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人生には岐路がある。大事な選択の時である。死ぬまでにそれは何回、自分の元を訪れるのか。分からないが、少なくとも二回は朔瀬流夏の元にやって来ていた。
「――朔瀬」
「白石。どうかしましたか」
部活動に励む生徒達の横、昇降口で上履きを履き替える流夏は同じクラスの副委員長に呼び止められた。
「よかった、まだ残っててくれて。これから時間ある?」
「時間ですか? ……ありますよ」
きっと面倒なことを頼まれるのだろうと予感がしながらも、一人になって色々考えることになるよりはマシだと思っての返答だった。
白石は安堵したように息を吐き出して言うのである。
「悪いんだけど、先生に頼まれたことがあって。でも俺、部活があるんだ。運よくレギュラーに組み込まれたし、先輩達との信頼関係も築きながら練習したくて」
思わず頷いてしまうような、最もらしいことを言う彼に笑顔を返しながら快諾することにした。
「お、おぉ、ありがとう! 朔瀬っ。この恩は忘れないぜ!」
「大袈裟ですよ」
そうして案内された通り、二階の資料室にやって来た流夏は、扉を開いて目を見開くことになった。
スッと全身の熱という熱が引いていくような感覚がして、流夏を思考停止に追い込む。
寸前、自分の運命を呪った。
白石はきっと部活にああ言うほど一生懸命ではなく、流夏に会う前まではしっかり副委員長の責務を果たそうと思っていた。この場所まで足を運んだに違いなかった。しかし、流夏が見た光景と同じものを目の当たりにしてどうにもできなかったのだ。そして流夏にその光景を見るよう結果的に仕組んだ彼は、たぶん見てしまった事実を墓まで持っていくことになるだろう。学内に言い触らすこともしない。
何故なら、埃っぽい室内には皆が一様に恐れる不良の頭がいるからであった。
白石は怖がりな部分がかいま見えることがある。できれば不良といった類いにはかかわり合いたくないと思うタイプだ。
「だからってなんでこんなにもタイミングが悪いんでしょう」
――これは三度目の人生の岐路なのであろうか。
三度目が今まさに訪れようとしているようで、つい声に出してしまったことに気付かなかった。
このまま頼まれ事を遂行するか、恐ろしい光景を見たと明日、白石にあっけらかんと同じ境遇にあると報告しに行くか。
そう選択肢を並べてしまうと、自ずと答えは決まっているのだから、溜め息が開いた口から漏れていった。
では、なんと言って部屋に入るべきか。
逡巡し、ふと浮かんだ妙案に流夏は自分自身に呆れたのだった。
* * *
朔瀬流夏、人生初めての岐路に立たされたのは、あの時。
中学二年生の夏。この頃から性格は現在と変わらず真面目で、成績も優秀な方。だが、心配性な母は、志望校に落ちることを危惧し、どうやって知ったのか。当時、引っ越してばかりであった隣人が有名な大学に通う学生に家庭教師を頼み込んだのである。世間的によくある話であるのかは謎であったが、必死な母の、何よりも自分を思ってくれての行動に家庭教師を受け入れた流夏は、意外にも教え方が上手い彼、一之宮 に信頼感を抱くようになっていった。
岐路は日常に一之宮の存在が普通になった中、突然訪れたのである。
その日は母の用事で家を使うことになり、静かな空間である一之宮の自宅で勉強をすることになった。順調に進んでいた。あまりにもするすると進んでいくものだから一之宮は一息しようと、階下へ飲み物を取りに行ってしまって。その際、もしよかったら借りてきたアニメ映画でも見ようと言い残していたから、気を利かせたつもりでテレビをつけ、デッキの電源を入れたのだ。
後になって気付いたのだろう。
焦った様子で階段を駆け上がり、乱暴な動作で扉を開けた一之宮が戻ってきた時には、既にあられもない映像が映ってしまっていたのである。
『……これ、は』
すみません、と一言謝ってテレビを消してしまえばよかった。流夏にはできたはずであった。だが、どうにも手が動かなかったのは、その映像に必要な要素が一つ足らなかったからだ。
『これは、どうして女の人がいないんですか?』
純粋な疑問であった。しかし、一之宮には羞恥しか味わえない質問だっただろう。
『えっ、と……それは、そういうものだから、としか……』
『そうなんですか?』
『あ、あああのっ止めよう? こんなの子供には目の毒だよ、ごめんね、気持ち悪いだろう。うっかりしてた、入れっぱなしに――』
『お兄ちゃんは男の人が好きなんですか?』
『……っ』
――この言葉が、先の人生を変えてしまった。
激しさを増していく映像とは裏腹に、緩慢とした空気が二人の間に漂う。
そして流夏の人生の路線変更を決定付けるのは、一之宮であった。
『流夏くんは、興味ある?』
禁断の質問。
首を左右に振るなんてできず、興味津々の流夏は頷いてしまった。
その後は特筆する必要もないだろう。要は、流夏自身が選択をした最初の場面であり、女の子を恋愛対象として見れないと認識する数ヵ月前の出来事であるのだ。
そして運命の二回目。
湊達と契約をすることになる放課後。
