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15※
舌がもつれるまでキスをしたあと、ふらふらとおぼつかない足取りで階段を上がり、桂木の居住スペースで互いにシャワーを浴びた。
シャワーを浴びる前に、「吉野さんは、抱く方と抱かれる方、どっちがいいですか」と聞かれて頭が真っ白になるほどうろたえたが、自分ではわからないから桂木の慣れている方を担当してくれと言って、シャワーブースに逃げた。
結局、俺が抱かれる側になったわけだが、その方が良かったと思う。自分ではこんな時、どこをどうしていいかわからない。
深海のように薄青く沈んだ部屋の中で、ベッドの上に横たえられる。組み敷かれて、上から降ってくる指と唇に翻弄された。されるばかりでは男としてのプライドが廃る、と俺も必死に手や唇を桂木の体に這わせる。
そのうち、桂木の触れる場所が下へ、奥へと移っていく。震える性器に触れ、陰嚢を持ち上げて、さらにその奥へ。
「……吉野さん」
「ん……、なっ、なんですか、」
「無理に、最後までしなくても大丈夫なんですよ」
尻の丸みを撫でていた手がすっと離れていく。俺は慌てて、引き留めるように桂木の首に腕を絡めた。
「お、俺はしたいです」
先を促すように、膝立ちになる桂木の脚に自身の脚を絡める。けれど桂木は手を伸ばしてこない。ただ遠慮がちに、俺の顔を覗き込む。
「吉野さんは男性とのセックスの経験はありますか?」
「な……ない。当たり前でしょう」
ぎくりと体をすくめたのは、肌を触れ合わせている桂木に気づかれてしまっただろう。だけど、その慄きの意味を桂木は別のものと受け取ったようだ。
「経験がないなら、怖いのは当たり前です。無理はしない方が……」
「無理じゃないです」
その先の言葉を聞きたくなくて、俺は対話を拒むように桂木に抱きついた。罪悪感で胸がじくじくと痛む。
桂木は、俺が未知の経験を怖がっていると思ったようだが、本当はそうじゃない。
本当は、まったくの未経験ではない。芹沢に最初に拉致されたとき、俺は無理やり犯された。その事実を、俺は桂木に隠している。
初めから、桂木にだけは絶対に言うまいと思っていた。表向きには、男性警察官としてのプライドの問題、ということにしているが、底流に流れているのはもっとシンプルな恐怖だ。
芹沢が触れた俺のことを、桂木は毛嫌いするかもしれない。
せっかく俺に触れようと思ってくれているのに、その気も失せてしまうかもしれない。今は、それが何よりも恐ろしい。
自分でも、臀部へと触れはじめた時から、体が固く強張るのを感じていた。
桂木が俺を心配するあまり、行為を躊躇う気持ちもわかる。指が触れた瞬間、ぎくり、と体が竦むのだ。自分でも制御できない。
性的な意味をもってそこに触れた人間は、今まで一人しかいない。その時の忌々しい記憶が、どうやっても頭にちらつく。
そのせいで、一瞬体が怯えてしまう。そのたびに、浸されていた快楽から体が遠のいていく。
頭では桂木と触れ合いたいと考えているのに、体がそれを裏切って、勝手に冷めていってしまう。ままならない体がもどかしい。
しばらく黙って俺を見下ろしていた桂木が、突然、有無を言わさぬ力で俺の上から退いた。
「やはり、今日は止めましょう。また機会を見て……」
「い、嫌だ! 止めたくない、止めないでください」
肌が離れた部分が驚くほど冷え冷えとして、俺は半ば恐怖から桂木に縋りついた。
どうにかして行為を続けようと、闇雲に桂木の下肢に手を伸ばす。指先が性器を撫でる前に、その手を桂木に捕らえられた。
「俺はあなたに嫌な思いも苦しい思いもしてほしくありません。わかってますか? 吉野さん、あなた、今とても苦しそうな顔をしています」
言われて、桂木の指が俺の眉間をぐい、と押す。初めて自分が固く眉をしかめていることに気が付いた。
「ゆっくり準備していけばいいんです。時間はあるんですから」
「………………」
その言葉には、頷けなかった。
時間がかかればかかるほど、どこからか情報が漏れて、俺の秘密が桂木の耳に入る可能性は高くなる。
そうでなくても、いつ桂木が俺を見限るかわからない。もともと彼には哲生という無二の存在がいたのだから、今この時点で俺との関係を良しとしても、この先、桂木の気持ちがどう変わるかはわからない。
だからと言って「その前に体だけでも繋げてしまえ」と考える自分がいかに浅慮であさましいか、その時の自分は気づくことができなかった。
「……今が、いいです。ちゃんとやる、から」
我ながら、ふてくされた子供のような言いぐさで嫌になった。俺は制止する手を振り払って、桂木の下半身にのしかかる。彼の足の間に顔をうずめた。
「吉野さん、ちょっと……」
後ずさる桂木を逃がさないように、勢いのまま、やや兆した桂木の先端をぱくりと口に含んだ。少しだけしょっぱい気がする。口内でわずかに硬さを増した肉塊にほっとしながら、ぎこちなく自分の手を自身の尻の狭間に導いた。固くすぼまったそこに指を這わせ、無理やり指を入れようとするが、潤みのない状態のそこは軋んで指を阻む。
「う、うぅー……!」
「吉野さんっ」
口の中から桂木の性器がこぼれたのにも気づかず、指を無理やり第一関節まで埋めたところで、ものすごい力で桂木に両腕を取られた。
「こんな……! だめです、やめなさい」
「…………っ」
