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 事件から五日目、俺は久々に支援室の業務に復帰した。  事前に予想していた通り、初日からげんなりする量の書類と報告書に向き合わなくてはならなかった。だがそれも悪いことばかりではない。  凶悪殺人犯を逃がしたという大失態を演じた深御市警察本部は今、どこもかしこもてんてこ舞いの忙しさだ。どこへ行こうとギスギスした空気が充満する中、支援室だけは比較的穏やかな空気の中にある。また、本部出入口前にはマスコミが多数たむろしており、下手に外出すれば、事件に無関係な職員であろうと突撃取材の憂き目にあう。  その玄関前マスコミ集中砲火をかいくぐり、前原が支援室にやってきたのは夕方になってからだった。  前原は俺を見たとたん、顔をくしゃくしゃにして笑い、迷惑をかけたことを詫びる俺の深々と下げた頭を乱暴に撫でた。 「よくやったな」  ぬくもりを帯びた声が頭の上に降ってきた。顔を上げると、前原は目を細め、満足そうに頷いた。  結果的に「桂木を頼む」と言った前原にどうにか報いることができた。少しだけ、重いものを飲んだようだった胸が軽くなるような気がした。  ぎこちなく、笑いともつかない表情を浮かべる俺に、前原は何も言わず、豪快な音を立てつつ背中を叩いた。  桂木とは、俺が事務所に報告書を取りに行ったり、桂木が支援室に訪問してきたりと、何度か顔を合わせることができた。けれどそれは、忙しい業務の合間のほんのひと時に過ぎず、その間も仕事の話に終始していたため、桂木とゆっくり話をする機会には恵まれなかった。  本部が事態収拾のためにてんやわんやになっていたせいもある。報告書を書き上げたからと言って俺たちに休む暇はなかった。  日々の業務にマスコミ対応が追加されたことで、人手が足りなくなっている各課の手伝いに駆り出されることになり、桂木はともかく俺と浦賀、前原は多忙な日々を過ごした。  そんなあわただしい日々がようやく落ち着いたのは三月の半ばとなったころだった。  その日は、月末で退職となる前原のため、ささやかな宴会が開かれていた。繁華街にある居酒屋の半個室には、前原と浦賀、そして意外なことに……と言っては失礼だが、桂木の姿もあった。  宴会は和やかに過ぎていった。浦賀や前原がこれまでの支援室でのエピソードをあれこれ語り、俺はそれに興味深く相槌をうったり、茶々を入れたりした。桂木はほとんど口を挟まず、静かにグラスを傾けながら聞き役に徹していた。  連日の激務で、今夜も医者から夜更かしを禁じられている前原のために、飲みの席は早めのお開きとなった。警察官同士の飲み会といえば、体育会系の名残なのかどうしても長時間に及ぶことが多いのだが、今夜の解散時間は普段と比べると驚きの上品さだ。  けれど、それが今夜ばかりはありがたい。  本部へ帰る浦賀を見送り、俺が清算を済ませている間に桂木が前原の乗るタクシーを手配した。ほろ酔いの前原が乗り込んだタクシーが遠ざかっていくのを横目に、俺は傍らに立つ桂木を振り返る。 「あの、桂木さん。この後、少しお時間もらえないですか」  改まった俺の口調から何か感じるものがあったのかもしれない。桂木はすぐに頷くと、 「事務所で構いませんか?」  と通りの向こう、桂木の事務所がある方面を指さした。もちろん異論はない。  飲み直すにはちょうどいい時間だったけれど、飲みながらする話でもない。それを察しているのか、桂木も俺も何も言わないまま、居酒屋の前から事務所のある裏通りへ移動した。  事務所につくと、桂木が手早くコーヒーを入れてくれた。春が始まったばかりのこの季節、夜はまだ冷える。温かい飲み物がありがたかった。  手の平にじんわりと染みる熱いマグを受け取る。二人そろってソファに座り、ひとくち、ふたくちとコーヒーをすする。向かいに座る桂木がみくち目を飲み終わるのを見届けて、俺はマグをローテーブルに置いた。 「……急に押しかけて、すみません。俺ずっと、桂木さんに謝りたいことがあったんです」  桂木の視線が上がって、俺の目線と交差する。緊張しながらも、その目を正面から見つめ返した。すっと息を吸い込む。 「俺は、桂木さんが……哲生さんの元へ行きたいと、そう思っているのを知ってます。それをわかっていて、あの時桂木さんを引き留めました。桂木さんに生きていて欲しいって思ったからです」  軟禁生活のさなか、やってしまったことを後悔するのは無駄なことだと知った。