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* * * 「は、はっ、はぁ」  空がいつの間にか瑠璃色に変化している。 「はぁ、はあっ、まっ……もぅ、むり!」  どれぐらい走っただろう。執拗に追いかけてくる警官ではなかったにもかかわらず、呼び止める声が聞こえなくても流夏の足は止まらなかった。  どこまでもどこまでも。このまま二人で――。 「っはぁ……大丈夫ですか、湊?」 「な、なんとかっ……! 流夏、走るの早いっ」 「それは……っ、必死でしたから」 「あーもうだめぇ!!」  堪らず、湊は地面に膝をついた。久し振りの全力疾走、いや初めてここまで走ったかもしれない。準備体操などする暇もなく酷使した体は悲鳴を上げ、ばくばくと心臓の音、そこから押し出される血液の流れる音が耳に届くようだった。幾度呼吸しても肺は新鮮な酸素を欲しがって、息吐く間も与えてくれないらしい。  やがて、可笑しな笑いが込み上げてきた。 「ふ……は、はは」 「何を、笑ってるんですか?」 「なんか、面白くて」 「どこが……?」  しかし流夏はげんなりと言った様子で、訝しげに見ている。 「だって、なんか……面白い! あはっはははっ」 「……」  先程まで真剣な話をしていたというのに、自分でも笑えるのが不思議であった。  何か明確な笑いの種があるわけではない。だが、警官に捕まるということから逃げるスリルは脳内を渦巻いていた事柄をぽろぽろと落としてくれていて、空っぽになった頭はそれを面白いと感じている、ようだ。 「走りすぎてバカになってんのかも」 「なんですか、それ……」 「あはははっ」 「しかし、警察が来るなんて驚きですね」 「あ……うん。やっぱり誰かに見られてたのかな」  周囲は住宅が建ち並ぶ一角だった。例え湊達から見える外に誰もいなくとも、すぐ側の家の中の状態は分からない。  もしも窓際で見ている人がいたら……。偶然開いていた扉から、話し声が聞こえていたら。  警官を呼ばれるのも道理かもしれない。普通に考えればおかしいことで、気持ち悪いことだからだ。 「流夏は……男の人が好きなの?」 「……いきなり何ですか?」 「不躾(ぶしつけ)でごめん」 「ふぅ……そうですね、またこんなところで話すのもあれでしょう」 「どこ行くの?」 「う〜ん。個室が得られる場所……戻るのもまだ警察がいないとも限らないですからね……」  呟き、ちらりと流夏の眼差しが湊に向けられる。 「え……え?」 「湊。私と個室に入ってくれます?」 「ぇ……こ、個室?」 「怖いですか?」 「…………えーっと、それはぁ……?」 * * * 「……」  個室、つまり密室状態の室内に流夏と二人きりというわけだ。一瞬、妙な予感が過ったのは言うまでもないだろう。  が、流夏が入店を希望したのはカラオケボックスであった。 「はぁ」 「安堵しました?」 「エッ、あ、あー……」 「ふふ、いいんですよ、自分に正直で。まさか制服でホテルなんて直行できないでしょう? 安心してください。そんなにがっつきがいいのは鴻ぐらいです」  ――強引に町中でキスしてきた流夏が言えることなのか?  思わず抱いた疑問を危うく口にするところだった。渇いた笑いで誤魔化した湊は、テーブルを挟んだ向かいに座る流夏を見る。  自分の案なのだから、と代金は彼が持ってくれるらしい。故に、与えられた時間は最短の三十分。店員はどんな印象を持っただろう。特に怪訝な顔をされることなく部屋に案内されたわけだが。 「えっと、私が男を好きなのか、という質問でしたよね」 「あ、うん」 「好きですよ、男の人」 「……っ」  悪気もなく躊躇もなく、あっけらかんと言う流夏の態度に湊の体温が急上昇した。  何度も彼を大人っぽいと思っていたが、それは想像以上で。高校生とは思えない色香が……どうしても湊は“いやらしさ”を感じてしまうのだった。 「もちろん、女の子を可愛いって思うこともあります、正直。でもキスとか、シたいって思うのは男の人だけですかね」  くすっと笑って、見つめてくる。 「湊は?」 「え」 「私が答えたんですから。湊も答えてください」 「……俺は、」  思い出す。その記憶にノイズが走る感覚がしながらも、たちまち新鮮さを保ってやって来る。 「多分、トラウマがあるから」 「……トラウマ?」 