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番外編:冬に青い春9

* * * 「僕は昔から漫画や小説にかかわらず本が好きで、司書になりたいと思っていた時があってね」 「ししょ?」 「あ、聞き馴染みないかな? 図書館とかに置かれる専門職でね、簡単に言うと本の管理をする職業のことなんだけど」 「へぇ、そんなのがあるんですね」 「うん。とにかく本に携われる職業に就きたいと思ってて。司書になる為に、先輩司書の補佐を公共図書館でしていたんだ。それが七年前。――婚約者となる女性と会ったのも、その頃だった」  仕舞い込んだ記憶を掘り出すように、柏木の視線が一点を見つめ。だが動く口の端は懐かしいと言うように、弧を描いている。 「杏佳(きょうか)といって、可愛らしい女性だった。歳は彼女の方が一つ下で。図書館に来るのだから本が好きなのは当然なんだけど、本が好きという共通点を介して僕達はよく話すようになった。たぶん、好きになるにはそう時間はかからなかったと思う。将来を見据えてお付き合いをしたい。僕はそう彼女に伝え、彼女も了承して……くれると思った。だけど、彼女には断られてしまったんだ」 「……」  どうして、との問いを寸前で飲み込み目だけで問う。 「その時、彼女には婚約者がいた。彼女の家は裕福な方で、代々十六歳になると親に選ばれた人と婚約する慣わしのようなものがあるらくてね。もう杏佳には決まった人がいたんだ。それでも若かった僕は、その人から奪ってでも杏佳と結婚したかった。彼女以上に好きになれる人はこれから一人だっていない、そう思ってたほど、僕は杏佳を愛していたんだ。杏佳にとってその人は親に選ばれただけで、何の感情も抱いていなかったようで、僕が全てを(なげう)ってでも杏佳をお嫁さんにしたいと言ったらすごく喜んでくれて」 『――ユキくん、ありがとう』 「って、嬉しそうに笑ってた。彼女の婚約は破棄できるものじゃなかった。彼女の意思でどうこうできる環境じゃなかったんだ。僕とのことが露見したら、彼女がどんな目に遭うか分からない。だから秘密だった。付き合うことも、互いを婚約者だと認め合うのも。でもそれが楽しかったんだ、あの時は。二人だけの秘密。ちょっぴり刺激的で、いけないことをしているようで、僕達をよりドキドキさせた。……唐突にそれが終わりを迎えたのは、怒りの形相で彼女の本当の婚約者が目の前に現れてからだった」  思い出を語る風だった口調が、途端に重くなる。 「杏佳の態度が、婚約者に不信感を抱かせたんだろう。彼女に発信器と盗聴機を忍ばせて言い逃れられない証拠を突き付けた上で、彼はすぐ手を引くように言ってきた。そうすれば問題にしないって。杏佳は頑なだったけど、僕は迷った、迷ってしまった。なんだかいきなり、ずっと彼女のこんな小さな手を一生守っていけるのか不安になった。今手離して、本当の婚約者と結ばれた方が彼女の為なんじゃないか……。答えを待ってくれる様子じゃなかった。だから僕は、杏佳の手を離したんだ。最後に二人で話させてもらった時、杏佳は泣くのを必死に我慢しているようだった。この答えは仕方ないと、今思えば言い聞かせているようでもあった。僕は、僕の言葉を裏切り、彼女を裏切ってしまったんだよ。全てを擲ってでも彼女を愛したい。そう言ったのに、その言葉を守れなかった。きっと落胆しただろう。それでも彼女は僕の言葉を引き出して……“君をいつか、奪いに行く”……なんて気障(きざ)な台詞を吐かせたんだ。もちろん、そうしたい気持ちはあったよ。叶うなら、小さな手を引っ張ってどこか遠い場所へ……それこそフィクションのように、連れ去りたかった。でも僕はそんな勇気も絞り出せず……杏佳を手離した。杏佳と会ったのもそれが最後だ。