だけど、俺が桂木の長年の望みを断ったことには変わりない。たとえその行動が結果的に桂木の命を救うことになったとしても、だ。  命を救ったからすべてが許されるとは思わない。これは俺の、桂木に対するけじめだった。 「結果がどうであれ、俺は俺のわがままで、桂木さんの邪魔をした。それを、謝りたかった。本当にすみませんでした」  一言ずつしっかりと告げて、座った姿勢のまま頭を下げる。腿に胸がくっつくくらい体を折ってから、しまった、いったん立ち上がればよかったと場違いに後悔した。 「頭を上げてくれませんか」  つむじのあたりに桂木の声が投げかけられるのを感じて、顔を上げる。桂木は薄く唇を開き、けれど声に出すことを躊躇うかのように何度か唇を噛みしめる。目元はよく見えないし、表情は無に近いけれど、いつもシンプルに言葉を紡ぐ桂木が言い淀んでいる時点で、彼が悩んでいる、もしくは困惑しているのが分かった。  俺は辛抱強く、どんな言葉も聞き漏らさないよう、桂木の声に耳を傾ける。 「……確かに、あの時の自分は、哲生のもとへ行きたいと願っていました。彼のいない人生なんて、俺には考えられなかったからです。だけど、」  過去をなぞるように顔をうつむけていた桂木が、ふっと顔を上げた。前髪の向こうで、桂木の黒い瞳と目があって、軽く息を呑む。 「吉野さんに、「置いていかないでほしい」と言われて、俺が死んだら、今度は吉野さんが俺と同じになるのではないかと気づきました。自分が死ぬことで、吉野さんに俺と同じ苦しみを背負わせることになるのではないかと……そんなことはできない、と思いました。ただでさえ、あなたにはもう余分な苦しみを背負わせてしまっているのに」  最後の一言で、桂木はくっ、とわずかに眉を寄せる。俺がこの怪異の世界に関わるようになったことを、桂木はいまだに自分の責任だと感じている。 「俺は哲生と一緒に居たかった。その気持ちに変わりはありません。だから今も、正直に言えば悲しい。……だけど哲生とともに行くことを選んだら、今度は向こうで、吉野さんを残してきたことを悔やむでしょう。だから、悲しくはあるけれど、後悔はしていない」  くしくも、桂木は俺と似たような結論を出していた。きっとどちらを選んでも悲しい思いをする。だから、今選んだ選択を後悔しない。しても意味がないからだ。  顔を伏せ、思いをはせるようにして桂木は語る。確かに寂しそうだけど、追い詰められたような切迫感はない。今の言葉が強がりでなく、本心なのだと知ると同時に、心がじいん、と痺れた。  哲生のことが何より大事だった桂木が、少しでも俺のことを思ってくれた。その事実は罪悪感を覚えるほどに甘く、そして苦い。  嬉しい。嬉しいけれど、桂木をそんな風に悩ませてしまったことが申し訳ない。自分が引き留めなければ、桂木は悩まなかった。己の行動のせいで桂木に葛藤が生まれてしまった。  そんな詮無い考えが頭を支配し、俺はどんな表情をしていいのかわからずうつむいた。またしても、つむじのあたりに桂木の声がぶつかる。 「……吉野さん、手を、貸してください」  その声はそんな奇妙なことを言う。俺はいぶかしむように顔を上げる。桂木は相変わらず無表情だけれど、「大丈夫だから」とでも言いたげに小さく首を傾ける。俺はおずおずと彼に右手を差し出した。桂木はその手を取り、手指の輪郭を確かめるようにして握る。 「この手に触れられると、安心します。哲生が行ってしまった時、吉野さんに手を握ってもらっていると、自然と涙が出てきて、悲しむことを許されているような気がしました」 「…………」  哲生を連れた行列が去り、俺と桂木の二人だけが山中に取り残されたあと、桂木は離れようとする俺の手を引き留めて、もう少しこのままで、と静かに泣いていた。 「哲生ともう会えないということが悲しくて、つらくて、泣く以外どうしようもなかった。思えばこれまで、ただただ無心に、哲生のことだけを考える時間は俺にはなくて……哲生を早く見つけなくては、芹沢を捕まえなくてはと、そればかりを考えていたから」  張りつめていたものがほどけたような、穏やかな表情で桂木は俺の手に視線を落としている。ふとその柔らかいまなざしが俺を捉えた。 「……だから、俺は吉野さんにお礼を言いたいです。ようやく、哲生にきちんと向き合えた。その時間をくれた吉野さんに感謝したいと、思っていました」  その言葉は澄んだ水のように、俺の中へ沁み入った。  哲生への嫉妬や罪悪感が、つかの間消えてなくなる。  