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* * * 『僕は、本当は……っ、最初からみっちゃんに挿入()れることができたんだ』  家に帰り、ふと冷静になった頭で振り返ってみると、あぁ、あの時に里津が恐れていたのはこのことだったんだと思い至ることがあった。  距離をとろうと一方的に押し付けてから数日。宣言通り、湊は里津達と一切言葉を交わさなかった。視線も合わせない、合わせないように努力していた。そのせいか、彼らから話しかけてくることは一度もない。痛いほどの視線は感じているけれど、無視し続けている。 「……はぁ」  そうするものの、怒っているからではなかった。  よく、分からないのだ。  あの日から頭の理解が追い付いていないようで、あまり深く考えられずにいる。  考えようとしてもうわべだけを擦っていて、何を考えたらいいのか分からない始末だ。  けれど、距離はとりたい。今は、一緒にいるべきではない。  その明確な意思だけで一人、教室内にいるわけなのだが。  クラスメイトはとうとう埋めようもない溝を作ったか、と遠巻きに見ていて、湊が一人でいる理由を聞いてくる者はいなかった。 「どうしたら……」 「――あれ、湊さん?」 「……?」  聞き慣れぬその呼び声に、帰路をゆっくりと前進していた湊は足を止めた。そして、“彼”を目に映す。 「一人、ですか? 兄貴は?」 「……(かおる)くん」  兄の遺伝子を受け継いだ、正に不良な格好をした鴻の弟がそこにいた。郁とは、これで会うのが二度目だ。初対面で自分を好きだと言っていた郁は戸惑いぎみで、その様子に納得がいく。  ──初対面でふぇらされたら誰だってこうなるよね……。  あの時は強引だったと振り返り、湊はわざとらしく笑顔を作った。できるなら、今は会いたくなかった。 「久し振りだね」 「こ、こんなところで会えるなんて……家、近くですかっ?」 「うん、もうちょっと先に行ったところ」 「……へへっ、今日はいい日だ! ねぇ、湊さん、兄貴とは上手くいってます? いってない、なんて言ってくれませんよね……?」  上手くいってなかったら嬉しいのに、という明け透けな望みが垣間見えたような気がして、湊は笑った。本音である嘲笑を浮かべる。 「上手く、いってないよ」 「……え」  深刻そうな顔をしていたのだろう。  郁の嬉しそうな表情が固まる。 「け、喧嘩でもしたんですか?」  あの時は羨ましいぐらいラブラブだったのに、と呟く。  そうだ、郁は純粋であった。自身の兄との関係を恋人同士だと疑うことなく信じ、一体そこにどんな契約があるのかも知らない、湊が置かれている現状も、予想できるないだろう。  一瞬、思いがちらつく。  全てを打ち明けたら、彼は、中学生の郁はどんな反応をするだろう。好きだと言った彼は、どんな表情をするのだろう?  一瞬(ひとまたた)きの、意地悪な考え。  湊は、言った。 「郁くん、俺のことまだ好き?」 「え、ぇ!?」 「答えて」 「ぁ、ぅ……す、好き、ですよ? あの時の……オカズに、するぐらい、には」  同級生に畏怖を抱かせているであろう不良然とした風貌の郁が、耳まで赤く染めて弱々しく頷く。  自分の口角が、上がっていくのがありありと分かった。 「じゃあ、俺を慰めてくれる?」 「なぐ、さめる?」  子供が覚えたての言葉を繰り返すように言う姿が更に笑みを深まらせる。 「そう。郁くんが思う慰め方で、俺を慰めて」 「……おれの」  ――かわいい。  悪い思考が働き出した瞬間だった。 * * *  このまま性悪なクソビッチに堕ちて、誰の期待に応えるでもなく、どこまでも底に落ちたら。  その‪一時‬の気の迷いを見透かしたわけではないだろう、郁は、純粋無垢な笑顔を湊に向ける。 「湊さん、湊さん」  警戒せず、近寄ってきて、制服が触れ合う程度の距離にいる。 