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「――里津、なんだか最近ご機嫌ですね」
今日も変わらない放課後。階段を跳ねる勢いで降りていた里津は、流夏のその言葉で自分がにやけていると気付いた。
「え、そんなことないよ」
自分でも白々しい言い方になってしまったと思い、流夏に苦笑して見せた。
「でも少し嬉しいことがあった」
「嬉しいこと、ですか」
「うん、嬉しいこと」
「それは……“二人”にとって、ですか?」
考える間があり、そう言った流夏が足を止める。
なんだか様子がおかしいと思いながらも、里津は緩む口元を律することができなかった。
「うん、そうだよっ」
「……そうですか」
「少し心配だったんだー。好き合ってるのは僕達だけでしょ? でも、本当のところみっちゃんはどうなんだろうって。鴻くんとか流夏くんに可愛がってもらってるみっちゃん、すごく可愛くて。気持ち良さそうで。そうしてあげられない僕のことはもう、好きじゃないかもって……疑心暗鬼してたんだ」
「けれど違った?」
「うんっ。ちゃんと確かめ合ったの、想いを。それでね、流夏くんに聞きたいことがあるんだ」
「何です?」
「契約。僕達四人の関係は卒業まで、卒業したら一切干渉しない。そういう契約だったよね?」
「そうですよ。契約は絶対――」
「じゃあさ、その契約を途中で破棄するって言ったらどうなる?」
「……え?」
「あの日定めた契約を、破棄できるのか、決めてなかったよね? それってつまり、契約を途中でなかったことに出来る」
「それは……」
「そういう、ことだよね?」
にんまりと里津は笑った。無論、悪意などそこにはない、つもりだ。
――ふと思い当たった契約の穴。それは満期日を決めたのはいいが、途中の契約破棄宣言が認められるかどうか。記憶にも、流夏が持っている契約書にもその記載はないだろう。
理由は簡単である。話し合っていないからだ。
であるならば、言ったもん勝ちな部分があると里津は見込んだわけである。
「……やめる気ですか、この関係を」
「ううん。ただ、そういう手もあるよねってこと」
「……切り札を私に見せていいんですか? もしかしたら里津がそれを言う前に私が先手を打つかもしれません」
「そうだね」
里津は肩に下げていた鞄を抱え直し、階段を降りる。後ろについてくる気配を感じながら、言った。
「悪者になりきれないっていうか……そこまで非情になれないの。流夏はどうして契約しようと思ったの?」
「今更、ですね」
「今更だよ。だってあの日、流夏には選択肢があった。僕達にはなかったけどね」
「その言い方、充分悪者っぽいですよ」
そう言いながらも気分を悪くした様子はなく、少しながら困ったように微笑んで里津を追い越していく。
部活動に精を出す時間だからか、その場に他の生徒の姿はない。
鴻と湊はどうしているだろうか、と不意に考えが浮かび上がった。
「言ってしまえば、興味です」
そんな里津の思考を遮断をするかのように、流夏ははっきりとした口調で断言した。
「興味?」
「ええ」
「……えっ、ちなこと?」
「そうですね、ええ。間違ってはいません。なので、契約が破棄されるのは私としても望ましくないのですが……。どうしたら止めてくれますか?」
「え」
二段の落差。下にいた流夏がぐっと里津の頭を引き寄せ、軽く口付けてくる。
「る、流夏……」
「懐柔するしかないですか?」
「おっ怒ったの?」
「いえ。悲しいんです。私は一生懸命に契約通り、自分を律してきたつもりです。なのに二人は簡単に私と夏々城を切り捨てるんですか?」
「……そんな、つもり……ないとは言い切れないけど。でもっこの話に湊は関係ない! 僕だけの考えだ」
「それが困るんです」
「っ」
もう一度、唇に触れられる。
「流夏は、学校でこういうことしないと思っていた」
誰が見ているとも知れない、教育の場である校舎内で。恐らくは誰の同情も集めない行動をしてくる優等生の流夏。
「どうしようかと迷ってるんです。この感情に従って貴方を組み敷いてしまおうか」
「学校で?」
「はい」
「そんなの流夏じゃない。流夏は湊も思うぐらい優しくて、痛いことなんて一回もしたことない。本気で嫌って言ったことは絶対やらないよね」
「ですが、……焦ってるんです」
「僕が契約をなかったことにするのが?」
眼前の彼は即答するように頷く。
「機会を奪われてしまえば、私は何もできなくなってしまう」
「…………」
「勘の鋭い里津のことだから。もう分かっているんじゃないですか?」
「……そうね」
三度目の口付けは、息を奪われそうなほど荒っぽいものであった。
「ンン、っ……ふ」
「っは、言わせません、ここまで来たらもう……」
「んゃ、流夏……っむ」
「もうあの日には戻れないんですよ」
まるでそれは杭のように、里津の心中に穿たれた。もしかしたら、なんて甘い考えはがんじがらめにされてしまい、希望が断たれたように思ってしまう。絡め取られ吸われる舌先と同じようで、里津の悪知恵は流夏に吸収されていく。
階段の踊り場で口付けを交わし、流夏の手が服の中へ入ってきたところで里津は止めた。
「これ以上は嫌」
「どうしてですか?」
「学校だから。真面目な流夏なら分かるでしょ。これで誰かに見られたらどうする? 契約に組み込む?」
「それは面倒ですね。あ、では、契約内容を更新しなくては。中途参加は認められない、この契約は四人だけのものです」
「それには賛成。あのね、一つお願いがあるの」
「何です?」
「僕としたいと思うなら、少し待って」
「……ふっ、分かりました。無理強いはしたくないので。それに、私達は変わる時なのかもしれません。卒業するまでなんて長すぎる。それまでこの爛れた関係でいるのは、虚しいですよ――ですがいいのですか?」
「うん?」
「勃ってるじゃありませんか」
「うっ、こ、これは自分で処理するから! 流夏のキスはえろいんだよ……」
「褒めていただいて光栄です」
「褒めてない!」
「じゃあ、今日はここで別れましょう。また明日」
「あ……」
呆気なく、あっさりと背中を向け見えなくなった流夏に、里津は息を吐く。ずるずると壁伝いにしゃがみこんでしまい、顔を覆って深呼吸をする。
「……よかった……」
その安堵に満ちた言葉には様々な意味が込められている。
中でも一番は、湊が手を出してくれるまで自分は流夏や鴻と“そういう”ことはしない、という枷を嵌められたままでいられることに安心したのだ。
流夏との会話はある種の賭けであった。激怒した流夏に強制的に暴かれる覚悟もしていた。だが、そこまで流夏はしなかった。逆に乞うていただろう、困ると。契約をなかったことにされたら悲しい、と。
つまり、あの日、巻き込まれた者は誰一人とおらず、誰もが進んで契約を交わしたのだ。
なのに自分は早くも後悔しつつあり、この状況をどうにか打破できないかと画策している。それ故、先程の会話である。
一番、理解を示してくれそうだと密かに思っていた流夏の協力は得られそうにない。元々無理だと思っている鴻には言うべき事柄ではないことは明らかだ。
「……どうするのが、一番いいだろう」
運よくこの場に湊は現れないか。そう考えるが、あり得ない想像を早々と打ち消した。
「さて、早く帰ろ」
――その為にはトイレに寄らなくては。
里津は最寄りのトイレに駆け寄り、流夏から貰った秘蔵の映像を片手に、湊への欲望を剥き出しにした。
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