42 / 60
番外編:冬に青い春8
* * *
混雑、という言葉では片付けられないほどの人混みの中。白石は辺り一帯を、たった一度だけ見た男を探す為に奔走する。
「はぁ、はぁ」
鞄が煩わしい。ネクタイもきつく感じてきて、ぐっと引き剥がす。
しかし、どれだけ視線を転じても目的の人物を捉えることができない。
「はあっ。まさか、電車に乗ったんじゃ……」
嘘を吐いて、柏木は既に車内なのではないか。
嫌な想像を追い払い、再度顔を上げる。
と、
「――白石くんっ」
声が聞こえてきた方へ振り向けば、大きな荷物を抱えた、一目で優しい人物だと分かる柏木がいた。
「柏木さん!」
人の間を縫い、急いで駆け寄る。
一瞬、自分が奥寺なら、と下らない願いが頭の中を駆け巡った。
「白石くん、大丈夫だった? ここまで走ってきたの? 今考えたら、随分酷いことを言ってしまった気がして……」
随分、反省しているらしい。眉尻を下げている様子はさながら怒られた子供のようだ。もうすぐで三十路らしいのに、恐ろしいものである。
「そ、そんなことはどうでもいい! 柏木さん、あんた、自分が何したか分かりますかっ? かはっ、ぅ」
「ちょ、落ち着いて。逃げないから。時間もある。早めに出てきたんだ」
「ごほっ……はぁ、はぁっ」
倒れ込んでしまいたいところをなんとか堪え、柏木の腕を掴む。自ずと、力が篭った。
やがて、呼吸も落ち着き、冷静になって柏木の隣に並んでみると、これが現実ではないような感覚が白石を襲った。
目の前を忙しそうに通り過ぎていく人々。自分と柏木だけが制止しているようで、世界から切り離されているようだ。
今なら話せるだろう。
「まさか、君から連絡をもらうなんて思ってなかったよ」
しかし、またもや先手を打たれ、放とうとした言葉を飲み込む羽目になった。
「連絡が来るなら奥寺くんかな、って……思ってたから」
淡い期待だと言わんばかりの口調に白石はつい溜め息を吐いてしまう。
「そう思うなら、なんでいきなり消えるような真似を……」
「そうするのが一番いいからだよ」
「そこに奥寺も含まれてますか?」
「もちろん」
次は澱みのない言い方だ。
何が彼をこうしたのだろう。
足元には、東京を離れるという言葉が証明するように、トランクケースと大きめのバッグが置いてある。六月だというのに男の服装は厚めで、上着を持っているところを見てしまえば、向かう場所は明らかであるようだった。
――どうにかして引き留めなければ。
白石はそれだけを胸に、その意思を感じさせないよう、雑多な人混みの中へ視線を投じた。
「どうして俺の願いを受け入れてくれたんですか」
「――その前に。どうして会いたいと言ったの? 僕と君は、控え目に言って関わりがないでしょう?」
「……そうですね」
どう言うのが正解か。息を飲む。
「見ているのが、辛くて、苦しいからです」
「……」
こちらを窺うような眼差しを感じる。
それでも男と目を合わすことなく、白石はじりじりと頬を焼かれるような気分に陥りながらも続きを紡ぐ。
「苦しいのは嫌ですから。早く楽になりたいと思っても不思議じゃありませんよね?」
「……うん、そうだね」
「柏木さんは今、苦しくないですか」
「どう、だろう、ね。この歳になると、色んなことが苦しく感じるよ。でもそれが当たり前。みんな通る道だから」
「奥寺と。離れることは、柏木さんにとって苦しくはないんですか」
「どうして奥寺くん?」
「だって好きでしょ、柏木さん」
なんでもないように口にすると、柏木の雰囲気が確かに変わった。
図星だ、と分かってはいたのに思い知らされたようで心が軋む。
「好き、なんて……知ってるでしょう? 僕はもうおじさんだよ」
「年齢なんて、関係ないでしょ」
「……白石くんに何が……」
何が分かる。
先の言葉を理解して、白石の口端が緩んだ。
――優しい仮面の下に潜む本性が現れた気がして。
「だから知りに来たんです」
そこで初めて、柏木と正面から目を合わせた。
それだけで分かる。
この現状は柏木が望んでいるものではない、と。
――奥寺、望みはまだあるぞ。
「教えてください、柏木さんのこと」
「……何も面白いところなんてないよ」