それから一年も経たない内に彼女は婚約者と結婚をして、やがて子供を産んだらしい。彼女の友人が教えてくれた。たぶん、彼女から事情を聞いて気を利かせてくれたんだと思う。幸せであってくれ、と願わずにはいられなかったよ。だけど――彼女はすぐに亡くなったと聞いた」 「え」 「自殺、だったって」 「そんな、……っ」 「牧田さんは、彼女のお兄さん。だから牧田さんが僕を責めるのは必然なんだ。僕に誰かを愛する資格はないし、もうここにはいられない」 「ま、待ってください。どうして彼女の死が、柏木さんを責めることに直結するんですか……?」 「それを想像するのは簡単でしょう? ――彼女の遺書に僕への恨み辛みが書かれているんだよ、きっと。牧田さんは許さないと言った。彼女が死んだのは僕のせいなんだ。でも僕にはどうすることもできない。彼女に死を選ばせてしまったこと、彼女の手を繋いであげられなかったこと、その罪をどう贖罪(しょくざい)すればいいか、僕には分からないんだ。姿を消すことぐらいしか思い付かなくて……」 「…………」 ――白石に言えることはなかった。ただただ驚くばかりで、どんな言葉をかけるべきなのかも思い浮かばない。  淡々と語っているようだが、柏木の指は力を入れすぎて白くなり、肌に立てられた爪の回りには血が滲んでいる。我慢するように俯けられた顔が見えない分、柏木の感情がそこに全て出ているようであった。 「ごめん、白石くん。やっぱり僕は、」  ――それでも自分は柏木を引き留めなくてはいけない。 「行かないでください」 「……え?」  予想もしていなかった言葉だったのだろう。  柏木がゆっくりとだが顔を見せる。どこまでも痛々しい、表情を。 「それでも俺は行かないでくださいと言います」 「……」 「全然面白い話じゃなかった。知らなかったとは言え、強引に聞いてすみませんでした」  頭を下げる。 「そ、そんな白石くん、」 「でも」  柏木を見つめ、力強くその言葉を口にした。 「行かないでください、どこにも。奥寺に会わないなんて言わないでください。あいつはもう一度柏木さんに会えなきゃきっと……後悔するほど傷付く。――好きな人のそんなところは見たくないんです」 「……やっぱり、君は奥寺くんのこと」 「好きですよ。自分でも呆れます。このままアンタなんか放っておいて奥寺を慰めて、恋人の地位を得る手段もあるのかもしれません。でもそれじゃ嫌なんです。奥寺に選ばれたい」 「白石、くん」 「奥寺が選んだのはアンタなんじゃないですか」 「……」 「少しだけ、聞いてます。柏木さんの本当の気持ち。言ってあげてくださいよ」 「…………」 「奥寺の想いに応えろ、と言ってるんじゃないんです。ただ柏木さんが今どんな気持ちでどう考えているのか……奥寺が聞く権利はあると思います。好きだと伝えて返ってこない答えがどれだけ苦しいか……分かりますよね?」  好きだという想いが受け止められないのは本当に胸を締め付けて止まない。それでも好きだと何度も伝えてしまう自分が憐れで腹立たしく、諦めろと思うのにもう一人の自分が一僂(いちる)の望みにかけようと口煩く言ってくるのだ。最終的には後者に準じて、けれど受け止められないのは同じで、後悔にも似た感情を抱いては自分に腹立って……それを繰り返す始末だ。  苦しさや胸の痛みは、白石の身近なものとなっている。  柏木は知っているだろうか。  答えを待つ間がもどかしく、白石は思わず冷めきった紅茶に手を伸ばした。一口、飲む。  と、頃合いを見計らったように、柏木が唸るように言うのだった。 「僕には君を避けることができた。今だってこの場に君を残して出て行くことできる。でもそれができないのは、仕事を辞めてからもこの地を離れるのを躊躇っていたのは、このままじゃダメだと思ってたから。