21 / 60

20.5 幕間:とある編集の記録 微俺様漫画家と担当編集

* * *  世間は穏やかな昼食時。しかし、眼前に広がるのは荒れ放題の“修羅場”である。 「夜見河書店、シュガースパイス編集部、」 《――今から三十分以内にカモールのミルクプリン――》 「…………は?」  佐藤(さとう)(そら)、二十四歳。独身。恋人なし。憧れの漫画編集者になって四年。  一方的に切られた受話器を信じられない気持ちで見遣り、 「締め切り明日なのにプリン食べてる場合かッ!」 「さ、佐藤? どうした?」 「呼ばれたのでちょっと行ってきますっ!」  受話器を乱暴に置き、そそくさと立ち上がって鞄とコートを羽織る。 「あ、おいっそれって原稿が上がらないってことか? おいっ、佐藤ぉ!!」  上司に当たる彼女の言葉を背中に、出入り口にある大判のホワイトボードに駆け寄って行き先を書き込んだ。  憧れていた編集者の仕事は結構キツく、いつも頭の片隅に次の原稿のことが浮かんでいて。原稿が上がらなかったら、そう考えるだけで胃がキリキリと痛む。編集の仕事は自分にのし掛かってくる【責任感】をどう操るかが鍵だと最近になって学んだ。  原稿を落としてしまったらそれは、編集者のせいなのだ。  誰がどう言おうと、作家に描き上げさせられなかった自分に非がある、空はそう思っている。そう思わなければ、誰かに衝撃を与えるような作品は生まれない気がするのだ。  しかし、つい最近受け持った作家はそんな考えを嘲笑うかのように空を翻弄していた。  こうやって呼び出されるのももう呆れるほど何度もある。けれど、 「いい作品描くからなあ、あの人」  凍えるような寒さの街中で、そう呟いた言葉は白くなって消えていった。 * * *  都内に建つ高級タワーマンション、ではなく。木造家屋の、控えめに言って古めかしい二階建てアパートの一階端。そこが担当する作家の住処である。トイレとお風呂は共有の六畳一間。  先日デビューしたばかりなのだが、編集長、社長までもが認める逸材であり、何があっても逃がしたくない人物だった。だから多少の我が儘には目を瞑ってこうして要望を叶えているわけだが。  そんな大事な作家が自分に回ってきたことこそが、空自身、チャンスだと思っていた。回してくれたということは、少なからず期待してくれていると言うことだろう。  ――上手く行けば、昇格も夢じゃない……!  これで頑張らないなんてどうかしている。 「――遅い」  だが、人生そんな上手くいかないのだった。 「これでも急いで買ってきたんですよ」 「ん」  早く寄越せと言わんばかりの仕草に内心腹が立ちながらも、渡す。  もしも彼が“これごとき”で機嫌を損ね、移籍をするなんて言い出したら空の首が飛ぶだろう。これも自分の為。自分の首がかかっていると言うならば慎重に行かねば。 「あ、あと」 「なんですか?」 「上手く描けない構図があるんだ。手伝ってくれ」 「はい、分かりました」  着てきたコートを畳んで、ソファに座る。  鹿原(かしはら)優一郎(ゆういちろう)、本名甘董(あまとう)千景(ちかげ)。三十二歳。漫画家。涼やかな容姿はどうして表舞台に立たないのかと疑問を抱かせるほど美しく、長身で手足が長い。それに甘党、名が体を表すと言うが、本当に甘党だ。大体所望されるのもプリンといった甘い菓子類が多い。嵌まっているのは今回買ってきたカモール店のミルクプリン。好きな色は黒、嫌いなのは蛍光色。服装はぴったりしたものを好み、今日も黒のタートルネックに細身のパンツ姿だ。無造作に結ばれた肩まである黒髪が羨むほどキューティクルに守られている。……。 「我ながらきもいな」 「おい、独り言王子」 「……」 「おい」 「…………」 「おいっ、編集!」 「え、あ俺ですか!?」 「他に誰がいる。レシートは」 「プリンのですか? いいですよ、それぐらい。俺のも買ってきたんで別に――って、あぁっ?! もしかして全部食べてます!?」 「あぁ、俺のだろ?」 「なんてこと……! 少しは分けようって気概ないんですか?!」 「ない。頼んだのは俺だ」 「ですよね、そう言うと思ってました! はい、これレシート!」 「今いいと――」 「言いました、けど、全部食べちゃったんだから払ってください!」 「……なんてやつだ」 「それはこっちのセリフですッ!」  レシートを押し付け、ソファにどかりと座り直す。  今の会話を上司の前で繰り広げたら、唖然とされた挙げ句にこっぴどく怒られるに違いない。甘董千景大先生になんてことを、と。  だが、鹿原優一郎及び甘董千景を敬うのと甘やかすのは全然違うことだ。そこを履き違えてはならない。ダメなことはダメだと言わなくてはこちらが大損するばかりなのである。  