「いや、分かりません。だから話を聞いて俺が面白いか判断します」
「白石くん、」
「興味深い話を聞いたんです。それって、柏木さんが東京を離れようとしていることと繋がりますよね?」
「……まさか、白石くん、牧田さんに会ったのっ?」
「ぇっ」
ぐっと両腕を掴まれ、一気に表情を一変させた柏木が素早く周囲に目を遣る。
その様子は何かに怯えているようでもあって。
「か、柏木さん?」
「場所を変えよう。あの人が来たら面倒なことに君を巻き込んでしまう」
「え? あっ、ちょっと!」
それから柏木は片手で荷物をまとめて持ち、白石の手首を空いていた手で掴むと有無を言わさず駅を離れた。
* * *
「牧田さんって誰ですか」
記憶が正しければ、連絡先を教えてくれた盗み聞き上手な涌井が口にしていた名前でもあるだろうか。
しかし、柏木が疑うように白石は牧田という人物を会ったこともないし知らないのだ。
それを告げると、柏木はえっと固まり、次の瞬間、耳まで赤くなって狼狽えた。
「なっ……は……うぁ」
駅構内とは違い、穏やかな時間が流れている店内。軽やかなオルゴールが流れ、夕暮れ時を物悲しく演出している。
柏木に引っ張られるがまま連れられてきたのはコーヒー専門店らしく、大通りから逸れた隠れ家的店であった。
一番奥、それも入り口が見えない高さの衝立 に遮られた席につき、簡易な個室状態の一角。眼前の木製の丸テーブルには一口サイズのケーキの盛り合わせと白石には紅茶、柏木の目の前にはブラックコーヒーが置かれている。何か注文を、と焦った柏木が咄嗟に頼んだものである。コーヒーの専門店と謳 いながらも、デザートや他の飲み物も豊富であるらしい。
一頻 り羞恥に顔を赤く染めた柏木はわざとらしく咳払いをして、小さな声で謝ってきた。
「本当、ごめんなさい……。早とちりしてしまったみたいで」
その様子にますます年齢相応には見えないなと思いつつ、白石は笑う。
「いや俺は大丈夫ですけど。いいんですか? 駅から離れて。電車、何時ですか?」
大きな荷物と共に息を切らして飛び込んできた柏木を見た店員の顔が思い出せてきて、笑みが深くなる。大通りから外れてることもあって、普段ここに通うのは、文庫本を片手にコーヒー目当てにやって来る人間が多いのだろうと予想できるほど、店内には本が敷き詰められていて。白石達以外の客の視線はみな斜め下を向いている。言ってしまえば、入店時、店員以外の客が白石達を見ることはなかった。本好きが集まるお店のようなのである。
それを柏木も感じたのだろう。普通にしては小さすぎる声で、だがここでは囁き声にも満たない声量で彼は言う。
「焦ってそれどころではなかったよ……あぁ、もう、間に合わないね」
出入り口の方に飾ってある時計を見、柏木はほぅと息を吐く。それからコーヒーを口にし、少し止まって備え付けられてあった砂糖に手を伸ばしたところで、安堵した様子を見せた。
「あぁ、びっくりした」
その笑みは少々疲れたようであるが、柏木らしいと言えるような笑顔であっただろう。優しい、人を安心させ、圧倒的信頼感を抱かせる人懐っこい表情。
――奥寺、こういう顔、好きそうだ。
「離れるって言ってた割には、あまり焦ってませんね」
「……仕切り直すよ。今日はもう、諦める」
結構電車代高かったのに、と呟いて甘くしたコーヒーを飲む。
チャンスだと、思った。
「教えてください」
「……僕の人となりを?」
「それもそうですけど、一番は“奥寺から”離れる理由を」
「……そう言えば、偶然聞いたって言ってたね。涌井くんに聞いたんでしょう?」
「はい」
迷わず頷くと、柏木は呆れたように吐き出す。
「あの子、誠実そうな顔してやることは本当子供っぽいんだから」
「俺、柏木さんの連絡先がどうしても知りたくて。嘘吐いたんです、咄嗟に。柏木さんの婚約者の弟だ、って」
「……なんてこと」
「そうしたら絶対教えないって言ってた涌井さんの態度が変わって。牧田さんの名前が出てきたんです」
「……あの時の、か。やっぱりお店にも迷惑かけちゃったかな……。じゃあ、大体のことは知っているの?」
