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* * * 「――こっち!」 「――はいよっ」 「――いけいけ!」  クラスメイトという共通項があるだけで、普段の学校生活で不良の鴻と深い関わりがあるわけではない。彼は指定の制服を好きなように着崩し、拠点を使われていない空き教室に置き、好きな時に授業に出る。単位を取らなければいけない制度上、授業だけは真面目に出ているようだが、その態度は言うまでもないだろう。それでも頭がよくテストの結果はいつも上位らしく、授業も真面目に受けていればその成績表に五が並ぶことも少なくないだろうと簡単に推測できる。  そんな鴻が授業の中でも居眠りをせず、活発な動きを見せるのは、体育であった。  契約を交わすまでは共に行動することがなかった湊、里津、流夏の三人は巧みにシュートを決めるジャージ姿の鴻を見つめる。  単純に体を動かすのが好きなのだろう。チームメイトに編成された同級生としっかり連携がとれており、何よりも穏やかな鴻に最初は遠巻きだった彼らも最早楽しそうにパスをしあっていて、ゴールを決めればハイタッチするまでに交流を深めているようだ。  そもそも鴻が不良だといっても乱暴だとか人に迷惑をかけるようなことは一切しない。教師に歯向かっている場面でさえ、入学してから今までというものの、湊は見たことがなかった。里津も流夏もそうであろう。 「――まぁ、よく動きますね」  心底共感できないような呟きが流夏から漏れ出る。  それに同意を示したのは里津だ。 「――うん。あそこまで動けたらもうプロだよー。僕なら吐くね」 「汚いですよ、里津」 「あははっ」 「次は里津の番でしょう?」 「うん。適度に頑張るよー」  にこやかに会話を続ける二人を横目に、湊は鴻を追い続けた。  勉強もできて運動もできる。おまけに顔もいいときた。性格だけは少々問題がありそうだが……人気者には変わりない。 「――鴻くんカッコいいね」 「――そう?」 「うんっ」 「まぁ……でも、人の視線を集めるのは上手いわ」  鴻にベタぼれらしい女生徒とその友人らしき女生徒。  後者の彼女に湊は同感だった。  なんだかそこに立っているだけで存在感のある人間なのだ、夏々城鴻は。人知れず視線を奪って、魅了し、虜にする。無論、鴻を快く思わない生徒もいるにはいて。悪目立ちしないわけでもない。 「みっちゃん!」  ふと、そこで体が揺さぶられていることに気付く。  すれば、背が幾分か小さい里津が不満そうに唇を尖らせて見上げている。 「あ、ごめん、りっちゃん」 「なあに、みっちゃんも鴻くんを見てるの? ……好きなの?」 「え……? い、いやいやっ! ないない」 「じゃあ、どうして見てたの?」 「……」  ぷんすか、といった様子で里津は腕を組む。その姿はなんと愛らしいことか。可愛くて今にでも抱き締めたい衝動を堪えつつ、湊は首を振った。 「ごめん。鴻が飛ぶたびにお腹が見えてさ」 「……うん?」 「いや、ほんとごめん。少し、えろいこと考えてた」 「……」  その瞬間、里津の顔が真っ赤に染まる。 「みっちゃん変態!!」  それが大いに授業中の体育館に響き渡り、その場にいた全生徒の視線を集めるという羞恥に湊もまた頬を微かに色づけさせる。  ぽかぽかと殴る様は実に可愛らしいが、変態と罵られたのが自分であると露見するから止めてほしい。それも言えずに、湊は乾いた笑いで誤魔化した。  ――本当は、少し見とれてしまっていた。  というその事実を。 「何してんだよ、お前ら」  鴻が呆れた様子で近寄ってきて汗を拭う。ちょうど試合が終わり、鴻のチームが勝ちをおさめたらしい。  次は里津ら別のグループに招集がかけられ、入れ替わりに里津が抜けていく。 「みっちゃん! ちゃんと僕頑張るからっ。見ててよね!」 「うん!」  そう返事をして手を振ると、里津は満面の笑顔で輪の中に向かっていった。 「で? 何を騒いでたんだよ」 「別に大したことじゃありませんよ。貴方こそ、いつもに増して楽しそうでしたね」 「あ? まあな。体動かすのは好きだし……てか、何? 朔頼、機嫌悪ぃじゃん」  流夏の様子を見て、鴻がそう言う。 「あー流夏は体動かすの嫌いだから。それに暑いのも。――外出て涼んできたら? 流夏」 「……えぇ、そうします。申し訳ありませんが、何か聞かれたらそのように伝えてくれますか?」 