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 ---------------------------------  吹き抜ける風がいつの間にか柔らかく、春らしいものに変わっていることに気づく。  ふと見上げると、桜の立派な枝ぶりが頭の上まで張り出して、花びらをひらひらと降らせていた。こじんまりとした境内には桜の木がそこかしこに植えられていて、濃い色の土の上をうすピンクの花弁がぽつぽつ彩っている。  深御市から県をまたいで南に位置するこの小さな町では、丁度今が桜の盛りだ。来週ごろには、本部の周りの桜も咲くだろうか。  する事もなく、ただぼうっと落ちてくる花弁を眺めていると、遠くからこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。目線を向ければ、寺の本堂から歩いてくる人影が一つ。先刻見送ったときと比べて一人足りないその影に、こちらから声をかけるより早く、向こうからのんびりした声が飛んできた。 「忠幸(ただゆき)くん、お待たせしてすんませんなぁ」 「籐連さん。桂木さんは?」  和装独特の襟付きコートの裾を翻し、ゆったり歩いてくるのは、以前お世話になったことのある道浄寺の和尚、田中籐連だ。柔和な笑みを浮かべながら俺に向かって手を振っている。 「一巳くんは、もう少ししたら戻ってくるさけ。少しだけ、墓の前で一人にさせてくれって頼まれたんやに」 「そう、ですか」  視線を下に向けた俺に対して、籐連は俺の横に並びながら、ふっふっ、とわざとらしく笑ってみせる。 「……妬いとるん?」 「……なんで妬く必要があるんですかね?」  今日はじめて籐連と顔を合わせてからというものの、何度かこの手のからかいを受けた。そのたびに平静を装って躱しているが、何度もしつこく突っつかれるとさすがに面倒になってくる。  桂木は、籐連に俺とのことを話したらしい。そういう事を軽々しく他言しないでほしいと思うが、桂木の性格的にその辺の気遣いは期待できない。 「別にええやん。誰が誰に懸想しようと自由なんやから。あんまり深刻に捉えんと、もっと忠幸くんは楽に物事を考えてもええ思うよ」  何度からかわれても怒る気になれないのは、この籐連の独特のゆるさのおかげだった。  俺は、桂木にとっての哲生がいかに大事な存在だったかを、間近で見て実感してきている。だからなのか、哲生に遠慮してしまうというか、なんとなく後ろめたさを感じてしまって、素直に桂木を好きだと思うことができない。  でも籐連は、後ろめたく思う必要も、遠慮する必要もないと俺の悩みをバッサリ切り捨てる。好きになることは悪い事ではないのだから、もっと堂々と好きと言えばいい、と笑うのだ。  気負わない、軽い口調でそう言われるたびに、少し胸の中が楽になるのが分かるから、俺はうんざりしつつも、籐連のからかいに怒ることはない。 「やー、桜がきれいやなぁ」  明るい声につられて、俺は再び頭上へ視線を移す。深御市の街中ではまだ見ることができない、満開の桜。  俺が今いるこの寺は、哲生の親戚が営んでいる寺院で、深御市がある県の隣県に存在している。寺が管理する墓地には、哲生の両親も眠っている先祖代々の墓がある。  両親を亡くした哲生は子供時代をこの寺で過ごした。そして、いつの日か彼が死んだときは、先祖の墓に眠るために、骨になってこの寺に戻ってくるはずだった。  けれど、それが叶うことはない。  哲生の遺体は衣山で忽然と消えた。  掘り起こしたはずの哲生の首は、いくら探しても見つからなかった。浦賀が運んできた手足と胴体は、持ち運ぶのに使った鞄だけを残して消えていた。残っていたのは、俺が掘った穴と、空っぽの鞄だけ。  遺体が消えたことは確かに不思議だ。だけど、あの場で起こったすべてをこの目で見た人間としては、そのくらい起きて当然という気持ちになる。  彼は、神様になった。人が神になるなんてとんでもない事が起こるなら、遺体ぐらい消えても不思議じゃない。  当然、遺体が消えたのだから、墓に納めるべき骨もない。