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* * * 「本当はもっと早く言おうと思ってました」  空が茜色だ。穏やかな放課後だったはずが、瞬く間に雲行きが怪しくなった。 「好きです、湊」 『まだ今は、これまで通りに接しよう』  ――果たしてこれでいいのか。  里津にも言えず、自分の中でも答えが生まれず、湊は流夏を流されるようにして受け止めるしかなかった。  誰が見てるとも知れぬ、住宅街で。もう何度目かも分からない口付けをする。 * * *  数十分前。 「――ごめん、みっちゃん。僕、今日は……真っ直ぐ帰るね」  後にこれは嵐の前触れだったのだと思い至る里津の言葉に、誰も不審さも感じることなく、残された三人はなんとなく目線を絡め合って。  最初に外したのは鴻であった。 「――俺も帰る」  そう言い残し、階段を下りていってしまう。 「――では、私達も行きましょうか」 「あ、うん」  自然と、湊は流夏と共に帰ることにした。  不道徳な契約を結んでいても毎日が爛れているわけではない。……そうなってきたのは最近だ。  郁とのことがあってから約一週間。正直に里津にその一件を話すと、彼は怖いぐらいの笑顔で“お仕置き”と称した一晩を提供してくれた。ぐずぐずに解かされ、里津が満足するおねだりを言えるまで永遠と思えるほどの時間、焦らされた。……手慣れを感じさせる攻め方にやはり若干戸惑いながらも、湊は良いように操られるだけだった。  ……それだけ、である。里津は怒りを顕にすることなく、ただ困ったように肩を竦めてこう言ったのだ。 『みっちゃん、モテ期なの?』  里津は郁が好きだと言ったことを行為よりも深く受け止めていて、一目会いたいと言う。本当なのか真意は定かではないが、里津の行動力に驚かされることが多い、ということはここに記しておく。 「湊、今日はどこか寄っていきます?」 「……あー、ううん。俺も真っ直ぐ帰るよ」 「分かりました」  にこりと眼鏡の奥で瞳が和らぐのを見て、ふと彼に好きだと譫言(うわごと)のように言われたことを思い出した。普通に考えると告白するような状況ではなかったが、里津が言ったように冗談や嘘を吐く流夏ではない。  では真剣だったのか、と考えると納得できることでもなかったが。  あれから、流夏は何も言ってこない。  状況が状況だっただけに、言葉が届いていなかったと決め付けているのだろうか。あの時はほぼ鴻しか頭になかったが、“好き”という違和感を覚えさせるその言葉だけには飛んだ意識も引き戻されるものだ。理由は、鴻が好きなんて言葉を行為中に言うわけがないから。――これは決定事項だ。 「あ、湊。あれ、美味しそうじゃないですか?」 「うん? どれ?」 「あれ」  学校から家までの帰り道。流夏と途中まで一緒の道のりであるのだが、必ず通るのが様々なお店が建ち並ぶ通りで。たまにこうして店先を覗いては買い食いをするのである。  流夏が指差したのは、どら焼きだ。定番のあんこ以外にもカスタードクリームや抹茶、チョコ、いちごと豊富な種類のクリームを挟んだそれは、どこからどう見ても美味しそうだった。  湊の顔も綻ぶ。 「食べたいっ」 「ですよね!」  甘党な二人は目についたものをそれぞれ頼み、どちらが早いか、かじりつく。 「う〜ん、うまぁっ」 「ん、美味しい」 「流夏のは何だっけ?」 「抹茶です」 「一口ちょうだいっ」 「はい」 「む……ん、んー、こっちもうまうま!」 「ふふっ」 「俺のイチゴチョコダブルも食べてー」 「……うん。こっちも美味しいです」  何気ない食べあいっこ。家族より、友人と共有するのが嬉しく感じるのはどうしてだろう。どら焼きの美味さも相俟っているのか。どうしようもなく頬が緩んでしまうのだった。 「はあ、美味しかった。今度はみんなで食べに行こう?」 「ですねっ。私も満足しました」  陽の沈む間際、別れる手前の上り坂をゆっくりと歩く。一軒家が密集する辺りは静かで、二人の足音だけが響いている。時折、勢いよく下っていく自転車の音が横を駆けて行った。 「あの、湊」  あともう少しで手を振る、というところで流夏が口を開いた。 「なに?」 「平和ですね」 「え? あ、うん……平和だね」  なんでもないようなやり取りに、湊の胸はざわつき始める。 「私達はこのまま平和に終われるんでしょうか」 「お、われる? 終わるってこと?」 「そうですよ。契約は卒業の日まで。