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昨日 -1

 職場からマンションまでは車で30分とかからない。  僕は、必要があるとき以外はまっすぐに帰宅することにしている。  不要な人混みを避けたいのと、退屈な時間をダラダラやり過ごすことに長けている輩と違い僕には家でやるべきことがあるからだ。  昨日も“会社”から仕事の依頼が来ていた。期限までには時間があるが、仕事はさっさと片付けてしまいたい。  エレベーターを降り、清潔で安全な我が家へ向かう。  ドアに鍵を差し込んだ、そのとき、 「イーズミ、さん」  背後からあどけなさの残る、少しかすれた、甘い少年の声。 「…カイトくん。」  いつの間にかすぐ後ろにカイトがいる。 「カレー好き?」  カイトはいきなりオレンジ色の保冷バッグを突き出してきた。 「作ってあげる。僕、うまいよ。」  ブレザーの学生服を着ている。僕を見上げる、くるりとした黒目。 「…ひとり?」 「そう、今日はね。体だって健康!」  カイトはその場で2回ほど跳ねてみせた。「ね!」 「待ち伏せ?」 「なにそれ違うよ、たまたま通りがかったの。泉水(いずみ)さんにはいつもよくしてもらうから、たまにはお礼でもと思って、「なんでひとりなの?」 「…だから、たまには 「先輩は?」  カイトは無駄にハシャぐのをやめて、憮然とした。 「…いいじゃん。早く入れてよ…。」 …まずいな。僕の大嫌いな面倒ごとだ。 「やだ。」  ドアから鍵を抜いて、カイトの前に威圧感を持って立つ。 「家出でしょ。僕がまず嫌いなのは生きた人間で、その次に嫌いなのが面倒ごとなので、両方を持ち合わせてる今現在のキミは、僕の部屋に入ることはできません。」  引き下がるかと思ったら、カイトは少し笑ったので意外に思う。 「泉水さんらしい反応だね。」 ……。  なんなんだ、このコは。 「キミは嫌いじゃないけど、キミの叔父さんに関わりたくない。悪いけど帰って。」  カイトの目がヒラッときらめく。 「やっぱり!泉水さん、絶対嫌いなんだと思った、あの人のこと。」 「カイトく」  カイトはいきなり、ぐん、と近づいてきた。 「いいから、早く入れてよ…。…もう、僕ら、仲間でしょ。」  いや違うし。それ以上近づかれると困るんだがな。  しかしカイトの黒目が真剣に僕を見るので、逆にこっちが気おされてしまった。 「これ買うのだって、すげー勇気出したんだよ…だから、カレーだけでも、作らして。」  くちびるが少し震えている。ここまで逃げては来たものの、佐東に見つかるのではないかと怯えている。 「…事情を話して、警察か児相に保護してもらえば?」 「事情?…僕が話すの?…何を、どこまで?」  カイトは目を伏せた。 「…無理だよ…。」  ふうん。  思春期の少年が、被害者とはいえ自分からアレコレと痴情を晒すのは耐え難いことなのか。  いや、佐東から、知らず知らずにそういう洗脳を受けているのかもな。  僕が黙っていると、カイトは続けた。 「…泉水さんは…僕の秘密を知ってる唯一の人だし、それに、僕…」  カイトがそこまで話したとき、廊下の向こうでエレベーターが開く音がしたので、カイトは弾かれたように音がした方向を見た。同時に左手が伸びて来て、僕は突然腕を強く掴まれる。  佐東かと思ったんだろう。エレベーターから出て来たのは、佐東とは似ても似つかない小柄で髪の長い女だった。一瞬だけ僕らを見て軽く微笑みながら会釈をし、エレベーターからすぐのドアにそそくさと消えた。 「ちょっとカイトくん…」  腕を振りほどこうとしたがかなり強く握られていて離れない。  カイトは僕の呼び掛けに応じないまま振り向く。殺気立ったような、泣き出しそうなその目に、僕はまた調子を狂わされる。