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毎日同じことの繰り返しで、退屈な日常ばかりが続くと人は言う。だが、それが一番良いことなのだと、思い知った。
『何すんだよ、バカ野郎ッ!!』
気付いた時にはすでに頬が熱くなっていて。思わず涙目になるほどの痛みを次第に感じていった。
『ご、ごめっしらい――』
『触んなッ』
『……っ』
明らかな嫌悪と、拒絶。
自分が何をしてしまったか。後悔した時には遅いと人は言うが、本当にそうであった。
白石を守る為に出た行動が、反対に白石を傷つけてしまった……。
自分に対する恐ろしさを孕んだ白石の瞳が今でも忘れられない――。
言い訳も言えずに走り去る白石を追いかけることもできなかった昨日。同じクラスである白石と目があった今日。
彼はついに、一度だって話してくれることがなかった。
嫌われたのだ。
嫌われたことがショックでならない。
「……はぁ。なんで俺、あんなこと」
――しかも俺が見たのって……まさか、浮気現場?
奥寺真崎の悩みは尽きることを知らないのだった。
そんな奥寺が自然と足を運んだのは、大型書店のとある一角。無論、萌え補給の漫画を買いに来たわけではない。
「――でも咄嗟に、そうするしかなかったんでしょう?」
語り仲間である柏木に会いに来たのである。
意気消沈する奥寺を待っていたかのように書棚の前にいた三十路手前の大人は、奥寺を見るなり驚いたように目を見開いた。それからいつもと同じ柔和な笑顔を浮かべて、いらっしゃいませと歓迎してくれたのだ。
優しさの塊のような柏木に、悩みを打ち明けてしまうには十秒とかからなかっただろう。
もちろん、ありのままを話すわけにはいかなかった。白石のように被害者を増やすわけにもいかないし、何より、彼らの事を黙っていた方がいいのは目に見えている。
伊達にボーイズラブというジャンルを知っているわけではない。現実でのそれは、社会からの孤立を誘うのだ。
柏木は、友達に酷いことをして喧嘩してしまったと嘘を吐いた奥寺に親身になってくれた。……思わず奥寺が罪悪感を抱くほど、真剣に。
あの時はああするしかなかった、と言い訳のように言っても、仕事中である柏木は焦った様子もなく、しっかりと話を聞いてくれた。
「奥寺くんは、その彼と仲直りしたいと思うの?」
「うん。だって、今思うと友達って言えるの、白石だけな気がする」
「……じゃあ、大丈夫なんじゃないかな」
「そんな、全然大丈夫なんかじゃ――」
「奥寺くんが彼を大切な友達と思っていること、ちゃんと彼にも伝わっていると思う。その彼、この前一緒に来てた子だよね?」
「うん、そう。柏木さんよく覚えてるね」
「覚えてるよ。大切なお客様の連れだもの。それに、少し警戒されちゃったみたいだから」
「警戒……?」
「やっぱり高校生とおじさんなんかが付き合ってたら変だよね」
「? どういうこと?」
「ううん。奥寺くん」
手を掬われるようにして握られる。
「もう一度、諦めずに話しかけるんだ。勇気がいるけど、それは仲直りする為の代償みたいなものでね。おじさん、いいこと言えないけど、奥寺くんがちゃんと説明すれば彼も分かってくれる。その為の言葉だもん、何かを伝える為にこうして喋れるんだよ」
「……」
「行っておいで? 考えるよりも行動しちゃいなさい。それが若者の特権であり、するべきことだよ」
「柏木さん……」
「大丈夫、そんな不安そうな顔しない。喧嘩なんてより絆を深める為にするもんなんだから」
――それが本当にただの喧嘩なら……。
安心させるように笑う柏木に両手を握られながら、奥寺は。
「ありがとうございます、柏木さん。俺、頑張ってきます」
“彼ら”の関係云々よりも、最優先すべきは白石のことだと気付いた。
「うん、頑張ってきなさい」
柏木にしては力強い手のひらで頭を撫でてきて、手を離される。
そのお陰か、無条件な勇気が上乗せされたようで。
「……奥寺くん?」
なかなか走り出さないのを不審に思ったのか、柏木が首を傾げる。大人とは思えない、可愛らしい仕草だ。