今考えてみても、自分は呪われているとしか思えない状況であった。
乱れた制服と学校という教育施設には相応しくない音。揺らめく腰と荒い息遣いに何がされているか、一目瞭然だった。
口付けだけで、こんなにもいやらしい光景に見えるものなのか。
更に流夏を驚かせたのは、その行為に及んでいるのがクラスメートであり、三人であり、中の一人がずっと恋い焦がれていた人物だったからである。
高宮湊、宗田里津、夏々城鴻。
咄嗟に共通点を探ろうにも、見つけられたのはクラスメートであることだけだ。
――気持ちいい、と。甘えた声が聞こえた。それはいつも耳にしている声で、愛しさを感じる声音だった。
『……、』
自分にもチャンスがあるだろうか。ふと考えて。妙な事に思い至ってしまう。
子供の頃、誰しも一回は経験がある、ある意味、理不尽な暗黙のルール。
例え、それが個人所有物であっても、望まれれば貸してやり、時にはあげたりする。
【みんなで仲良く遊びましょう】
貸さなければこちらが非難を受け、大抵は望む者が支持されるのだ。
だから――。
『何してるんですか?』
流夏は笑って、口付けだけをしている彼らにそう声をかけたのだった。彼らはきっと、もう口付け以上のことをしているのだろう、と思いながら。
彼が誰かのものになってしまったのなら、貸してもらえばいい。そういう状況を作って見せる。
そうして持ち出した契約。最大の難点である鴻が面白がって快諾してくれたのが大きかった。鴻に脅されているらしい二人は頷くだけで、拒否らしい言葉を口にすることはなかった。
チャンスであった、それは。
何故何故と思っていた理由を知り、流夏は勝機を見出だすことをやめられなかったのだ。
まだチャンスはある。彼はまだ誰のものでもなく、もしかしたら彼の心がこちらに傾くかもしれない。
だって見逃さなかった。
湊と里津は好き合っていると言うが、鴻の舌によって乱されている二人はその強い刺激によがって、もっと、と乞い、好きな相手の名前を呼ばずに違う名を呼んでいた。
理由が正しければ、呼ぶのは……たった一つの名前であろう。
* * *
さあっと潮が満ちるように脳内を過ぎていった記憶 を胸に、流夏は資料室に足を踏み入れた。
「鴻。――湊」
一声かければ、二人の動きはぴたりと止まって同じような顔つきでこちらを振り向いた。
ぞくぞくしている顔が堪らなかった。
流夏は鞄を手短な机に置き、ゆっくり二人に近付いていく。
「……なんだよ?」
鴻が黙ったままの流夏を不審に思ったのか、眉間にシワを刻む。
「っ……はぁ」
その下で薄い胸を上下させている湊は、もどかしげに吐息を漏らしていた。
「ここで、何をしているんですか」
「はぁ? んなもん、見ればわかんだろ?」
「ええ、そうですね」
「……続けんぞ、湊」
「あぅ……あっ、あん」
自分でも何が言いたいのか分からなかった。
しかし、一つだけ確実に分かることがある。
いつだか湊は、自分は鴻に厳しくされていると言っていた。だが、誤解である。
この男は、湊が好きで好きでたまらないただの高校生だ。
「んんぅー……あ、は……ん、んっ、こう!」
「湊……ほら、舌吸えよ」
「ん、ぁ、ンーん、んふぁ」
気付かないのだろうか。外から見ていると、鴻がどれほど湊を好いているか、丸分かりなのに。
言葉は毒づいていても、仕草はとことん相手のことを気遣っている。だから本当に痛いことをされた覚えなんて、湊にはないだろう。
流夏は湊のはだけたワイシャツから覗く、淡い色の突起を撫でる。
「んゃ、や……るかっ」
「テメェ、手ぇ出すなよ、朔瀬。――お前も触られて感じてんじゃねぇ」
「やらぁ……や、鴻、見られてる……!」
「見られてるのなんていつも通りだろうがっ」
「ひゃぅ、あぁ……ゃぁ」
思いきり奥を突かれたらしく、喉を逸らし、悶える。ひくひくと震える喉元がいやらしく、はくはくと空気を求める濡れた唇が扇情的だった。
これを白石が見たのであれば、さぞ刺激されたことだろう。
――そうであれば、先ほどの白石はごく普通の態度だった。あれが努めた冷静さであるなら、大した演技力である。
ある意味、騙されたのだ、自分は。
「気持ち良さそうですね、湊」
「ぁ、あぁ、んン……っああぁ」
「好きです、湊」
“彼”の頭を抱き締めるように手を添え、身を屈めた流夏はその耳元で囁く。ありったけの慈しみを込めて。
「あっん、ふ……あん!」
「なんだよ朔瀬、告白かよ?」
「んん、ぅ」
「トんで聞いてねーぞ、こいつ」
「やあぁんっ、はっあ」
「好きですよ、ずっと、ずっと好きでした。湊」
声は届いているだろうか。
断続的に揺さぶられている彼は感じ入っていて、流夏の言葉に反応した様子はなかった。
それでも流夏はたまらなくなって、愛を囁き続けた。
契約が終われば、湊に手出しができなくなる。それはなんとか阻止したいと思うものの、里津と湊と幸せを考えると、独り善がりなその考えは引っ込めるべきだとも思うのである。
結局自分は愛を口にするしかなく、決めるのは湊のみであった。
「好きです」
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