これまで何度、何度彼の言動で挫けそうになって、学んできたことか! 「なんて子供さだ」 「何か言ったか」 「いいえッ、特にはッ」  ふんと顔を背ける。  入店時、もう顔も覚えてしまったのだろう店員の爽やかな笑顔と共に、甘さ控え目とうたわれていたプリンが目に入り、甘いのが苦手な空は奇しくも惹かれてしまった。あの先生が口にするこの店のプリンの味はどんなであろう。毎日買いに行っているのに味を知らないなんて忍びない。いざという時、差し入れにもってこいかもしれない。  数分悩んで瓶に入ったそれを手に取った時のわくわく感を目の前の男はどうしてくれるつもりなのだろうか。  思ったらふつふつと煮えたぎるのである。 「甘いのが好きなんだから甘さ控え目のに手ぇ出すなよ」 「だから独り言。そんなに欲しいならやるよ」  既に三分の二ほど減ったものを差し出された。  空から大きな溜め息が漏れる。 「いくら先生のでも食べかけは遠慮しますっ」 「本当に面倒なやつだな、お前は」 「ふんっ。それと自覚してます? 明日が原稿の締切日ですよ」 「……分かってる。これからラストスパートだ」 「あとどれくらいですか?」 「十」 「結構ありますね。ベタぐらいなら塗りますよ」 「ああ。だが、まだいい」  そう言って最後までプリンを至極幸せそうに食し、作業机に向かい合う、甘董千景。  そういうところは、漫画家なのだと思う。  編集にできることと言ったら見守ってアドバイスをすることで。いかに作品の制作環境を整えられるかが重要な鍵だ。  待っていられるのもプレッシャーだろうか。鞄に次の会議で使う資料が入っていることを思い出し、取り出そうとしたところでペンを置く音がした。 「やっぱりここ気になるな」 「どこですか?」  立ち上がり、広げられた原稿を見る。 「ここだ。この構図が気に食わん」 「うーん」 「……戻らなくていいのか?」 「へ?」 「会社」 「……千景さんは俺を配達係にしたいんですか」 「そういうわけじゃない。だが……言ってただろ、編集は編集でキツいと」 「ぁ、あー……そうでしたっけ?」  意図せず弱音を漏らしていたらしく、指摘されて気付く。  いつのことだったか、探っても一瞬では出てこず、過去の自分を殴ってやりたくなる。  余計な心配なんて、締め切り前の作家にかけるものではない。 「キツくないとは言えないですけど、それ以上に楽しいので大丈夫ですよ」 「……楽しい、か」 「はいっ。さぁ、千景さんは早く原稿を――」 「じゃあ、手伝え」 「は、はい? いいですけど、ベタの印はつけてくださ――」 「気に食わないから書き直す」 「えぇっ?」 「いい構図を探したい。まずは服を脱げ」 「…………は?」 「服を、脱げと言った」 「あ、ああああんたはバカかッ、いきなりなにをっ」 「男同士で恥ずかしがる理由が分からん。お前、俺のことが好き、」 「それは、ないです!」 「じゃあ、平気だろ」 「“じゃあ”って何ですか!」  そう喚く間にも甘董千景は席を立ち、無造作に腕を掴んでは先程まで空が座っていたソファに放り投げる。  ……無論、無理難題を押し付けられたのは初めてではない。同じ台詞を言えだったり、こういうポーズをしろと言われたことはある。結局は甘董千景に逆らえず、流されてしまうのだが。 「どうして服を脱ぐ理由が?!」 「服があるのとないのとでは見た目に変異がある。構図を見直したいと言ってるんだ。しかも大事な場面だ。俺は妥協したくない」 「っ、漫画家として尊敬できる言葉だと思います、ですが!」 「つべこべ言わず脱げ。いい作品にしたいんだろう? それが編集の仕事ではなかったか」 「……っ、下着の着用だけは許可を」 「許す」  ――あぁ、なんてことだろう。これを許してしまったら、“次”を許したことになってしまうのに。  横暴な俺様漫画家を抱えた佐藤空は、素直にプリンなど買ってきた自分を恨んだ。本当はただモデルが欲しかっただけではないかと疑っても後の祭で。  編集は締め切り前の作家に近付くものではなかったのだ。特に鹿原優一郎というドS自己中漫画家においては。 「くそっ、いつか、いつかやり返してやるッ」 「だから独り言、さっきから心の声が駄々漏れだぞ」 「誰のせいだと思ってるんですか! 誰の!」 * * * ‪ 後日。担当作家への恨み辛みを愚痴る会にて、‬ 「――それならモデル人形を与えればいいんですよぉ。ほら、手足が稼働するやつあるじゃないですかー」 「……晴彦くんっ、ありがとうぅ」  その手があったかと、今後の対策としてさっそく買いに走った空なのである。 「だからわたしは晴子ですよぉ、やだなぁ先輩ってば」

ともだちにシェアしよう!