「もし」
「うん?」
「もし、仲直りできなかったら、俺……。柏木さんに泣きつきに来てもいいですか」
「…………ぇ」
「や、やっぱり迷惑ですよね! ごめんなさいっ、早く行ってきまーー」
「待って」
ぐっと腕を引かれる。先程といい、仕草は子供っぽいあどけなさなのに、言葉や力は大人の男のそれで、時々胸の鼓動が跳ねたり、キュッと息が詰まるような感覚がしてしまう。
「今日、早く上がれて。七時、奥寺くんがいいなら」
「……本当?」
「うん。だから自信を持って行ってきなさい?」
「うん……ありがと」
「――こら、柏木くん。困るよ、勤務中の私語は」
上司と思われる男性の声に、構うなと言わんばかりの力で押し出され、あ、すみませんと答える柏木の声を背に走り出した。
白石は今どこにいるだろう。考える前に呼び出し音を鳴らした。
* * *
「――お前……馬鹿じゃないのか」
「し、しら……しらいしぃ〜」
「馬鹿、泣くな、触るな」
「うわああぁぁぁん」
無視されるかと思った電話は、不機嫌な声音によって繋がれ、とにかく居場所を聞き出した奥寺は彼の自宅に急いだのだが。
玄関先で迎えてくれた白石の応対は思っていたよりも親切じみていて、それにより奥寺の涙腺は崩壊した。
「近所迷惑、入りなよ」
「うぅ〜っ」
どうして突っぱねないのだろう。無視しないのだろう。そうされるのは嫌なのに、そんな疑問ばかりが浮かぶ。
「……ぐずっ」
意図せず暖かい家中に招かれた奥寺だったが、泣いている暇はないと強く思う。炬燵 に入るのもおこがましく感じ、正座をしてほんのり呆れ顔の白石に向き直る。
「ご、ご家族の方は」
「……出掛けてるけど」
「よかった」
「俺もよかったよ。あんな号泣されたら困る」
「ご、ごめん」
「で、何の用? 俺、許した覚えはないよ」
「……うん。その話に来た」
「……ふ〜ん」
「……」
――冷静になると、上手く言葉は出ないものだった。泣いた勢いのまま伝えればよかった、と今更ながらに思ってしまう。その勢いなら、自分が言いたいこと全部言えた。
「……」
ごくり、とわざとらしくも真面目に生唾を飲み込んだ奥寺。
「キスしたこと、俺は――謝らない」
「……」
ここに来るまでの間に考え抜いた果ての、答え。
「あの時の選択は間違ってなかった。そう思うんだ」
「俺の気持ちを無視してまで?」
話は聞いてくれるらしい白石を真正面に見据え、力強く頷いた。
「白石を傷付けたくなかった」
「もう充分傷付いてるって」
「それでも傷付けたくなかった」
「……よく分からない」
理解しがたいとばかりに頭を抱えて、白石は炬燵に足を突っ込む。それきり黙ってしまった。
怒っているようではない。何かを考えている様子である。
すかさず奥寺は言葉を紡いだ。
「白石が俺を許してくれなくてもいい。俺は白石を守ってあげたって思ってる、から」
「……一応聞くけど。自分が何言ってるか、分かってる?」
「え? うん」
「はぁ。俺は一ミリも分からない。キスをすることが俺を守ることって何」
「それは……」
言うのは簡単だった。高宮と夏々城が付き合っている、はずなのに、あの場所で目撃したのは高宮の浮気現場とも言える光景だ、と。
だが、ようやく自身の中に落とし込めた事実がくるりと翻るような現実を、白石には見せたくなかったのだ。せっかく一区切りついたのに、白石の苦悩を水の泡にはしたくない。
――なら、自分が犠牲となろう。
自己満足な自己犠牲。
それでもよかった。白石が、普通ではない恋の形を認めてくれるなら。
「奥寺は俺が好きなの?」
「……え」
「キスをするっていうことはそうなんだろう?」
「え、ぁ」
「違うのか?」
「い、いや……うーん」
「お前……好きでもないやつにキスできるのか」
「いやいや、ちがう違う!」
疑わしいと言うような瞳を向けられ、慌てて首を横に振った。
なんて勘違いをしてくれるのか。
「俺、そんなクソビッチじゃない!」
「く、くそび……?」
「とっとにかく違う」
「……じゃあ、やっぱり好きなんだな、俺のこと」
「……」
――違うと否定したい!
