32 / 60
31
* * *
『まだ中学生なんだから制服姿で遊ぶのは程々に。郁が良くても、何かあったら迷惑がかかるのはそちらの湊さんなんだからな』
そう言って見回りをしているらしい教師は、それ以上口煩く言うでもゲームセンターから追い出すこともせずに帰っていってしまった。本当に教師なのか疑わしいことこの上ないが……。
「そっか。湊さんに迷惑がかかるのは嫌だ。連れ出しておいてあれですけど、もう帰りましょう?」
「あ、うん」
騒がしい場所から離れ、その差に静寂すら感じる街を歩く。
隣に並びながらも、何故か二人共無言だった。
やがて、いつもの帰り道である坂を上りだす。
そこではたと気が付いた。
「あ、郁くん、ここまで来て大丈夫?」
「大丈夫ですよ。俺が行こうって引っ張ってったんだから送ります」
「え? あ、いや、そんな。一人で帰れるよ」
歩みを止める。
だが、郁は笑顔を崩さず、更に楽しそうにして湊の手を引っ張った。少し前の時と同じように。つられて、先に行く郁を足が追った。
「俺がまだ湊さんといたいだけ。それならいいでしょ?」
「……」
「あれからもう湊さんとは会えないって思ってました。でも会えた。兄貴と一緒じゃない、完全に偶然に。こういうの、言うなら【運命】ってやつじゃないですか? 俺、この運命を信じたい。あれきりじゃないって、証明したい」
言葉が紡がれていくにつれ、握る手に力がこもっていく。
「郁くん」
きゅっと、指を締め付けられる。
「俺はね、湊さん。湊さんがどんなことでも相談できるような、言葉を選ばなくて済むような、信頼される人になりたい」
「……!」
立ち止まらずに進んでいく郁の口調は力強かった。言葉から滲み出ている意志が、本物であると如実に物語っていて。
湊は自分の愚かさに瞼を閉じたくなった。
慰めて、なんて軽々しく言いながら、その言葉を吐き出すに至った経緯をぼかして伝える――それは彼に、郁に失礼極まりない行為だったのだと今更気が付いたからだ。
郁は思い知っただろう、自身の無力を。どれだけ頼りにされていないか。
郁が感じたそれらは事実では決してないのに、そう思わざるを得なかっただろう。
「郁くんごめ、」
「謝らないでください」
きっぱりとした物言い。
突っぱねるようなその言い方に、喉奥がきつく締まった。
「……っ」
「痛感してます、今日もこの間も。湊さんが必要としてるのは俺じゃなくて、兄貴です。……本音を言うと悔しい、すごく。取り合うこともできないぐらい兄貴との仲は固く結ばれてて、俺が入る余地はない。失恋した、って諦めてました。けれど今日、湊さんに会って考えが変わりました」
「え……」
「湊さん」
坂を上りきったところで、郁の足が止まり、振り返ってくる。
「諦めなくてもいいですか? 好きなままでいて、いいですか? 貴方に信じられるような人になりたいって願って、頑張ってもいいですか?」
「……、」
実直な言葉が、矢となって湊の心に突き刺さった。じわりじわりと、そこから何かが流れ出す。
「か、かお、るくん」
「湊さん……っ」
――答えを。
そう、求めている幼さを残す双眸が湊をずっと見つめている。
毒牙なんて、一瞬でも生やしてしまった自分が情けなく、恥ずかしかった。
悲観してはならない。自分の置かれたこの状況は、自分が作り出したものだ。鴻や琉夏、ましてや里津が原因ではない。
自分が、湊自身が現状を招いたのである。
嫌なら嫌だとはっきり態度で示せばよかった。周囲に触れられても構わないと、強がればよかった。変だと思った時にちゃんと里津の話を聞き出していればよかったのだ。
今頃、里津を責めはできないだろう。
そうするにはできないほど四人の関係に溺れ、何度も欲にまみれてきたのだから。
それに距離をとろうと言いながらも、湊は別れるつもりはなかったのである。“誰とも”。
「こんな俺に、」
湊は顔を上げ、顔を見つめ返した。
「ありがとう。嬉しい。そんなふうに言ってくれて、嬉しい。ありがとうっ」
「……湊さん? どうして泣きそうな顔……、すみません、俺嫌なこと――!?」
次の瞬間、郁を抱き締めた。堪らず、戸惑う様子を見ない振りして、抱き締めた。
「っ……っ、っ」
「湊さん……?」
「ぅ、っ……っっ」
「泣いて、るんですか?」
探るような声。すると、躊躇いがちにだが背中に回る手があった。