「うん」 「ありがとうございます」 「何だよ、貧弱だな」  少し顔色の悪い流夏が身を縮めるようにして体育館を出ていく。  湊が言ったように流夏は運動が嫌いで、それに伴う体温上昇に弱い。鴻の言葉にも頷けるが、昔からの体質らしい。  ……不意に、妙な疑問を抱いてしまった湊だったが、それらを追い払って隣の鴻を見上げる。  なるほど。女生徒が騒ぐに相応しい姿かもしれない。首筋を、一筋、汗が――。 「なんか珍しいね」 「何が」 「鴻が楽しそうにみんなと授業するなんて」 「バスケを授業だって思うやついないだろ」 「そうかな。少なくとも流夏はものすごく嫌そうだったけど……」 「あー……あいつは論外」  鴻は背中を壁に預け、早速始まった試合を目で追いながら、 「体育はちゃんと活動しないと成績に響くからな」 「……え?」 「他の強化ならテストでカバーできるけど。体育だけは実技試験のようなもんだし」 「……えぇ〜……」 「は? 文句あんの?」 「イーエー」 「はっ、文句ありそうじゃねーの。何だよ、はっきり言えよ。あ、お前はベッドの上じゃねぇと素直になれない質だっけ。なぁ?」  ふぅ、と耳に息が吹きかけられ、鴻が一際近く顔を寄せる。 「や、やめろ、こんなところで……見られる」 「見られたっていいぜ、俺は。お前、見られんのも好きだろうが」 「は、はっ? そんなわけないじゃん!」 「動揺は言葉の肯定、」 「む……むかつく!!」 「あはははっ」 「笑うな! 変態!」 「変態はお前だろ? さっき言われてたし。聞こえてたぞ」 「それは里津が……っ」  ――言い訳をするにも他の言い方があっただろうに。どうして鴻を見て発情しかけた、なんてあからさまに言ってしまったのだろう。  それでは鴻に返す言葉もなく、むむむっと押し黙るしかない。  そんなことを知るはずもない鴻だが、彼は思いきり笑うのを堪えるように肩を揺らし、拳で口元を押さえている。それは爆笑寸前、というようで。  次の瞬間。 「鴻っ」 「……、……っぷふ」 「〜〜っ、笑うなら笑えよ!」 「――お前ら! 私語するなら出ていけッ!!」  変態と罵られた時よりも凄まじい大声が体育館を震わせ、湊は首をすくませることになったのだった。  その間にも鴻は我慢していて、とうとう爆笑しだし、更に担当教師を怒らせる羽目になった。 * * * 「原稿用紙三枚。これで許されるだけ寛大と思え。私の心は寛大だ、はいっ復唱!」 「み、宮下先生の心は寛大です」 「……」 「なんだ、夏々城。黙りか? 私はいくらお前でも下手に出る気はないぞ。はい」  手のひらを上に向け、復唱せよと仰せの体育教師宮下は無言無表情の不良夏々城鴻に恐れる風もなく、椅子にふんぞり返っている。 「ハッ」 「きっ、貴様! 今、笑ったな! 私をっ」  が、組んでいた足を素早く解き、地を踏みしめる。  湊は勘づく。この男、鴻は今にもまた吹き出しそうである。何が面白いと言うか、まさか箸が転げただけで笑える域に鴻も足を踏み入れたのだろうか。  はらはらとする湊の隣で佇立するだけであった鴻は――宮下には悟られないようになのか――息を小さく吐き、 「宮下センセーは寛大な心をお持ちです」  妙に緩慢とした気持ちの(こも)っていない口調でそう繰り返した。  また怒鳴られるのではないかと戦々恐々とする湊の前で、彼はにやりと笑む。  そして、それはすらすらと出てきた。 「きっと罰なんて痛々しいことはせず、俺達を許してくれます。それほど優しく慈悲深いセンセーデス。なので、ほら――湊その原稿用紙置いていこう。宮下センセーは寛大だから書かなくていいと仰っている。では、センセー、また次の授業で」 「……」 「え……えぇ?」 「ほら行くぞ、湊」  いきなりの展開に状況が理解できずにいる湊の腕を引っ張って、鴻が歩き出す。  呆気にとられているのは宮下も同様なのか、一言ですら追い縋ってこなかった。  それもあれもこれも鴻の作戦であると気付いた時には、職員室の遥か遠くまで逃げてきていた。  慌てて隣に並び、問う。 「こ、鴻。今のは……」 「面倒だったから」 「だ、大丈夫かな」 「大丈夫だろ。てか大丈夫にしたし。自分で寛大と言ってたんだ。俺があれだけ大きな声で言えば、もうアイツには何もできないさ」 「……そう、だといいけど」 「なんだよ、不満か?」 「うっううん、そんな。