卒業すれば、友人でいることも許されない」 「……」 「湊。貴方はそれに耐えられますか?」  歩みを止めた流夏が振り返り、弱々しく笑った。 「私はどうも……自分で決めながらも今思うと、なんて馬鹿なことをしたんだろうって、思います」 「流夏……」 「貴方は里津と恋人同士です。私の入る余地なんてどこにもないのは分かりきったことです。ですが……湊、私が言ったこと、覚えていますか?」 「言ったこと……」 「はい」  ――嘘を吐く? 本当のことを言う?  瞬く間に考えが巡っていく。  どう答えるのが正しいのだろう。答えはでないと理解しているのに、考えずにはいられない。  結局、湊は素直になることしか思い付かないのだ。 「きこえてた、聞こえてたよ。流夏の言葉。……その、あれは……本当?」 『好きです』 「好きです」  同じ言葉の羅列が、同じ抑揚で、紡がれる。静寂が支配するその空間で聞こえなかった振りをするのは無理なことだった。 「あの、あり、がとう。俺のことそんなふうに言ってくれるの嬉しい……。でも、」 「分かっています。貴方には里津がいる。私のこの思いは叶いっこありませんよね」  一瞬の静寂。感じることがなかった微風の感触が頬を撫でた次の瞬間、流夏が湊の手を握った。 「る、流夏、ここ外だよ」  咄嗟に周囲を見渡すが、人の影は見つけられない。次に流夏へと視線を戻すと、彼は苦笑していた。 「嫌だと振り払えばいいのに」 「そんな……っ、だって流夏は」 「貴方のそういうところが、私に諦めさせてくれないんですよ」 「流夏っ」  指の間の薄い皮に触れるようにして、指が絡んでくる。  振り払えば、と言いながらも振り払うことは許さないと如実に伝えていた。 「る、か……離して、見られるよ」 「見られたら困りますか」 「こ、困るよ、そりゃあっ。だって家の近くだし……俺と流夏は……」 「男同士?」 「そう、だ。世間的に見たらこれはおかしい、そうでしょ?」 「……ええ、そうですね」 「じゃあ――」 「でもね、湊。私が気にするのは他人の目ではなく、貴方の目です。好きです、とそう告白したことには気付いている、と言いましたね。でも返事はいつくれましたか? 貴方には里津がいて、貴方は里津を愛している。ならば、逡巡する暇もないぐらい私に対しての答えは決まっているはずなのに。どうしてです?」 「……っ」  互いの前髪が混じり合い、額を擦り寄せられる。どことなく、その仕草は里津がするそれに似ていた。まるで、真似しているような……。 「る、流夏!」 「はっきり言うべきです。私の為にも、貴方の為にも。好きか嫌いか、答えは簡単でしょう?」  それが懇願しているようで。  湊は現実から逃避するようにぎゅっと目を閉じた。  けれど、近くにいるという感覚がそれを許さない。流夏に繋がれた手が、生暖かい吐息が顔にかかるたび、否応にもこれは現実なのだと、自分が目を逸らし続けてきた現状なのだと思い知る。  卒業式まで続くかと思った自分達を取り巻く状況は、変化を望んでいるらしい。 「湊」 「好きかどうか……そう言われたら、流夏のこと、嫌いじゃない」  そう言う唇が、震えた。 「でもっ、流夏の好きと俺の好きは違うんだと思う」 「……そうですか、そうですよね」 「ごめん」 「謝らないでください。最初から覚悟していましたから」 「ずるいよ、そんなこと言うの」 「ええ、私はずるいんです。貴方が里津を愛していると知りながら、私は貴方達を救う為ではなく、自分の為にこうして触れているんですから。ねぇ、湊、キスしていいですか?」 「っ……それもずるい。俺には拒む理由なんて……」 「理由はたくさんあるはずです」 「……流夏は何が言いたいの?」  目の前の彼が何をしたいのか分からず、半ば啜り泣くようにして聞いた。  すれば、流夏は苦い笑みを浮かべたまま湊の後頭部を手のひらで包み、綺麗な動作で口を塞いだ。  慰めるような軽い口付けで。 「好きです、と。私が契約に応じたのは自分の為であって、貴方達の為ではないんです、ということを言いたい。湊のことだから、罪悪を感じてるんでしょう? だから私の言葉を上手に拒否できない……」 「流夏」 「里津から聞きました。契約の根源である事柄が解決した、と。契約は必要なくなったんでしょう?」 「それ、は」 「私の答えはね、湊。契約満期を迎えずにそれが破棄されたとしても、湊のことは諦められません。せっかくできた繋がりを断たれるのが怖くて、色々考えたんですが……結局は奪うしかないんですよね。