訳も分からないだろうに、突然泣き出した湊をまだ慰めようとしているらしく、更に湊の涙腺を刺激した。
この時ばかりは、周りに目を配って気遣うことなど到底無理な話であった。
そして落ち着いた頃。
「湊さん」
柔らかな声で呼ばれ、彼を間近で見上げた湊の頬に声と同じような感触が軽く押し当てられたのだった。
「これぐらいならただの挨拶だって、言い訳できるかな」
くすりと笑い、郁は離れていく。
「ごめんなさい、湊さん」
それが何に対しての謝罪なのか判断できず黙ったままでいると。
「兄貴とちゃんと仲直りしてくださいね」
「……うん」
「あとくまちゃん。大切にしてくれたら嬉しいです」
「これ、くまちゃんなの……?」
持っていたぬいぐるみを掲げ、面妖な顔を見つめる。
郁が変な声を出した。
「どうしたの?」
「湊さんがくまちゃんって言った……!」
「え?」
「やっぱり好きです、湊さんっ」
「あ、あぁうん」
「そういえば、聞いてなかったことが」
「あ、はい」
「――湊さんは兄貴のこと、ちゃんと好きですか」
「……好きだよ」
「そうですか」
そう頷いた郁の表情と、湊が浮かべていた表情は同じようなものだったろう。
だが、好きという言葉に偽りはなかった。
そうしてふと目を転ずれば、かの日のことを思い出しそうな光景が視界に生まれた。
「あ」
必然的に音が漏れる。
相手も同様に思ったのだろうか。
同級生である奥寺真崎がこちらを見て、目を丸くさせていた。
* * *
「湊さんの知り合いですか?」
「高宮、まさか、知り合いなの?」
同時に放ち、互いに視線を向けてはどきまぎと逸らす。
それを間近で目撃した湊は思わず笑ってしまった。
「郁くん、こちらは同じクラスの奥寺真崎。奥寺、こっちは鴻の弟、郁くん」
「エッ、鴻って……夏々城の?!」
「クラスメート……」
互いに相手のことをどんなふうに思っているのだろうか。
目を合わせるのにすぐ逸らす様子はなんだか微笑ましさを誘って、湊を笑わせる。
「じゃ、じゃあ、俺はこれで――」
なんて、人見知りではないだろうに郁が一歩後退するので、湊は笑いながら彼を引き留めた。
「待ってよ。ちゃんと家まで送って。送ってくれるでしょ?」
「あ……は、はいっ、もちろん!」
「奥寺はこれから帰るの?」
「え? あ、うん。帰り」
「そっか。じゃあ、また学校でね」
言い残し、郁の手を取って奥寺を視界から外す。
だが、奥寺はそんな湊を呼び止めてきた。
「待って、高宮」
振り向けば。
「あ、の」
奥寺が何か言い澱むのだ。
それでも待ってると、意を決したような瞳が向けられ、
「高宮は、一体誰と付き合ってるの?」
偶然か必然か。最も今されたくない問いを口に出してきたのだった。
『貴方に信じられるような人になりたいって願って、頑張ってもいいですか?』
奥寺の問いに答えてしまったら、郁を更に悲しませることになってしまう。
きっと奥寺は確証があって聞いてきたのだと瞬時に湊は思った。鴻と付き合っている、ということを“知っている”人物だ。
現状、郁と手を繋いでいる。奥寺に気付く前には頬に口付けられもした。
もしもその光景を見てしまったのなら、疑いたくもなるだろう。
気持ちを分かりながらも、湊は首を振った。
「それは奥寺も知ってるでしょ? 今更教えることはないよ」
冷たい言葉をかける。
しかし、奥寺は納得してくれたようだった。
ちらりと郁の表情を確認したものの、次には笑って謝ってくる。
「ごめん、変なこと聞いちゃったな。高宮の恋人は夏々城だもんな! うん、ごめんっ。俺の悪い癖なんだ、色々想像しちゃって」
「想像って……」
「妄想と言っても過言ではない」
「え、妄想?」
「うん。ごめん」
その瞬間の謝罪には様々なことが詰まっているような気がしたが、湊はにこやかに頷いた。
そのまま奥寺と別れる。
「湊さん、いいんですか? 奥寺さん――」
「黙って」
「……はい」
――視線を感じる。奥寺の、疑いの眼差しを。
彼にバレてはいけない。本能が警鐘を鳴らしていた。
それから家まで一言も喋らず歩き続け、ようやく湊は自分が黙ってと言ったことを郁は忠実に守っているのだと思い至った。
故に、急に振り返った湊に郁がきょとんとしている。
その従順さが、何とも言えない感情を湊に抱かせた。
「ありがとう、送ってくれて。あとくまちゃんも」
「ぁい、いえ! 喜んでくれたならそれで……」
「一人で帰れる?」