ここへ来たのは、失われた骨の代わりとして、哲生の遺品を墓に納めるためだった。  数少ない哲生の遺品は、籐連と桂木が形見分けとして持っていた。その中から、墓の中に納めても問題なさそうなものを、骨の代わりに墓へ納める。桂木から聞いた話では、ヴィンテージのオイルライターを納めるらしい。  哲生の恋人だった桂木と、親しい親戚だった籐連。遺品を持っているこの二人が寺を訪れるのは分かるが、どうして俺までここにいるのか。  それはこの話を桂木から打ち明けられた、数日前にさかのぼる。 「遺品を、お墓に?」 「ええ。遺体が発見できなかったことを、哲生の親戚の寺に知らせたら、そうするのがいいんじゃないかと提案されて」  いつものように事務所のソファでコーヒーをごちそうになっていると、隣に腰かけた桂木がぽつりと告げた。  今まで向かい合って腰掛けることの多かったこのソファだが、最近、仕事終わりや休憩の時間、たまに桂木はこうして俺の隣にわざわざ腰掛ける。  桂木は肌の温度だったり吐息だったり、触覚で受け取る刺激を好んでいる。……とここ最近の俺は分析している。  隣同士に腰かけるのは、互いの顔を見ることができない代わりに、肌を通じて相手の存在を感じ取ることができる。親しい相手にしか許されない、特別な距離。 「哲生がどうなったか、親戚のかたは知りませんから、遺体がないとしても供養はすべきだと考えているんでしょう。それに、俺も……人としての哲生を、弔ってあげたいと思いますし」 「……そうです、ね」  哲生は山神という存在に―――人の常識から到底逸脱した存在に成った。  とはいっても、哲生はもともと、ただの人だった。亡くなった人の供養をしないのは、なんだか落ち着かない。死者を冒涜しているような、失礼なことをしているような気持になる。 「葬儀はすでに済ませていますから、遺品を納めるのにそんなに時間はかかりません。今度の土曜日、籐連さんと俺で遺品を持って行って、納めてもらいます」 「籐連さん? ……ああ、籐連さんも、哲生さんの親戚なんでしたっけね。わかりました、仕事の方は気にせず、ゆっくりしてきてください」  そう言って笑いかけた俺の顔を、桂木は真顔でじっと見つめた。いつまでたってもそらされない視線に戸惑い、俺はやんわりと笑いをひっこめる。 「……もしよければ、吉野さんも来ていただけないでしょうか」  躊躇いがちにそういった桂木に、俺はすぐに言葉を返せなかった。  驚いてもいたし、戸惑ってもいた。哲生と俺は多少縁があるにせよ、生きているうちに会ったことは無いし、親しいわけでも勿論ない。どころか、哲生の恋人だった桂木と―――まあ、その、関係を持っているわけで、微妙な立場だ。  そんな俺が、遺品を墓に納めるという大事な行事に立ち会ってもいいのだろうか。 「業務の都合があるなら、こちらの方で日程を合わせます。来ていただけませんか?」  予定をこちらに合わせるとまで言われてしまえば、断る道理はない。こちらの表情を窺っていた桂木に向けて、俺は目を見て頷き返した。 「土曜日、大丈夫です。今抱えている案件はないですし。ついでですから、俺が運転手しますよ。……あ、もしかしてそのつもりで誘ったんです?」 「……そうじゃありませんよ」  否定しつつ、桂木は俺を誘った理由を言わなかった。俺は俺で、桂木が言いたくないのなら無理に聞く必要はないと、あえて考えないことにした。  そうして俺は今、こうしてぼうっと、意味もなく境内の桜を眺めている。  無用な混乱を避けるために、俺は哲生の親戚とは会わず、車で二人を待っていることに決めた。桂木と籐連に比べ、俺は明らかに余所者だし、墓を開くというならなおさら、親しい人間だけで済ませたほうがいいはずだ。  籐連は桂木のことを、哲生の無二の親友だと紹介したらしい。だから桂木は哲生の遺品を形見分けしてもらうことができたし、この場にも同席を許されている。  ……本当の間柄は違うわけだが、二人ともそれを訂正する気は無いようだ。  ともあれ、そんな経緯で俺は、当初は本当に運転手よろしく車の中で二人を待っていた。