「柏木さんに婚約者がいたこと。その婚約者が五年前に亡くなっていて、それを……牧田さんに責められていたことしか」
「全部じゃないか。……涌井くんめ、お喋りなんだから」
そう言いながら、腹立てたり苛ついている訳ではないようだ。ただ呆れているのか、頭を抱えて逡巡している。
「……」
「……」
長い沈黙だった。静寂な店内に秒針の進む音だけがこだまし、焦れる無言が続いて。
「はぁ」
観念したと言うような溜め息が聞こえた。
「僕から話を聞くまで君は引かないだろう?」
「もちろん。奥寺の為ですから。なんとかしてもう一度、柏木さんに会ってもらいたいんです。あのままじゃ、奥寺は……」
「……?」
「きっと柏木さん、俺の話は嘘だって思いますよ。今の奥寺は、柏木さんの知ってる奥寺じゃない」
「どういう、こと?」
「……」
「白石くんっ」
意地悪な性格が顔を出す。奥寺の為だと言いながら、本心では、柏木の知らない奥寺を知ってる優越感に浸っていたいと思ってしまう。
今だけなのだ、柏木を上回っている感覚を抱けるのは。
現実はそうじゃなくて。自嘲してしまうほど自分は……柏木に劣っている。
優しさも魅力も。何でも受け止めてくれそうな包容力も、端から目にしただけでそれらが伝わってくる男は他に思い付かないぐらいだ。
「俺の電話を切らないでいたのも、こうして会ってくれて、邪険にしないのも。柏木さんはどこかで奥寺を想ってるからでしょ?」
「……それは」
「違うと言い切れますか? 俺を待たない選択肢もあったはずです。本当は、離れたくないんじゃないですか? ここから、少しも。奥寺に未練があると思ってるなら、俺はそれが、嬉しいです」
「白石くん……」
「とにかく俺の願いは、奥寺と会って、ちゃんと話してほしいんです。お願いしますっ。なんでもしますから」
「……」
頭を下げ、困った顔をしている柏木を見るのをやめる。
柏木の瞳を見つめていると、心の底から沸き上がる本音を見破られてしまいそうな感覚に陥って仕方ない。
これは奥寺を取り戻す為の布石なのである。そう、自分に言い聞かせて。
自ら捨てていく欠片を必死に拾い集め、繋ぎ合わせて彼に握らせなくてはならない。純粋無垢でいてほしいのではない。自分自身をただ大切に思ってほしい一心なのだ。自暴自棄なんて損することしか産まれない。得なんて何もないだろう。一時を忘れる為に一生をかける必要はない、と白石は奥寺に言いたいのである。それが自分の得にならずとも。
奥寺が好きだから、奥寺に泣いてほしくない。苦しいと言って泣きじゃくる彼は、それほど白石にとって堪えた。
「……」
「……」
一人が、席を立つ。刻々と時が進んでいるらしい。外はいつの間にか陽が翳っている。
「……僕は、」
不意に、柏木が語り出す。
秘めておきたいであろう、過去を。
「この話をしたら、君を巻き込んでしまうことになる。でも、君には何もかも見抜かれてるような気がしてならないんだ。だって疑問に思ってるだろう? 仕事も辞めて、奥寺くんにも別れを告げて数週間も経っているのにどうしてまだ東京を離れてないのか」
「はい」
「それに涌井くんから聞いちゃったんだよね? ――僕が人殺しだってこと」
「!」
「白石くんは言葉を選んでくれたようだけど……涌井くんや牧田さんが言った言葉は嘘ではないんだよ」
「事実、ということですか」
震えを抑え、そう問うと、柏木はどっちつかずな表情を浮かべた。
自身でも分からないと困惑しているような……。
「それを認めてしまうのは、……」
「……柏木さん?」
「正直、君に明かすのは躊躇われる。関係ないんだもの。でも聞いてほしいと思う。僕に会いたいと言ってここまで来てくれた白石くんに応えたい気持ちもある。奥寺くんにだって、告げるなら直接さようならを言いたい」
「ここを離れるのは確定事項なんですか?」
「…………」
「……」
余計なところで口を挟んでしまっただろうか。
気持ちを焦らす白石に、柏木はその言葉は聞こえなかったと言うように振る舞った。
「奥寺くんには決して言わないということを約束してほしい」
そう、固く、
「俺からは絶対に言いません」
誓わせて。
ぽつり、ぽつりと話し出したのであった。
ともだちにシェアしよう!