「も、もちろんですよ! 帰れなかったら湊さんを送った意味ないじゃないですか」
「それもそうか……。じゃあ……またね、郁くん」
「はい、また」
「……」
「……」
暮れる日に背を向けて、玄関に手を伸ばす。寸前、なんだか後ろ髪を引かれ、郁の方を向いた刹那。
「え」
湊の顔に陰が差し、あっという間に唇を塞がれた。
「郁くん……っ」
「ごめんなさい。見られたら大変ですよね」
困ったように小さく笑って、自分でもどうしてこんなことをしてしまったのか分かっていないような仕草をする。
「でも、嬉しくて。あのクラスメートの人より俺を選んでくれたこと。あの時、湊さん俺から逃げることもできたでしょ? 奥寺さんを連れてさようならって言えたんです。でも湊さんはそれをしなかった。そんなことで嬉しくなっちゃうんです、俺」
「…………」
「って、困りますよね、すみません」
何も言えずにいる湊を見て眉をハの字にする郁。
「今のは兄貴に内緒で。じゃっ」
「ぁっ」
悪戯っ子のような表情を残し、足早に去っていく彼を止めることはできなかった。
呼び止めて、何と言えば良いか、言葉が浮かばなかったからである。
程なくして橙に染まった髪が見えなくなり、その影が一度でもこちらを振り返ることはなかった。
「ふぅ」
今日も終わる。
なんとなく黄昏 れて家に入れずにいる湊は意味もなく空を見上げた。
――自分から距離をとると言った。ならば、近付くのもまた、自分からだろう。
「やっぱり俺には……」
「――みっちゃん」
その瞬間、何が起こったか。
背後からの引力に抗えるはずもなく、倒された湊はいつの間にか家中にいて。大きな黒い塊が乗っかっていることに状況把握ができず、目を瞬かせる。
そして黒い塊は急くように、
「んぅむ……!?」
戸惑いを口にしようとした湊の唇を覆ってきたのだった。
触れる柔らかさに、塊に目を凝らす。
「ん、ん……っ」
啄み、離しては角度を変えて柔らかいそれが押し付けられる。
それが里津であると、ようやく気が付いた湊は途端に胸を撫で下ろした。
まさか暴漢だとは思っていなかったが、郁と別れた後であり、里津達と距離を置いてる現在である。新たな種があってはならない。それに脅威が家の中に潜んでいたとなっては、心穏やかにはいられない。
だが、
「ん、ぅ」
相手が里津だと分かってしまえば、湊が取るべき行動は決まっていた。
「り、っひゃ……!」
応えるように腕を回し、口を押し付ける。
しかし、びくっと肩を揺らした里津が信じられないとでも言うような顔で湊を見つめてきた。
「どうしたの?」
問えば、里津は泣きそうに顔を歪めた後、湊の肩口にその顔を埋めてくる。
「……」
「りっちゃん?」
「名前呼んでくれなかったらどうしよう」
「え?」
「拒まれたらどうしよう、ってずっと考えてた。みっちゃんに酷いことしたから……」
恐る恐るといった形で相貌を見せてくる。
どうして里津が家にいるのか。そんなことはどうでもよくて。今にも涙が落ちてきそうな顔に指を伸ばす。
「みっちゃん……っ」
「酷い顔」
「みっちゃぁん」
「なに」
「僕を嫌いにならないで」
「……ならないよ」
「許してなんて言わないから、嫌いには……」
「ならない。嫌いになんてなれないよ、りっちゃん」
自信を失っているらしい。次第にぽたぽたと湊の顔中に雫が降ってくる。
里津にどうにか言い聞かせようと冷静に、真面目に口を開いた。
「ずっと、俺も考えてた。距離を取るって言ったけど、別れるつもりはなかった。誰のことも嫌いになることができなかったんだ。好きな人と一緒が良かったって言うりっちゃんを可愛いと思っちゃった……嬉しいと思っちゃったんだ、どこかで。そのせいで琉夏と鴻と契約したんだとしても、今更りっちゃんを手離すことはできないよ」
「……っ」
「おかしいでしょう?」
「……うんっ。でも僕は、それが嬉しいと思う……っ」
「りっちゃん」
「ふ……ぅっ」
【普通】であることの大切さ、【普通】じゃないことを必死に説いてくるのが周囲の人間ならば、せめて自分だけは【普通】ではないことを許してあげたい。
同性が好きなことも。一人ではない彼らとの関係性も。
「りっちゃんのことが好きだよ」
「ぼ、僕も。みっちゃんが好き、大好きっ」
「じゃあ、決着をつけよう」
「……えぇ?」
「流夏と鴻のこと。どうする?」
ともだちにシェアしよう!