こんな僕を好きだと言ってくれた奥寺くんに酷いことをしたと思っていたからだ」 「じゃあ、」 「ちゃんと奥寺くんに会って僕の気持ちを伝えるよ」 「本当、ですか?」 「うん」  柏木がやっと笑う。苦いものだったけれど。 「大人げないよね、色んなことから逃げてちゃ。君がここまでしてくれたんだもの。応えなきゃ……嫌な人間では終わりたくない」  聞いて、白石は安堵の息を吐いた。  柏木が早速と腰を上げる。 「早い方がいいよね。奥寺くんは今、どこに――」 「待ってください。少し、時間をください」 「え……?」 「もう一つやりたいことがあるんです」 「やりたい?」 「少しぐらいいいでしょ? 一週間とは言いません」 「……でも……」 「お願いしますっ」  テーブルに額がつくほど頭を垂れ、ぎゅっと目を瞑る。  大団円を目指すなら、絶対やらなければならないことだった。 「困ったな」  しかし、柏木が呟く。 「もうここにある以外の荷物を実家に送ってしまったし、家もないんだ」 「は?」 「だって今日、出て行くつもりだったから……」  考えてみれば当然の返答である。  しばし見つめ合って。 「じゃあ……俺の家に来ます?」  なんでもすると言ってしまったこともあり、気付けば白石はそんなことを口走っていた。 * * * 「――そう。今日帰るって言ったけど、まだやり残したことがあるから。また日にちが決まったら電話する。うん、ごめん。父さんにも伝えて? うん。大丈夫。その為の延期だから。ん」  自分と話していた時よりも砕けた口調、雰囲気で電話をする柏木から少し離れた白石。  無事に柏木を引き留めることができたが、まだ彼はここを離れないと決めたわけではないのだ。彼はただ奥寺にさよならを直接告げる為に会おうとしてくれているのかもしれない。奥寺にとったら酷な状況を作り上げているのかもしれない。しかし、柏木がこのまま黙って奥寺の元を去るより、事態が好転したのは間違いないだろう。  そして次に待つのは、もう一つのやらなくてはいけないこと。もう一つの“問題”である。 「絶対、失敗できないぞ、俺」  暗示をかけ、白石は深く息を吸い込んだ。 「――白石くん、ごめんね。お待たせ。早く行こう」 「あ、はい」  どんよりとした雲の下、二人は歩き出す。些か大荷物を持った柏木は歩きにくそうだが、片方持つと言っても断られた為、白石は気にしてない素振りを保つ。奥寺の為、と言ってここまでしたが、自分の中では恋敵(ライバル)だ。深く馴れ合うつもりはない、と言いたいところだが、柏木の一見どこも隙がないような優男ぶりだが、弱点を探す良い機会を得ることができた。  それを柏木に悟られてしまえば元も子もないので、なんでもないふうに振る舞って街並みを見ていると、ふと思い出したように柏木が言った。 「そう言えば、もう一つのやることって何か教えてくれる? それと奥寺くんの現状。君は信じられないだろうって言ってたけど……何があったの?」 「……」 「白石くん?」 「やることは言えません。それと奥寺のことに関しては、柏木さん自身の目で見てほしいと思います」 「……そう」  小さく頷き、柏木が前を向く。  納得していないのは分かったが、白石の口から言うわけにはいかなかった。  誰が聞いているかも分からない道端という理由もあげるにはあげられるが、これはある種の企みなのである。企みを他人にばらすのは、失敗への一歩だ。そんな一歩を踏み出すわけにはいかない。 「必ず早く決着をつけます。時間はないと自覚してるので」 「うん、助かるよ」  澱みのない返事が、白石の心裡(こころうち)に溜め息を生ませた。  ――奥寺、どうか最後の線は越えないでくれよ。

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