桂木が哲生と向き合うことができたこと、自分がその助けになれたこと、そしてそれを、桂木が俺に伝えようとしてくれたこと。その事実に胸を打たれた。  これまで経験したことが無いほど深く、桂木に恋をしていることに気が付いた。  過去に好きになった相手には感じたことが無かった、深い感情を桂木は引き出す。  初めてこんなにも強く誰かに嫉妬した。自分のわがままで相手から大事な人を奪った。  そして初めて、相手が他の誰かを愛していてなお、その人の幸せを心から願った。  この人を独り占めしたいという欲求と、この人のためならどうなろうと構わないという自己犠牲が同じ激しさで自分の中に同居している。  こんなにかき乱される相手は、桂木が初めてだった。 「桂木さん、」  自分の唇が無意識に桂木の名を呼んだことにはっと我に返り、うろたえた。  今、自分は何を口にしようとしただろうか。桂木が好きだと、気持ちを伝えようとしていたのではないか。  その事実に気が付き、愕然とする。このままここにいたら、桂木の顔をこれ以上見ていたら、何もかも我慢ができなくなってしまうような気がした。 「俺、すみません、帰ります」  これ以上ここにいてはいけない。動揺のまま俺は勢いよくソファから立ち上がった。そのまま事務所の出入口へ向かおうとするが、不自然な俺の態度を桂木が見逃す筈はなかった。 「吉野さん? 急にどうしたんですか。俺は、何か気にさわることを言ったでしょうか」  背を向けた俺の腕を、背後からやんわりと掴まれ、引き留められる。困惑した声の問いかけに、俺は力なく首を振るしかできなかった。  違う。桂木のせいじゃない。俺がおかしいのだ。だから今だけは、制御の効かない今だけは、見逃して欲しい。  そう思うのに、うまくこの場を躱す言葉が出てこない。頭の中がぐちゃぐちゃで、まともにものを考えることができない。  このまま全部隠し通して、今まで通りの関係を続けていきたいと思う反面、どうなったって構わないから気持ちを伝えてしまいたいという衝動がある。違う考えを持つ二人の自分に挟まれて、現実の俺はあいまいに首を振るしかできない。  埒が明かないと思ったのか、桂木の体が回りこんできて、正面から俺と向き合った。  うつむいた頬に何かが触れる。桂木の指だった。 「顔を上げてもらえませんか。俺はあなたと、話がしたい」  頬に触れた指と、鼓膜に触れた声に、体の内外がぞくりと妖しくざわめいた。胸を満たすものがぶわりと膨れ上がり、こぼれていく。もう間に合わない。―――あふれ出す。 「……好きだ」  口にしてしまったら最後、もう止める事は出来なかった。俺は衝動のまま桂木の手を掴んで引き寄せる。その目と耳に俺の声が届いて、刻み付けられてしまえばいい。 「あんたが、好きなんだ」  前髪越しにじっと見つめても、桂木はわずかに目を瞠るばかりで、俺を振り払うことも、身を引くこともしなかった。  避けない桂木が悪いのだと頭の片隅で言い訳が聞こえた。気が付いたら自分の唇を桂木のそれに押し付けていた。  桂木は、俺がキスをしても身じろぎ一つせず、どころか、驚きに固まった数秒のあと、俺の唇と凹凸を合わせるようにそっとキスに応じた。  ぎこちなく着地した俺の唇をなだめるようにわずかに食む。まるで、大丈夫だよと言われているようで、涙が滲みそうになった。  このキスに意味はない。桂木は混乱している俺をなだめるために、行為を受け入れているだけだ。  それでも嬉しかった。ごまかしようのない気持ちがあふれて止まらない。もはや消すことなど不可能なほど、この気持ちは大きく育ってしまった。一度放った言葉は消えない。俺も桂木も、前のようには戻れない。それなら、腹をくくるしかない。  桂木の肩に手をかけ、そっと唇を引き離す。触れ合う温度がなくなると、そこがじんじんと甘くしびれた。耐えるようにぎゅっと噛みしめて、もう一度真正面から桂木の目を覗き込む。 「……哲生さんの代わりでも、哲生さんの次……の、次の、次の、次ぐらいでもいいから、桂木さんに俺を好きになってほしい、です」  今更になって思い出したように心臓がどくどくと脈打ち始めた。湧き上がる不安も恐怖も今はすべて飲み込んで、桂木の言葉を待つ。  ……そんな俺の目の前で、桂木はひっそりと、眉をひそめて困惑の表情を作った。 「吉野さんを好きになることは、たぶん、俺にはできません」  がん、と頭を殴られたような衝撃があった。あまりにもバッサリと切り捨てられ、自分がふられたことに一瞬理解が追い付かず、頭が真っ白になる。  