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昨日 -2
「…そんなんで体洗ったら肌、荒れちゃうよ?」
「あんまり喋らないでよ。空気が汚れる。」
「ひどっ」
「歯も磨いてね。いつもキミがやってる以上に丁っ寧に。」
「…ひひ」
カイトがイタズラっぽく笑い、手を伸ばしてくる。
「…だーかーら!」
浴室のドアの向こうまで引いてその攻撃を避けると、カイトは無邪気にケラケラと笑う。
「そのマスクとゴーグル外したらどうなんの?死んじゃうの?変だよ泉水 さんって!」
「…自分で体を洗わないなら、縛りつけて動けなくしてから僕が拭いてあげてもいいんだよ?先輩に連れて来られたとき、いつもしてあげてるみたいに。」
仕返しに少し意地悪を言うと、カイトはムッとして口を尖らせた。
「なんだよ、僕にさわれもしないくせに!」
表情を、よくもまあころころと、そんなに器用に変えられるものだな。
「手袋の上からなら、なんとかさわれる。」
「…絶対変だよ、泉水さん。」
今度はぼうっとしたような、睨んでいるような、変な顔をして僕を見る。呆れているんだろう。
「制服はここに入れてね。」
「ってそれゴミ袋じゃん!捨てんの!?げえ!僕の革靴がもう入ってんじゃーん!」
「…うるさいなあキミは。このままクリーニングに持って行くだけだよ。」
「…そんなに汚いかなあ。」
顔をしかめてブツブツ言っているのを放って、廊下の“除菌”に戻ることにする。
去り際に、「ちゃんと洗ってよ」 と念をおすと、
「洗います!『ミューズ』でね、『ミューズ』!ばっかみてー。雑菌とかバイキンとかどこにでもいるよ、どんだけ自分のこと清潔だと思ってんの…」
と、またうるさくするのですぐにドアを閉めた。
+++
面倒ごとに巻き込まれるのはゴメンだ。しかも相手は佐東。
連絡をとることすらおっくうになる相手だというのに、今回のような前例を作ってしまえば、今後、カイトが家出をするたびに僕の家が探索リストにあがることになる。かといってこの程度のことで警察沙汰なんて、もっとゴメンだ。
パソコンの画面に向かって舌打ちする。“仕事”も遅々として進まない。
(やっぱり追い出すべきだ。)
カイトには自分の意思でこの家から出て行ってもらわなければならない。
さて、どうするか ――
作業中は集中力を高めたいのでリビングの照明は一番暗く設定しているが、遮光カーテンの隙間から入ってくる冴え冴えとした月の光でさえ先ほどからやたらと目に引っかかってくる。今夜は満月らしい。
「泉水さん。」
「!」
突然、首筋に、なま温かいものが触れて体が硬直する。
何かが首に巻きついて来たのだ。
カイトの腕だった。
「――キレイになったよ。ホラ。」
耳元のすぐそばでカイトの声がする。
「…離れろよ。」
そう言うのがやっとだった。カイトはすぐに離れたが、離れてからもしばらくは、カイトの生あたたかくしっとりとした体がまとわりつく感覚が残る。
「泉水さんって、なんかいい匂いがするね。ミルクみたいな。」
僕が何も答えずにいると、カイトの顔がまた近づく気配。後ろからパソコンの画面をのぞきこんできているようだ。
「勉強?むつかしそうだね。続けてていいよ。僕、カレー作ってくる。あ、肉とか冷蔵庫に入れてくれた?…まさか、捨ててないよね。」
僕が未だ黙したままなので、カイトはようやく、僕の機嫌をかなり損ねてしまったことを察知してくれたようだ。
「…驚かして、ゴメン。」
と、少し顔を離して、すぐ後ろで怯えた声を出した。
しかしすぐに明るい声色で、
「触られるの、いやなんだ?それ、僕と同じ!」
と言った。
「パジャマ貸してくれてありがと!かなりぶかぶかだけど、気をつけて汚さないようにするから。」
カイトがキッチンに向かう気配を背中から感じとると、やっと体から力が抜けた。
人に触られるのは、大嫌いだ。
拒否反応が強すぎて思考もストップしてしまう。
これが佐東だったら、瞬時に拳か肘を顔か腹にめり込ませていたところだ。
人間はある程度成長すると、無用なトラブルを回避するためによほどの信頼関係でもなければ他人に直接触れるなどという軽率な行動は避けるようになる。
だが、佐東は別。そして、あのコも、今の行動からすればそういった知恵や経験値とは無縁なのだと推量できる。
ああ。それともそうか、佐東の血筋か。
(――いや、いかん。イライラしておるぞ、僕。)
こんな感情に支配されるなんか時間の無駄だ。
目を閉じて深呼吸をし、気持ちを流してパソコンの画面へ向かった。
そうすると、今度は妙なことが気になってきた。
そこでもう一度、カイトが触れてきた場所を右手で触れてみる。
変だ。
急に驚かされたのでムッとはしたものの、いつもの、薄い金属を噛んだときのような“ざわつき”や肌が疼く感じは、無かった。
なぜかな。
(…―― もしかしてあのコなら、)
僕の中に、僕らしくない馬鹿馬鹿しい考えが広がりそうになった、そのとき、
「うわ!なにこれ!冷凍庫にスゲー量のミルキーがある!なんかの景品?なんで冷凍庫なんかに入れてんの?」
キッチンからカイトの声が飛んできた。
対面式のキッチンの照明がつき、背後から白々とした光が差す。
「泉水さんお米はー?てか炊飯器も見つからないんだけど!」
「…無いよ、そんなの。」
「げーマジかよ!じゃカレー作っても食べられないじゃん!」
「…うるさいな…」
「じゃあパンは?泉水さんってパン派?」
「…うるさい!無いよパンも!」
ケホッケホケホッ ――
…ほら。久しぶりに大声なんか出したから、咳き込んじゃったじゃないか…。
(…いや。) 待てよ。
手の甲で額に触れてみる。
「あー、あった!冷凍室にカッチカチの食パン袋!てか泉水さん普段なに食って生きてんのー?…まさか、ミルキー?」
(…大丈夫。) そんなはずない。
やっぱり大声のせいだ。…なにしろこうしてまともに人と長く言葉を交わすこと自体が久々だから、つい神経質になってしまうんだろう。なんだか調子が狂ってしまうのもそのせいか。
「ミルキー1個もらいまーす。もー腹減って死にそうなんす!とりあえずパンも一枚もらっていい?カレーもすぐ作るからさ!あとこのイチゴミルクも、1パックもーらい。」
――…ぷっ
つい吹き出してしまった。
少し前に見せた反省した様子とはあまりにも真逆の、すっかりご機嫌になった能天気なカイトをおもしろいと思ったからだ。
そして思い出した。
1年ほど前に彼が初めてうちに来た時にも、僕はカイトの様子に笑みをこぼしたことがあった。
…そうだったな。まだ子どもなんだ。あのコの軽はずみで安易な行動に、いちいち目くじらを立てることもないだろう。
(…にしても、)
人間嫌いの僕が、カイトの存在をおもしろおかしく思うなんて。
(…変なコ。)
…あまり興味を持たせないでもらいたい。
(興味を持ってしまうと、…僕は――)
「トースターないからグリル使うねー!知ってた?魚焼きグリルってパンも焼けんだよ!!僕って物知り~」
トーストを食べているらしい間は、カイトの口は静かになった。
------------→つづく
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