だけど、だんだんとじっとしている事に飽きてきて、ふと窓の外で揺れる薄紅色に引き寄せられて車外へ出た。  境内に入ると、古色蒼然とした建物を背景に桜が満開に咲き誇っていて、見事なその光景に目を奪われた。美しい景色に誘われるままに、一人で境内を散策し、お花見を満喫していたところ、籐連一人だけが敷地の奥からやってきたのだった。 「いい眺めやし、ここでこのまま待っとってもええかな? 一巳くんはすぐ戻ってくると思うし」 「ええ。俺も車の中より、こっちの方がいいです」  にっ、と笑う籐連にこちらも笑い返して、再び桜を見上げる。ひらひらと間をあけて落ちてくる花びらは、不思議と見飽きることがない。  黙って桜を鑑賞していると隣から、はあ、という盛大なため息とともに、籐連のぼやく声が聞こえてきた。 「ほんとに、なんとか丸く収まってよかったなぁ。哲生が神様やぁなんてびっくりしたけども」 「はは、俺もびっくり……っていうか、いまだに理解が追い付かないっていうか」  苦笑しながら振り返ると、きりりとした目を柔らかくたわめて、籐連がこちらをじっと見ていた。  今までの軽いノリの会話に似つかわしくない、妙に強い視線に、俺はとっさに黙り込んでしまう。 「……本当に。このままいったら、一巳くんが鬼にでもなってしまうんやないかと思っとった。そうならなかったんも、忠幸くんが居ってくれたおかげやんな」 「そんな、鬼って。……大げさな」  籐連の口調は、冗談なのかそうでないのか判断が付かないあいまいなトーンだった。笑い交じりで返してみても、籐連の捉えどころのない口調は変わらない。 「大げさでもなんでもあらへんよ。人は簡単に鬼になるから」 「…………」  口をつぐんでしまった俺から目を逸らし、籐連は頭上で花開く桜を見上げる。 「前も話したことあったやろ。葵上と黒塚の話や。嫉妬やらさみしさやら、そういう感情が膨れ上がって、それがあんまり、強なりすぎて、鬼になる。人が人の範疇を超えた時に、それは鬼になるのや」 「人の範疇を、超えたとき……」  籐連の目は桜を通り越し、何か別のものを見ているように思えた。しみじみとした口調で、籐連は語る。 「鬼気迫る、とか鬼がかる、とか、日本語でもあるやろ? 鬼畜、鬼才、鬼嫁、殺人鬼。何かを猛烈にやりこむ人を、ナントカの鬼って言うたりな。冷酷非道な人を単純に、鬼、とも呼び表しますな。ともかく、それが感情であれ行動であれ、(おお)きゅう人の枠を超えた時に鬼が出るんや」  殺人鬼という言葉に、俺はいつぞや浦賀と交わした会話を思い出す。そういえばあの時、俺は、芹沢の所業は人ではなく鬼のそれだと浦賀に話したのだった。 「……なんとなく、わかります」 「そやろ。……復讐の鬼っていうんやろか。一巳くんがそんな風になってまうんやないかって、心配しとったんよ」  それも、わかる。  復讐に突き動かされている桂木は、本当に、それこそ鬼気迫って見えた。その一面を初めて目の当たりにしたときは、桂木の得体の知れなさに恐怖を覚えたこともあった。  ―――だけど。 「……だけどな、」  俺の心の中のつぶやきと、籐連の言葉が重なる。俺ははっとして籐連を振り返った。 「だけどな、逆に言えば、鬼って、人間らしさなんよ。鬼ほど人間味にあふれた存在って無い。だって、悲しむのも嫉妬すんのも復讐すんのも、意味もなく非道を働くのも、むやみに殺生するのも、どれも人がすることやろ?」  ―――俺は。  桂木の異常さを、怖いと思ったこともあった。だけどその裏側に、深い悲しみがあることを知って、だから俺は、桂木の力になりたいと思った。  桂木の言動の裏に隠れている、悲しみや怒り。それらを生む、情の深さ、繊細さ。悲しみを誤魔化すことなく受け止めてしまう、真っ直ぐさ。  そんな、桂木の持つ不器用な人間らしさを、俺はきっと好きになった。 「……なぁんて。屁理屈かもしれんけど」 「そんなことないです。……なんか、わかります」  冗談めかして言葉を締めくくり、へらり、と笑いかけてきた籐連に、俺はゆるゆる首を振った。  籐連がこんな話をしたのは、桂木の身を案じているからだ。