じわじわと現実が浸透していくにつれ、体からすぅっと温度が引いていくような心地がした。真っ先に冷たくなってしまった指先を、繋いだままだった桂木の手が握り直す。その指先を、不思議なものでも見るような目で見つめた。自分はどうして桂木と手をつないでいるんだろう。恋人でもないのに。たった今ふられたばかりなのに。  現実から遠くへ、遠くへ、逃げて行きそうになる思考に、桂木の声が流れ込んでくる。 「俺には恋愛感情というものが理解できません。吉野さんが抱いているような、とても強く、一途な感情を俺は持ったことがない。だから、吉野さんと同じような気持ちを、俺は返すことができません」 「…………」  残酷なその声を、奥歯を噛みしめて聞いていると、手を握っていた桂木の片方の手が俺の頬へと触れた。  びくりと肩がはねて、顔を上げた先で桂木が痛みに耐えるような表情をしていた。 「だけど、俺は吉野さんのことを大事には思っています」  それは一体どういう意味か、問いかけるより先に桂木から大きな爆弾が落とされた。 「俺はきっと、吉野さんと恋人になることも、キスやセックスをすることもできます」 「なっ、」  直截的な言葉にぎょっとするも、桂木の表情はいたって真剣なままだ。 「今、俺に返せる言葉はこれだけなのです。吉野さんが望んでいる答えではないかもしれませんが、俺に言えることは」  桂木が言葉を途切れさせる。いつもよりも拙く、切れ切れになる言葉をどうにかかき集めて吐き出しているような、そんな不器用な息継ぎだった。黒々した瞳が伏せられた瞼の下で鈍く光る。 「……あなたがつらい、苦しいと思うことはできるだけ排除したい。だからそのためにできることはしたい。俺にあるのは、そういう気持ちだけなんです」  告白への返答としてはあり得ないほど変化球だし、捉えようによっては体だけの関係ならOKという爛れた回答に聞こえなくもない。  だけど俺の胸にはじわり、と温かいものが広がった。  たぶん、桂木があまりに必死に気持ちを伝えようとしてくれたからだと思う。その真剣さがひしひしと伝わってきた。  きっと桂木は、自分にできる範囲で精一杯俺に応えようとしてくれている。その結果出した結論が一般常識とズレていようと、そうしようと思ってくれたこと自体が何より嬉しい。 「……そんなこと言って、そんなの、俺に都合がいいばっかりじゃないですか」  茶化すような口調は強がりだ。  本当なら、その言葉を額面通り受け取って、彼の恋人になりたい。たとえ気持ちが返ってこなくても、彼に触れて欲しいと思う。  だけど桂木は本当にそれを望んでいるのか。少しでもためらいがあるならここで引き返して欲しいと思った。  そう思って、精一杯の軽い笑顔を作ったのに、桂木の真剣な面持ちは崩れなかった。  桂木はそのまま、俺の手をもう一度握り直して引き寄せる。 「俺は、吉野さんに触れていると落ち着きます。だから、あなたに都合が良いばかりではないと思う」  言われて本当に、ほんのわずかな変化だが、和らいだ表情をされてしまえば、もう胸がいっぱいいっぱいで何も言えなかった。赤くなっていく顔を止められない。とっさに俺は腕をかざして顔を隠した。 「……俺は桂木さんに触られたら、ドキドキしてやばいのに」 「……触らない方がいいですか?」 「触ってほしいです」  つい食い気味に答えると、桂木の手が伸びてきて、顔を覆う俺の腕を外した。  みっともない顔を見られないようにと桂木の腕の中に飛び込む。そして二度とそれを離すまいと、桂木の首にしがみついた。  好きです、俺もです、恋人になりましょう、とお行儀よく言葉にしたわけではない。  だけど、人を想うことに不器用な桂木が「つらいこと、苦しいことが無いようしてあげたい」とまで言ってくれた。それ以上を望むのは業が深すぎる。  桂木の首筋に顔を埋めながら、哲生のことが頭をよぎった。罪悪感がじゅくじゅくと胸を苛んだけれど、もう自分は決断してしまった。桂木に与えられたい、そして望まれたものを与えたい。  死んであの世で哲生に八つ裂きにされてもいいから今この瞬間桂木が欲しい。どこまでも欲深いのに、桂木のたった一言ですべてが満ちる。  肩に頬を預けた俺の首の後ろを、桂木の手のひらが包む。その熱さに体の芯が溶かされていくのを感じながら、俺は瞼を閉じた。

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