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昨日 -5

 ばふ、と、カイトはクッションに向かって後ろ向きにひっくり返った。  天井を向いたまま、位置を調整しているのだろう、しばらくモゾモゾとしていたが、ようやく収まりのいい位置を探りあてたらしい、鼻から大きく息を吐いてじっとした。  その様子も、小動物のようで実に愛くるしい、などと思ってしまう。  暗いリビングの照明のもと、ときおり頬とあごを動かし、口の中の飴を静かに転がしている。  と、カイトは今度はひじを折り曲げ、飴の包み紙を細い指の先でひろげ始めた。目の前でペリペリと小さな音をたてながら伸ばし始める。模様を眺めているんだろう。 「…そんなとこで寝ると腰痛めるよ?」  チェスターフィールドの革ソファは座り心地は悪くないが寝るには少し硬いのだ。(…僕は慣れたけど。) キミらがたまに僕の寝室を占領してくれていたおかげで。 「若いですから平気なんです。」  もう先ほどまでの怯えたふうなカイトはいない。  ようやく落ち着きかけていたのに、カイトはまたゴソゴソとし、ソファの上で体ごとこっちを向いた。相変わらず口のなかで飴を転がしながら、大きな黒目で僕を見る。 「…なんでくすぐったいか、わかった。」  カイトは、 「泉水さんの顔が、きれいすぎるからだ。」 …と、突然、妙なことを口走った。 「きれいだよね、泉水さんの、顔。」 「…なにそれ。」 「ひひ」 …本当に、変なコだ…。  キミの仕草は、いちいち僕の本能を掴む。でも。  駄目なんだけどな。僕には別の効果が生じてしまう。 「キミの叔父さんの顔もきれいだよね。叔父さんに見られても、やっぱりくすぐったくなるの?」  ほらね。まずは、つい、いじめてみたくなる。  すると、カイトは、これまた素直にむくれた顔をした。 「…あんなの、きれいなうちに入んないよ。」 「よく見ると怒った顔が似てるかもね。」  カイトは今度は黙って僕を睨んだ。観賞していて飽きない。 ――クククッ  悪いとは思いつつカイトの反応が面白くて押し殺しながら笑うと、ソファで寝そべっていたカイトは突然、弾かれたみたいに起き上がり、そこから飛び降りると同時に僕に向かって猛然と突進してきた。 (あ、殴られるのかな?) と、思って見ていたら、 「…っ!」  タックルでもされたのかと思ったが、カイトはそのままの勢いで僕に、 ……抱きついてきた。  肘掛が机にぶつかり音をたてる。  思考が停止しかけるが、ふと首筋に温かいものが触れて、それが舌だとわかった途端とっさに右手が動いた。  カイトが背中から床に転がる。 「…けほ」  あ。  まずい。カイトのどこかを思い切り突いてしまった。佐東とは違う、あんなか細い体を。  カイトはうつむいたままゆっくり上体を起こし、胸のあたりをさすって、それから僕を見た。  怒っているか、それとも痛がって泣いているかと思ったが、カイトの顔には意外にも挑発的な笑みが浮かんでいる。 「…イジワル返し」  カイトはそう言ってもう一度咳き込んだ。 「…大丈夫?」  念のため確認してみると、今度は、はっきりとした笑顔でこちらを仰ぎ見た。 「…やっぱり優しいね、泉水さん。」 「は?」 「さっきのは僕がやり過ぎたんだ。でも泉水さんは僕を心配してくれてるでしょ。だから。」 「…優しいひとは、普通、やり過ぎた誰かを殴ったりはしないし、だいいち意地悪も言わないと思うけど。」  だがやはりカイトは嬉しそうに笑っている。僕から殴られたというのに、そんなことは佐東と暮らしている彼にとっては大した問題ではないのらしい。  カイトは立ち上って寝巻きをポンポンはたいた。 「ごめん。ヨゴしちゃって。」 「…着替える?」 「違うよ、泉水さんのこと。ヨゴしちゃって、ごめんなさい。」 「…ああ。」  首筋に触れたカイトの柔らかな舌の感触。  カイトは再びソファに帰り、寝そべると、今度は僕のほうを見て、 「勉強してていいよ。眠くなったら寝るから。」 と言った。 …妙な気分だ。  直接触れられたのに、やはり嫌悪感や悪寒は生じていない。つい突き飛ばしてしまったが、自己防衛本能が働いたためだ。 …こんなケースは、初めてかもしれないな。  やや考えてから、僕は、少し、彼との距離を縮めてみたくなった。 「――駄目なんだ。」 「えっ?」  ソファの上で再び眠りに入る準備に取り掛かっていたカイトは、僕のつぶやきに反射的に顔をこちらに向けた。 「こう見えても繊細な体質でね。僕は人に触られると体調が崩れる。」  おそらくは極度の緊張からくるものなんだろう。だが事実だ。人に直接接触すると、僕の体は拒否反応を起こす。悪寒や頭痛がして、ひどいときには本当に熱が出る。  “人間アレルギー” …と、僕はこの体質のことを勝手に命名した。僕が人間嫌いを自称するゆえんでもあるのだが、この体質をありがたいと思ったことはない。 (――もしかして。)  このコから触られても嫌な感じはしなかった。ということは。 (…キミは、僕を、救ってくれる?)  僕はどうやら、カイトに対して少しばかりの期待を抱いてしまってるようだ。 …いや、これ以上は、禁物。 (なぜならアレは、佐東のもの。) 「…だから、(さわ)られるのは嫌い。わかった?」  カイトは僕を見たまま神妙な顔つきをしている。  やがて口を開いた。 「……大変だね…。そんなの、さみしくて、たまらないよね…。」 (……。)  え、いや別にそれはないんだけど。 「ごめんね、触っちゃって。明日熱が出たら、僕、看病するよ、泉水さんのこと。」  いやいやいや、けっこうなんだけど。 「てか明日もいる気なんだね。」  カイトは『げ』という顔をした。 「だって泉水さん、僕の制服、ゴミ袋に入れちゃったじゃん。なに着て出てけっていうの。」 …そうだった…。僕としたことが、あのときは完全にパニクっていたからな。  制服はあのあとすぐにクリーニング店に持って行ったから、少なくとも明日の夕方までは引き取れない。つまり、それまではカイトを追い出せない。 「…泉水さんに迷惑をかけないように、気を付ける。だから今夜はもう少し、ここにいさせて。」 「……。――勝手にしろよ。」  カイトの目がまたキラキラとした光を放つ。 「うん!」 -----------→つづく

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