子供を叱るような口調に、情けなさと惨めさが湧いてきた。歯を食いしばり、必死に涙目を隠そうとする。
「無茶なことはしないでください。初めてなんだから、きちんと慣らさないと傷がつきます」
無言でかぶりを振った。どうせ初めてじゃない。慣らしたとしても、成人男性の性器ほどの大きさの物が入れば切れてしまうことだってある、脆い場所だ。
そんな危うい場所を何度もめちゃくちゃに貫かれた。その感触を俺は知っている。
唐突に鼻の奥がつん、と痛くなった。
自分は男だし、犯されたと言っても女性ほど深刻になることはない。これはただの暴力と変わりない。だから、心が傷つくことはない。そう、自分に言い聞かせていた。
でも、いくら自分を騙そうとも、あれはただの暴力ではなかった。
脆く繊細な部位を弄ばれ、心をずたずたにされ、恐怖と惨めさを味あわされた。自分は性的に蹂躙され、心に傷を負わされた。
そして今に至るまで、その傷は俺の邪魔をする。
桂木は、俺に経験が無い方が良かっただろうか。もし俺に経験があったとしても、その相手が芹沢だったなら……。
(……芹沢が”触った”相手を抱くのは、嫌だよな)
もう、事実から目を逸らすことはできなかった。
自分が傷ついていたということを自覚した途端、急速に頭が冷えていく。桂木と無理やりにでも体を繋げようとしていた自分が、とても汚らしく思えた。
たまらなくなって、桂木にしがみついていた腕を外し、ベッドの隅へと逃げた。俺たちに除け者にされ、端っこでぐちゃぐちゃに丸まっていたシーツを拾い上げる。汚い自分を隠すように、それにくるまった。
「吉野さん……?」
「触るな」
冷え冷えした声が出た。こちらに伸ばされかけた手が空中で止まる。
急に態度を変えた俺に、桂木は戸惑っていることだろう。俺は桂木から距離を取り、シーツを深くかぶったまま、彼と向き合った。
「……したことは、ある」
「なんの話―――」
「芹沢に、…………された」
顔をうつむけたままでも、桂木の纏う空気が凍ったのがわかった
シーツの下からぼそぼそと、隠していたすべての出来事を桂木に告げた。
最初に芹沢に拉致されたときに、性的暴行を受けたこと。前原と浦賀は知っていること。桂木に黙っていてくれるように自分が頼んだこと。
どうして話そうと思ったのか、自分でもはっきりとはわからない。だけど、これ以上桂木を騙し続けるのは辛すぎた。
桂木が俺のことを厭うだけでも息が止まりそうなほど苦しいのに、俺を抱いた事まで後悔するようなら、そのせいでさらに嫌われるとしたら―――俺は本当に、耐えきれない。
すべて話し終えても桂木の顔を見ることができず、シーツを握りしめる自分の手が真っ白になるのを、どこか他人事のように眺めていた。
「……黙ったまま、抱いてもらおうとして、悪かったと思ってます。でも俺、どうしても、桂木さんに触ってほしかっ……!?」
ベッドが大きく軋んで、体がぐん、と引っ張られた。気が付いたら、あたたかい何かに体が包み込まれていた。
呆然と、桂木の肩越しに天井を見上げる。あたたかいものの正体は桂木の胸と腕だった。背中に回った彼の両腕が、ぎゅうぎゅうと俺の体を締め付ける。
「あの…………」
言葉もなく、桂木は俺の体を抱きしめる。首や肩に時折桂木の吐息がかすめ、抱きしめられている実感が徐々に頭の中に浸透していく。
「……すみません、俺は、」
長い時間をかけて絞り出された言葉は、すぐに途切れてしまい、後には続かない。
桂木はその後も何度も、言いかけては飲み込みを繰り返して、ようやく言葉を繋いだ。
「……こうして触れることは、平気ですか。怖くはないですか……?」
「平気、です。むしろ、触ってほしいって言ったじゃないですか」
無言で抱き合い、肌を触れ合わせる時間は、ささくれ立っていた俺の心を落ち着かせてくれていた。そろそろと、気遣わしげに背中を撫でる手が優しい。
「でも、さっきは怯えているようでした。あなたに無理をさせたくない」
「……桂木さんこそ、気にならないんですか」
自分が怯えていたのは、あの日の記憶が蘇るからというだけではない。
桂木に知られて、嫌われるのが怖かった。自分が汚いものとして桂木に認識されるのが恐ろしかった。
だけど、それを告げてなお、桂木は俺を嫌わず、こうして背中を撫でてくれる。
だから俺は、恐ろしくとも聞くことができる。
「桂木さんは嫌じゃないですか。芹沢が抱いた俺を抱くのは」
「そんなことを考えて……」
背中を撫でていた桂木の手がぎゅっとこぶしの形を作る。
「嫌になるわけがない」
その答えに、きりきりと絞られていた胸が緩む。安堵がどっと押し寄せて、桂木の肩に瞼を押し付けた。こみ上げるように深い息を吐く。
「それなら、触ってほしいし、最後までしてほしい。……もういい加減、死んだ奴にこれ以上めちゃくちゃにされたくないんです。さっさと忘れたい」
触れられて嫌だった場所も、感触も、すべて桂木のもので上書きしてほしい。石鹸で何度こすっても消えなかったあの感触が、桂木の手でなら落とせると思う。
「忘れさせて欲しいです」
ぽつり、と呟くと、桂木が俺の髪をなでた。
「……貴方が望むのであれば」
言葉と同時に、唇が降ってきた。俺は胸を押す手に抗わず、そのまま桂木と共にベッドへ倒れこんだ。
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