まるで澄んだ眼光に射抜かれたようだ。 「…入れてよ…」  さっきより深刻そう。だが僕は優しくなんかしない。 「手、離してよ。あ、」  業を煮やしたのか、カイトは僕の手から鍵を奪い取った。 「あーちょっと。あー。あー。」  カイトは僕の腕を持ったまま片手でドアの鍵を開け、引っ張られて僕も家の中に入る。カイトはまた素早くドアに鍵をかけた。 「あ~あ。もー悪い子だなキミはー。そういう強引なとこ、先輩にそっくり。」 「だって今にもあの人が来そうだったじゃん!」 …おやおや。怒った顔にもそそられるな、このコは。 「それに似てるとか言わないでよ全然似てないし!」  つかまれていた腕を叩くように振り下ろされる。  僕が何も言わないでいると、カイトははっとしたように僕を見上げて、 「…ごめんなさい。」 と、自分の態度に今ごろ反省した色を見せた。 「…ええと、お邪魔、します…。」  靴を脱いで上がろうとしている。待て待て待て。 「まだ家に入れるとは言ってないです。」  カイトが泣きそうな顔になる。ころころと表情がよく変わる。 「え、ダメなの?」  当たり前だろうが。 「だってキミ、清潔じゃなさそうだから。」  よく見ると、制服のシャツはヨレヨレだし、革靴も汚れている。 「いつから逃げてるの?」  カイトは観念したように、僕から目をそらして下を向いた。 「…昨日、の放課後から、家に帰ってない…。」  げ。 「じゃあ昨夜はどこに泊まったの?」 「…川べりの、橋の下のでかい下水道のすみっこ。」 「(きた)なっ!」  言われてみれば少し下水臭いかも!  ああ!なんてモノが転がり込んでしまったんだ! 「だってどこに行ったってあのひとが来そうで 「それ以上動いたら駆除するよ!」 「泉水さ 「動くな!」  慌てて奥のリビングに行き、先ほど掴まれたシャツを脱ぎ捨てる。  ああ!鍵とドアの取っ手も消毒しないと!  だがまずは“元凶”をどうにかすべきだ。  恐る恐る玄関をのぞくと、カイトはじっと玄関に突っ立っていた。  よく見るとボロボロと涙をこぼしている。 「泉水さ…ん、僕、行くとこ、ない…っです。」  うーわ。制服の袖で顔をぬぐったな。 「泊めてください…外、は、怖くて眠れないし、補導されたら、また連れ戻っ、さ…さ、れちゃうよ…」  細切れに話すのは嗚咽が止まらないからだ。  だがしかし…そんなことより! 「触るなよ、どこにも。」 「…え?」 「回れ右して、帰ってくれ。悪いけどこの僕は、不潔な雑菌が大嫌いなんだ。」  カイトは不思議そうに僕を見た。言ってることがわからないのか?きょとん、とした目をして、泣くのをやめた。 「…泉水さん。」  カイトが右手を壁に伸ばす。 「だ!ちょっと!駄目だって言ってるでしょう!頭が悪いのかキミは!嫌いになるよ!」  カイトは壁から手を引っ込めてくれたものの、あろうことか、今度はクスクスと笑い始めた。…おかしくなったのか? 「…上がっていい?」 「駄 「今日は一日中、ここのマンションの階段の踊り場で泉水さんを待ってたんだよ。だから僕、疲れてるんだよねー。しかもろくに寝てないし。」 「知らないよそんなこと。」 「…上げてくんないなら、ここで寝ちゃおっかなあ。」  カイトがにやりと笑う。 …なんてことだ。僕を脅迫する気なのだ、このコは。  僕が、彼に近づくことも出来ないことを計算ずくで言っている。  涙もまだ渇ききっていないくせに、カイトは、今度は挑発じみた表情で僕を見ている。…ああ。 (どうあがいても、絶望。) 「…わかったよ。僕の負けだ。」  カイトは小さいガッツポーズを作った。 …これは、近年稀にみる最悪な事態だ。 ----------→つづく

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