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第9話
イサクの仕事は本格的に忙しくなり、再び顔を出せたのは半月後のこと。
漸く大きな仕事が片付いたので、久方ぶりに人の姿でアダムの元を訪れる。人の姿で会うのは怒られた日以来だ。
時刻は昼過ぎ。獣化するまでに十分余裕がある。部下が先触れをしたので、訪れることは相手も承知済みだ。
イサクが居住まいを正して扉を叩こうとした時。
玄関扉が勢いよく開く。
鼻先すれすれの扉から飛び出したのは、アダムの一人息子だ。確か、名前はサミーといったか。
イサクが記憶を探ると、まん丸の瞳がこちらを不思議そうに見上げて、ぴゅーんっと姿を隠す。
「宰相様すみませんっ、お怪我はないですか?」
「……大丈夫だ」
出迎えたアダムが慌てて謝罪する。サミーは母親の足に抱きついてこちらを覗いていた。
果たしてアレで隠れているつもりなのか。
じっとりとした視線から目を逸らさずにいると、アダムが咳払いをする。
「こら、サミー。ご挨拶は?」
「狼じゃないよ……?」
「んんっ!」
大袈裟なほど咳払いをして、アダムが素早くサミーと向き合う。そして、コソコソと話した。
「狼って言っちゃダメ。……宰相様って言うんだよ。お母さんを雇っている偉い人だからね」
「……ふぅーん」
イサクは黙って目の前の親子を見ていた。
どこまでも平和で穏やかな光景だ。
ふと、遠い記憶が蘇る。アダムはサミーを手放そうと思ったことは無いのかと不思議に思った。
なんせ、アダムの出身国はこのたび会談するソワルフ王国だ。オメガを未だに性奴隷として扱う国なのだ。一人きりで子供を産むのは無謀だと言われる環境で、よくこれまで子育てを続けられたなと感心する。
アダムに愛を教えてもらおうと思ったのは、なにも運命の番という理由だけではない。
この親子が眩しかったからだ。
眩しくて眩しくて、イサクの心に不思議と安らぎを与えてくれる。
それは、自分には一生味わえない暖かさだ。
イサクの母もアダムと同じオメガだった。父親が誰かは知らない。
母は旅芸人の踊り子だったので、その先で出会った誰かなのかもしれない。
妊娠が発覚すると、母は一座を追われたそうだ。そして、生まれ故郷のここに戻ってきた。イサクが幼かった頃は、帝国内もまだオメガを差別する者が多かった。貴族では大切に扱われていたようだが平民は違う。父親が誰なのか分からないオメガへの扱いなど、特に顕著で冷たい。
朧気だが、母が苦労している姿を何度も見た。道を歩くだけで石を投げつけられ、買い物に行けば追い返される。ただ息をするだけで罪を犯しているようだった。どれもこれも胸糞悪いものばかり。
ただ、覚えている記憶は僅かだ。
なんせ、母親との記憶は四歳の頃で途切れている。
大きな屋敷での口約束が、最後に交した言葉だった。
──季節が三つすぎた頃、迎えに来るからね。
幼少期から冷めていたイサクは嘘だとわかっていた。
アルファ性の自分は大きな商会を営む男に売られたのだと。最近、母がいい感じの男と肩を寄せ合っているのを見た。そして、ねっとりと見つめてくる卑しい男と、金の話をしているところも。本当に恋人ができたのか、金を受け取ったのかは分からない。ただ、二度と暖かい手は戻ってこないことだけは分かっていた。
イサクを引き取った男は、大きな商会を営んでおり、街では善人だと有名だ。身寄りのない子供を預かったり、貧困している者に支援をしたり。ただし、顔がいい者、に限るが。
屋敷にはイサク以外にも子供がいた。誰も彼もが美しい容姿をしている。そして、夜に聞こえてくるすすり泣くような嬌声は、男の部屋から聞こえるものだった。
母譲りの美貌をもつイサクもまた、当時から有名だった。
とびきり美しい顔をした少年が居ると。自分の価値を正しく理解していたイサクは、男が悪人だと見抜いていた。
事故だと嘯く男に尻や胸を撫でられながら、イサクはいつも窓の外を眺める。
季節が三つすぎた頃、大好きな母が迎えに来てくれるから。
だから、季節が三つ過ぎるまでは、耐えなければならない。
大きな窓の外から見える木々が緑に彩られる。そして指折り数えて待つと、葉は赤く染まり秋が来た。風に吹かれて落ちゆく枯葉を眺める頃には、数えるのを辞めた。あっという間に冬はくる。梢が寂しげに擦れ合うと、イサクもなんとなく泣きたくなった。そして、枝の先に小さな蕾が誕生する。大きくなっていく蕾が花を咲かせた頃、イサクは一つ歳を重ねた。
春が訪れ花が散り、再び目にも鮮やかな緑に溢れた頃。
イサクは屋敷を抜け出した。
季節が三つ過ぎてもやはり母は迎えにこなかった。
でも、それでいいのだ。
だって、自分が居ると母はいつも辛そうだ。一人きりで眠る時、母の泣き声を探した。毎夜、目が覚めるたびに、母が泣いていないかと息を潜めるのだ。
苦しめるぐらいなら手放して欲しい。
そして、幸せになって欲しい。
アルファの自分はきっとなんとかなるから。
大好きだから離れたい。
それからイサクは貧民街でスリをして暮らすこととなる。周りには同じような子供が大勢いた。成長するにつれますます美しさは増し、笑顔ひとつで金を恵んでくれる者もいたぐらいだ。
ずる賢くて美しいアルファの噂は王宮にまで届く。
そして、イサクが13歳を迎えた頃。当時、宰相だったバーレ公に捕まり、養子になったのだ。
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