「う、ん」 「深刻、な話ですか? 無理なら無理と――」 「いや、聞いて……聞いてほしい。里津にもまだ、言ってないことだけど……」 「私が先でいいんですか?」 「……うん。予行練習だと思って、聞いてくれる?」 「はい」  許された時間は三十分もない。その中で自分は果たして語りきれるだろうか。  あの苦い思い出を。 「言っちゃったら簡単なんだよ? 全然、深刻とか、じゃなくて」 「大丈夫です、聞きます。ちゃんと」  しっかり流夏が頷くのを見届け、湊は意を決してこれまで誰にも言わなかったことを吐露することにした。 「えっと」  どう順序立てて、どんな言葉を用いれば、些細なことに聞こえるだろうかと逡巡する。他人には、なんだそんなこと、と思われる方がいい。  それから迷うに迷って。 「流夏は、女の子と……その、経験ある?」  不躾にも程がある問いをしてしまった。  しかし、流夏は大した反応を見せず、ごく真面目になって考えてくれているようで、うーんと唸る。 「ここは正直に言うべきですか」  何かが邪魔をするらしい。流夏はふざけた顔つきでそう言う。 「え、正直に言ってほしいけど……」 「じゃあ、ないです」 「……あ、そう」  自分で質問していながら冷たい言葉を返してしまった。  ――いやでも、“じゃあ”って……!  流夏の心の裡が全く見えなくて、湊は探るような目付きになってしまう。  それに気付いた流夏がぱっと切り替えるように笑みを浮かべ、続きを促してきた。 「……俺は、あって……」 「へー、なんというか……意外です」 「いや、あるって言うか……その手前までって言うか。やっぱり意外って思う?」 「はい。……あ、いえ、悪い意味じゃないですよ」 「……うん。無理だって、思っちゃったんだ」 「無理?」  ――ざざざ、ノイズが再び走っていく。  流夏が丁寧に相槌を打っているのがよく分かり、なんだか笑えてしまう。 「好きだったはずなのに……俺は……」 「……みなと?」 「たたなかったんだ」 『――え?』 「今でもよく思い出せる。俺より一つ年上の彼女はそういう経験があったんだと思う。何も分からない俺をリードしようとしてくれてたんだと思う。でも、その積極的な姿が怖くて……、たたなくて」  ――あぁ、なんだか情けない一部を暴露しているようで居たたまれない。  過去の事実は言葉を並べれば簡単に表せてしまって。けれど、その言葉の選び方が難しい。  恥ずかしさで一杯なのだった。普通であれない自分が、恥ずかしい。 「二人共頑張って、がんばって……結局、俺は男になれず、彼女を怒らせた。関係は当たり前のように解消。それから運が悪かったのは彼女がお喋りだったこと。俺は女じゃ勃たない男っていうレッテル貼られて。辛かったけど、どうすることもできなかった。本当のことだし……きっと彼女も恥ずかしかったんだ」  歌って騒ぐ場所だというのに室内は籠ったような静けさで、周囲の部屋の喧騒が遠くに聞こえてくる。  途端に怖くなって、湊は自分を律する為に右手で左手を握った。 「そうして気付いたら、違うやつを目で追ってた。自分でもびっくりだよ。周囲の人が言ってたように、俺は男を好きになった。普通じゃない人間だった」 「……」 「でも誰かを嫌うより、誰かを好きでいた方がいいと思って。そう思ったら吹っ切れちゃったんだ。彼の告白も手伝ったし、相談にも乗ってあげた。全然苦じゃなかった。普通じゃない人間でも誰かの役に立てるって嬉しいから」 「……」 「って、語っちゃったんだけど。性別っていうより、“その人”を好きなんだ、俺」  暢気に語ったつもりだが、どうだろう。流夏は深刻な話だと捉えてしまっただろうか。同情されるのは苦手だ。  同性しか好きになれない可哀想な人、なんて思われたくないのである。  性別なんて関係ない。ただ好きになっただけ。同じ人間を好きになっただけだ。  それがもしも誰もが分かってくれていたら、きっと警官なんて呼ばれなかっただろう。  沈黙が長かった。まさか湊が喋り終えたのを察することができない流夏ではない。  紡ぐ言葉に迷っているのか。  そして、ようやくその口が開いた時、彼は最近よく浮かべる表情をして言うのだ。 「私は男の人しか好きになれません」

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