籐連も、真っ直ぐな心根を持った桂木のことを好ましく思っていて、だからこそ不器用な彼のことを心配している。 「ふふ。忠幸くんならわかってくれると思った。……なあ、これからも、一巳くんを頼むな?」 「……そりゃもちろん、相棒なので」  一瞬、どう返したものかと悩んだ俺の心を見透かすように、籐連が俺の目を覗き込む。 「うん。一巳くんがまた鬼になってしまいそうなときは、相棒の忠幸くんが思い出させてあげるんやで。一巳くんがにんげんだってこと、」  優しく、温かではあるけど、真剣なまなざしが俺を射抜く。  ……桂木が人間であるということを、俺が、思い出させる。  以前だったら、俺にできるのかと不安になっただろうし、それが本当に桂木の幸せなのだろうかと躊躇したかもしれない。哲生のもとへ行きたがる桂木を止めるべきか、迷った時のように。  だけど今は、少しも迷う気はない。あの時、桂木に哲生の手を取らせず、とどまるように願ったのは俺だ。俺が、俺の意志で、桂木にそうあるよう求めた。  だから俺は桂木の手を離さない。俺がそうあってほしいと願ったのだから、最後まで責任をもって、桂木が人としていられて良かったと思えるよう尽くす覚悟だ。 「当たり前です。俺は桂木さんの……相棒なんですから」 「うん、その意気やで」  視線をそらさず頷いて見せると、籐連は目を糸のように細くして、うんうんと頷き返した。その顔に先ほどまでの鋭さは微塵もなく、ただいつもの柔和な笑みが浮かんでいた。  ふとそこで、遠くからかすかに聞こえる足音を聞きつける。顔を上げて見渡すと、敷地の奥からこちらへまっすぐ向かってくる人影が見えた。  黒のスーツに身を包み、猫背気味に歩く長身のシルエット。伸びた髪は風にもてあそばれて揺れている。 「お、一巳くん戻ってきた。おーい」 「籐連さん、吉野さんも。お待たせしてすみません」  絶えず吹き付ける風に前髪があおられ、桂木の顔があらわになる。その顔はいつも通りの無表情にも思えるが、俺には、張りつめていた何かがほどけたような少し柔らかな表情に見えた。  ふと見れば、さんざん風に遊ばれた髪の毛には、桜の花弁がくっついている。にこりともしない表情で桜をくっつけている桂木の姿に、俺は胸の奥から自然とこみ上げてくるような笑みを浮かべていた。 『人は簡単に鬼になる』と言う籐連の言葉は正しいと思う。  桂木の心はまだ傷を抱えているし、そうでなくともいつか桂木はまた哲生に惹かれて向こう側へ行きたくなるかもしれない。それに、桂木を失えば、今度は俺が鬼になるかもしれない。  鬼になってしまうことは、とても悲しいことだ。だけど、そうならざるを得ない彼の、ままならない部分もすべて含めて、愛おしい。  桂木が愛おしい、と思う。恥ずかしくてとても口に出せたものではないが、俺の前で悲しみ、苦しんでいた男が、こうして桜の花を頭にくっつけて首をかしげているのを見ると、しみじみそう思う。 「気にしないでください。お花見楽しんでたんで」 「一巳くんも一緒にお花見~と言いたいとこやけど、そろそろ俺寺に帰らんと行けやんに。ごめんなぁ、一巳くん」  言われてスマホを取り出し、時刻を確認してみれば、確かにそろそろいい時間だった。 「いえ、俺が待たせてしまったので。遅れるといけませんから、早く戻りましょう」 「ごめんな、あっちに戻ったら、お花見楽しんでな」  三人そろってぞろぞろ歩きながら、最後の見納めにともう一度頭上を振り仰ぐ。  籐連の言葉通り、深御市はこれからが桜の見ごろだ。 「あっちも、来週末あたりには満開だそうですよ」 「そういえばもう四月ですか……早いものですね」  そっけない口調に、そういえば桂木は花見をするという習慣があるのだろうかと疑問に思う。桜を見ながら宴会をするタイプでは絶対にない。 (……繁華街から本部までの道に、桜が咲く並木道があったな)  仕事帰りや、桂木の事務所に寄った折にでも、一緒に見るタイミングはあるだろうか。  そんなことを考えながら、俺は少し先を歩く桂木を早足で追いかけ、隣に並んだ。

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