運よく貴方は快楽に弱く流されやすい。現に里津と上手く行った直後、鴻と寝てますよね?」 「……っ」 「だから諦めません。絶対、湊に私が好きだと言わせる」 「んっ」  最早高らかな宣言であるそれが、口内から湊に刻まれていった。  先程とは比べようもない激しい口付けに湊は呻く。 「ん、んんぅ」 「……好きです、湊」  合間に囁かれ。湊は再び瞼をきつく閉じたのである。 「ぅむ、っ……ふ、ぅ」  かちゃかちゃと頬の辺りに眼鏡のフレームが当たる。それを気にも留めないほど、咥内を舐め回す舌は容赦なく絡んできて。  今ここが外だと忘れそうだった。 「や、やだ……っ」  どうにか流夏を押し退けることに成功すると、名残惜しいとばかりに頬に押し付けられた唇は離れていった。  刹那、学生らしき人物が乗った自転車が勢いよく横を、坂を下っていく。……見られは、しなかっただろうか。  素早く視線を巡らせたかったのに、流夏の熱っぽい瞳が湊を拘束したままだ。 「流夏……」 「キスを受け入れるのは契約があるから、そうでしょう?」 「ぅ、ん」  流夏の細長い指が、唇を撫でる。 「でも本当にそう?」 「……?」 「契約だから、鴻の口を封じる為だから。その理由で体を許せるんですか?」 「っ、るか」 「私は貴方が好き。貴方は里津が好き? 本当に? 今でも?」 「俺は……っ、里津が好き。好きだよ」 「私とのキスは気持ちいいものではないですか?」 「っ……」 「気持ちいいと感じるなら、それは私と浮気する理由にはなりませんか?」 「ぇ、浮気?」  思わぬ単語に、湊は続ける言葉を喉に張り付かせてしまう。  それを隙と見たのか、流夏は湊の腕を引っ張って細い路地に引っ張り込む。これなら誰にも見られないとばかりに壁に押し付けられ、足の間に体を捩じ込まれてしまった。 「契約の元凶である事態が改善されたなら、湊にはもう私とあれこれする理由はないはずです。すぐにでも破棄したいと言ってくるかと思えば、現状は全然変わらない。そうされたら、期待してしまうじゃないですか」  困ったように笑う流夏が、すがるように肩口に額を擦り寄せてくる。 「私との何かが気に入ったのかな、って。それとも罪悪感ですか? それなら好都合なのに……」 「ぁ……流夏は、そんなに俺のこと……好きなの?」  そんなふうに言ってしまった瞬間、酷く自分が嫌な奴になった気がした。自分では気がしただけでも、流夏にとったらそうであるに違いない。  嘲笑のような声が彼から漏れて、身長は流夏が高いはずなのに、見上げられる。  それがいやらしい顔をしていると感想を抱いてしまうのは、どうしてだろう。 「好きですよ、すごく。言ったら、契約に乗ったのも貴方がいたからです。貴方と体だけでも関係が結べるなら、って……だんだん物足りなくなってきて……なのに契約を破棄すると里津に言われて頭が真っ白になりました」 「……」 「どうですか? 浮気、私としてもらえませんか」  流夏の口から紡がれるその言葉は魅力的で、やはりどこか言葉では表現できないいやらしさを帯びている。  頷いてしまいそう、だろうか。  ぐっと股を膝で圧迫されたようで、湊は息を詰まらせた。  流夏は知っている。湊が快楽に弱いと。流されやすいとはもののいいようで、気持ちいいことがただただ好きなのだ、と。 「俺は……っ」  一度唇を噛み締めて、湊は顔を上げる。 「里津を好きだと言いながら、えっちできるようになったのに……鴻と流夏とキスしたり色々、しちゃうのは……うん、おかしいと思う。里津にそれがバレても里津は怒らないし……やっぱりそれっておかしいんだ。でもはっきりしてるのは。里津と、流夏や鴻に思う“好き”は違う」 「それは確かですか?」 「うん。俺は里津が、りっちゃんが好き。すごく好きだ。おかしいのは分かってる、こんなの普通じゃない。でも、でもっ、」 「――おいっ君達! そこで何をしてる?」 「!」 「!?」  入ってきた方とは反対側からこちらを覗き込んでいる大人がいた。それも厄介なことに……警官だ。 「湊、こっち」 「おい、こら!」  誰かが会話を聞いて通報したのだろうか。それとも巡回中の警官の目に偶然止まったのか。  真意を知る術があるはずもなく、連れ込まれた時と同じように。腕を掴む流夏を頼りに、その場から去るしかなかった。

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