「ね、あれ可愛くないですか?」  ――郁の慰め方は、実に健全だった。  性的なことを想像しなかった、と言ったら嘘になる。  郁とまで関係を持って、更に状況をややこしくする想像をしなかったわけでもない。  だが、想像を越えて、郁は普通に慰めてくれるようで。 「これじゃあ、普通のデートだ……」 「湊さん?」 「う、ううんっ。可愛いね、これ」 「ですよね!」  慰めて、との言葉に少しの間逡巡していた郁だったが、ぱっと明るく笑って湊の手を握ると、迷わず先導して街の方へと向かったのである。目的もなくぶらぶらとして、目についたものを指差して、時には近寄って感想を言い合う。その意見が合うと、決まって郁は嬉しそうに破顔した。  そうしていくうちに、芽生えた毒牙が抜かれていくようで。  いつの間にか、湊も純粋に楽しみ始めていた。 「で? 何があったんですか、兄貴と」 「……っ」  騒々しい電子音が鳴り響くゲームセンター。郁には馴染み深い場所だったのか、きょろきょろとする湊に対して、可愛いと漏らしたぬいぐるみを獲ろうとクレーンゲームに小銭を入れる。 「兄貴なんでしょう? 湊さんを傷付けたの」 「……」  他人に聞かれる心配がないような大音量が鼓膜を支配している為か、話をするには最適な場所とも言えた。 「俺には話せませんか?」 「…………」  郁の視線がちらりと向けられる。  ただ湊との時間を楽しんでいたように見えたが、彼はしっかりと慰めてと言った理由を聞いてくれるつもりだったようだ。  それが鴻と似ていないようで似ているようで。  何とも言えない気分になった湊はピコピコ軽やかな音を奏でるゲーム台を見つめた。 「俺、湊さんの笑っているところが見たい。慰める、っていざしようとみるとどうしていいか全然分からなくて……。話聞くことは“慰める”になりませんか? 迷惑、でしょうか」  ぬいぐるみは一度機械に押し潰され、その可愛さを台無しにされる。その半瞬後、元の位置に戻っていくクレーンに連れられ、ぬいぐるみが持ち上がる。が、重さに耐えきれなかったのか、すとんと落ちてしまった。  郁が悔しがる。惜しげもなく財布から小銭を数枚取り出し、投入していた。 「何を、信じればいいのか、分からなくて」  話を聞いてくれるのか、そうでないのか。あやふやな態度がかえって湊の喉を滑らかにした。  気付けば、愚痴のような言葉を口にしていたのだ。  しかし、内容をそのままに吐露するわけにはいかなかった。  自身の兄と付き合っていると信じてやまない純粋無垢な郁の、鴻を見る目が変わらないよう、細心の注意を払って。だが素直に思いを吐き出す。 「裏切られたとも言えることで。俺にとっては、それ一つが……大事、というか……今を作り上げてるものだった」  ――里津が自分と同じく挿入()れられたい方だと言うから、鴻や琉夏と契約した。 「でも、……俺と同じがよかったって言われたら、怒るに怒れなくて……そもそも自分が怒ってるのかも分からないんだ」  ――好きな人と同じがいい。  その気持ちは分かる気がした。してしまったのだ。 「ただ、ショックがあって……」  ぬいぐるみが落ちる。湊から見て、このゲームは理不尽だと思えた。明らかに掴みとれないであろう重さのものを景品にするなんて。  それでも郁は諦めない。 「これからどうしたらいいんだろう。距離を置こう、って言ってから一言も喋ってない」  ――悪いのは里津一人だろうか? それも鴻と琉夏を加えた三人? 「……」  やはり、真実を隠しながら話すのは難しい。二の句を継げなくなって、湊は黙り込んでしまった。  また機械がぬいぐるみを押し潰す。首元にしっかり爪が入り込み、その重たい胴体が持ち上がった。 「やっぱり俺じゃダメですね」  郁が言う。 「何々があったって湊さん、ちゃんと言ってくれないんですもん」 「……ぁ」 「本当のことに触れないように話してるでしょ?」 