度を整え、部屋にやってきた男たちに連れられてアパートを出た。
ともだちにシェアしよう!