心中の悶々とした感情を表情には出さずにいた奥寺は逡巡する。
ここで白石の言葉を否定してしまったら、それこそ水の泡である。しかし、肯定するのも事実と違うのだから、さてどうするべきか。
まさか、キスをする理由に好意を抱いている以外、当てはまる適当な文句もないだろう。
どうしてしまおう。
ぐるぐると考え、抜け出せない悩みのループに思考が停止しかけたその時。
「はあぁぁ」
それは大きな大きな溜め息が聞こえた。誰のでもない、白石のものだった。
「お前さ、本当に馬鹿」
「ぇ」
「嘘に真面目になった俺も馬鹿だ」
「……?」
「そうだ、そうだよ。好きなのは俺の方だ」
「…………?」
「何変な顔してんの?」
「は……い、いやいや。え、何?」
「はあ?」
白石は思いっきり眉間にシワを寄せ、不機嫌さを露にする。
だが、分からなかった。彼が何を言ったのかさえ。
「い、今、なんて」
「あ? だから好きなのは俺の方だって、」
「なにナチュラルに告白してんの!」
「は?」
「やややっ、俺がおかしいみたいな反応やめてよ! 白石がおかしいんだからねっ」
「……」
「なに!」
「……俺だって、好きでお前を好きになったんじゃない」
「ぁ」
炬燵から出てきた白石が、奥寺の目の前に座る。恐る恐るといった緩慢な動作で手を伸ばし、髪を触ってくる。
「高宮達が変なのを見せるから……なんかお前がずっと側にいるから」
気になった。
その言葉が耳元で囁かれたような生暖かさを伴って、心の真ん中に流れ込んでいく。
しかし、真剣に受け止められる奥寺ではなかった。
「う……うわああぁ、あああぁぁん。白石がおかしくなっちゃったよおぉぉっ」
「うわ」
正座のまま腰を折って、すっ込んだはずの涙を滴らせる。
「お、おれが……俺がっキスなんてしたからああぁ〜、うわああぁあぁぁ」
「う、うるさっ。奥寺……お前、泣きたいのは俺の方だぞ?」
「ううぅっ」
「奥寺。おら」
「うぐ」
首根っこを掴まれ、嫌々する前に顔を強制的に上げさせられてしまう。
「ひっどい泣き顔」
「う、う……ごめん、ごめんね、白石」
「何に対して謝ってんの」
「俺がぁ、白石にキスしたことぉ」
「さっきは謝らないって強情だったくせに」
「だって、だって……!」
「奥寺、子供っぽい」
「うふええぇぇ」
どうしたらいいだろう。白石をおかしくしてしまったのは自分だ。どうやって責任を取ろう。
ぐずぐずに泣きながら必死に考えていた奥寺だが、ぐっと顔を引き寄せられ、その涙も引っ込むことになる。
「責任、とってよ、奥寺」
「ふ、ぅ」
飛び出す嗚咽を封じるがごとく、
「!」
目と鼻の先に瞼を閉じた白石の顔があり、口をぴたりと塞がれてしまったのだった。
* * *
『明日、時間ありますか?今後のことについて話し合いたいので、用事がなかったらその時間、ください』
夕暮れ時を過ぎ、すっかり夜の顔となった通学路。懸念していた警官の姿はなく、普段別れる坂道に流夏と戻ってきた湊はそう言う彼に小さく分かったと答えるのが精一杯であった。
明日、全てが決まるのだろうか。罪深い自分は地獄へ落ちるのか。
その夜、湊は眠ることができなかった。
* * *
そして約束の時間。
流夏が召集をかけていたのだろう、鴻までもが約束の場所に現れて、とうとう現実なのだと悟る。
「……遅いですね」
しかし、全員が揃っているわけではなかった。
「ちゃんと言ったのかよ」
「言いましたよ。学校にも来ていますし」
「はっ。怖くて帰ったんじゃねぇの?」
「そんな」
二人の会話を聞くに、彼らは湊が里津としていたように互いに話し合っていたようだった。
鴻は戸惑っている様子もなく、ここに来た。
それが証拠である。
全てがはっきりする、そんな確信を得たというのに、肝心の里津が姿を現さないのだ。約束の時間は十分を過ぎようとしている。誰の携帯にも連絡はない。
「電話してみろよ」
「あ、うん」
視線で促され、湊はディスプレイをタッチして電話をかける。数コール後、弱々しい声が聞こえてきた。
《――ごめんね、みっちゃん……っ》
涙に濡れたその声音は、嵐が近付いていることを暗に示していた。
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