「郁、くん」  ぼとん。ぬいぐるみが落ちる。 「兄貴じゃなくて俺に乗り換えませんか」 「かお――」 「俺なら湊さんを傷付けません、絶対に」 「……郁くん」  金髪の彼はしゃがみ込むと、扉を開けてお目当てのぬいぐるみをその腕に抱いた。  そうしてぱっと笑顔になって渡してくる。 「湊さんにあげます」 「え」 「可愛いでしょ? だからあげます」 「で、でも」 「遠慮しないで! 湊さんにあげたくて獲ったんだから」 「……ありがとう」  手のひらに触れた熊だか狸だか判別のつかないぬいぐるみは心地よく湊の腕の中に収まった。  男子高校生が持つにしては少々違和感は拭えないものの、郁の好意を無駄にするわけにはいかない。  よくよく見てみれば、愛着が湧く顔をしているのだ。 「で、俺のお誘いは?」 「え?」  途端ににやりとした表情になって、郁が一歩詰め寄ってくる。  声は聞こえなくとも、目はありのままを映すだろう。  異様な近さに後退するも、すぐ後ろのゲーム台に阻まれて逃げ道をなくした。 「兄貴をやめて俺にするって話ですよ。俺、二人のラブラブっぷりに落ち込みましたけど、あまり上手くいってないなら頑張ったっていいですよね? さっきも言いましたけど、まだ湊さんのことが好きです。……ダメですか?」  他人から見れば不良に絡まれている哀れな学生だろうか。  郁のお陰で毒牙がすっかり抜かれていた湊だったが、今度はその郁に奈落への道へ誘われている。  何も知り得ない彼はただ自身の兄から奪い取るだけと思っているのだろう。……実際はまだ後二人もいるのだけれど。  当然それを白状するわけにもいかず、湊は――……。 「俺は郁くんが思っているような人間じゃないよ」 「湊さんはえろかわいい人です」 「っ……?!」 「湊さんのこと全部知ってるわけじゃないです、当たり前です。だから知りたい。もっといっぱい知りたいです。さっきは少し意地悪なこと言っちゃいましたけど……話そうとしてくれたこと、嬉しかったです。少しは楽になりましたか? もっと、慰めてもいいですか?」  その時、爆音とも言えるゲームの音の合間を縫って、郁を呼ぶ声がした。 「――郁」  一声だけで、恐怖と好奇心を抱かせる声音。低くも、艶のあるものだった。  郁が弾かれるようにして声の主を見る。  その視線を辿れば、今まで関わったことがない人間、不良を取りまとめるような王がそこにはいた。 「先生!」  だが、郁から飛び出た、おおよそ王を表すであろう役職に湊は目を見開く。  全身黒で纏められた服装はごく一般的ではあるが、彼から滲み出す気迫と威圧、瞳の鋭さから到底見抜けるものではないだろう。  一体、彼は誰であるのか。  郁と呼んだからには知人には間違いないのだろうが。  はらはらと二人の様子を見守っていた湊だが、不意に王と目が合う。 「郁、そいつは?」 「湊さん! 兄貴の恋人」 「か、かか郁くん!」  初対面の、しかも怖そうな人になんてことをっ、なんて焦燥に駆られていると、迷うことなく彼は目の前にやって来る。  先程のぬいぐるみの有り様が脳内にちらついた。機械に潰されていたみたいに自分も今、この男によって捻り潰されるのではないか。  動くことも口を開くこともできず、ただただ震える小動物のごとく彼の動向を凝視している湊に向かって、彼は、 「はじめまして、郁の担任の大嵜(おおさき)(やまと)です」  律儀に頭を下げてそう言った。  ……端から見たら、不良のリーダー各に挨拶されている謎の学生である。  何がどういう展開を見せているのか、湊は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。

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