ありがとう」 「ふん」  階段を上がる。  宮下の説教に時間を割いた分、昼食が短くなってしまった。早く教室に戻って食べなければ午後の授業をまともに受けられなくなってしまう。空腹は強大な敵だ。  鴻は例の溜まり場にでも行くのだろうと勝手に当たりをつけ、じゃあと別れを告げようとしたその時。 「お前、今日、弁当持ち?」 「え?」 「弁当持ってきてんなら来いよ」  ――誘われた。  一緒に食べよう、なんて友人のようなやり取りではない。強制力を伴う言葉で、だ。  だが、嬉しくなった湊はすぐさま頷いて教室へ急いだ。  それから里津と流夏に断りを入れる間もなく弁当を鞄から引ったくって、あの空き教室がある校舎の奥に駆けていく。  自分でもどうしてこんなに浮き浮きとしているのか、分からなかった。ただ単に、これが初めて一緒にする昼食だからだろうか。記念すべき、初めて。友人同士のような、他愛のない食事。 「鴻、お待たせ……っ」  ノックもせず、扉を開ける。と、教室にもある机と椅子が何組もあり、その二つがくっ付けられた状態で、片方に鴻が腰を下ろしていた。  二つ。その隣り合う形を鴻が形成したと思うと何かおかしく、心がぽかぽかとしてしまう。 「早く座れよ」 「う、うんっ」  向かい合わせではないのだ。顔を見合って食べ合うのは気恥ずかしいし、それでもいいのだが、あまり見ない光景だとも思う。 里津や流夏がこの場にいたらすかさず突っ込みを入れるだろう。 しかし、そんな彼らは今はいない。  鴻に誘われた時、別段一人で来いとは言われなかった。湊には里津と流夏を連れてくる選択肢もあったはずだった。だが、自分は選ばなかった。  鴻と二人きりになる時間を選んでしまったとも言える。  少し緊張して震える指先で何とか包みをほどき、蓋を開ける。 白いご飯と冷凍食品を詰め込んだだけの弁当。けれど、それを毎日欠かさず作ってくれる母親は朝早くに起きて持たせてくれるのだ。愛情はこもっている。  今日のおかずは、可愛い物好きの母親が選びそうな内容である。ハンバーグにポテトフライ、ほうれん草のソテーに唐揚げ。デザートには一口カップのゼリー。間違いなく、お子さまランチを想像して作っただろう弁当に笑みが漏れた。  それに気付いたらしい鴻が訝しげにこちらを見つめている気配がする。  これは話のいいきっかけだと思い、湊は中身が見えるように弁当を移動させる。 「お子さまランチ」 「……へぇ」  馬鹿にしたようではない、どこか驚いた声音だった。 「毎日そんななのか?」 「うん。変、かな……? 冷凍食品だけど」 「変とは言ってねぇよ。うちはいつも買い食いだからさ。手作り弁当って久し振りに見た」 「そうなの? 鴻は……パン?」 「あぁ」 「ふーん」  鴻の手元には有名コンビニの袋に入った三つのパンとコーヒーだ。 「じゃあ、交換する?」 「は?」 「弁当とパン。交換しようよ。こういうのやってみたかったんだ」 「別に、俺はいいけど……。お前はそれでいいのかよ?」 「うんっ」  弁当を鴻側の机に置き、袋を受けとる。が、コーヒーだけは返品。 「飲めないから」 「お子様め」 「その喧嘩は買わないー」 「生意気」 「いてっ」  頭を小突かれたものの、湊の表情は緩みっぱなしであった。  それぞれの昼食を交換する。なんて友人らしい行為だろうか。  契約がなければ接点がなかった、鴻。それでも鴻とは放課後だけの関係で。こういう友人らしいことがしてみたかった湊にとって、至極嬉しい時間だった。  里津と流夏は分かってくれるだろうか。  どうしてか、彼らとは友人でもあるように思う。普通の友達。湊にはそう思えてならない。  焼きそばパンをもぐもぐしながら、思考を巡らせる。 「湊」  と、名前を呼ばれた。  そちらを見てみれば、鴻は小さな箸でハンバーグを口に運びながら言うのである。 「美味しいよ」 「……」  つい、黙ったまま見とれてしまった。  本当に美味しそうに食べていて、もう半分も残っていないから言葉に偽りはないだろう。  しかし、鴻がそんなことを言うなんて。正直、驚いた。 「美味しいなら、よかった。お母さんも喜ぶよ」  なんとか言葉を紡ぎ、綻ぶ口元を隠すように残りのパンを放り込んだ。慌てすぎて喉に詰まりそうになったのは言うまでもない。

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