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過去
僕には狂人の兄がいた。
とは言っても上級生たちとは真逆のタイプで、僕を守ろうと必死になるのはいいが加減がわからず、結果、過剰防衛して問題を起こしてしまうような狂人。
彼が原因で入所施設を追い出されることが多々あった。
なにしろ僕が少しでもぶたれたりすれば、理由や相手に関わらず何処にいようが駆けつけて来て、その何倍もの『お返し』を、頼んでもいないのにしてくれるのだ。
僕は兄がきらいだった。
僕より常に優位に立ち、僕を弱いものと決めつけ、そんな僕を救うことで自分だけの正義に酔いしれている。
この突拍子もない乱暴者の兄のおかげで僕には友達もできず、おかげで毎日孤独を感じながら過ごさなければならなかった。
僕は、暴力という問題に対して暴力という方法で立ち向かう兄を、ずっと疎ましく思っていた。
教えてやりたかった。そんな方法で解決したって、僕は幸せになんかならない。
僕から自尊心を奪い、僕を孤独にしているあなたは、僕からしてみれば加害者のうちの一人に過ぎないのだと。
しかし、最後の施設で上級生たちに遊ばれるようになると、僕は、次第に兄に期待するようになっていた。
はじめのうちは今度こそ自分で何とかしてやろうと思っていたのだが、多勢に対してひとりの、しかも脆弱な僕なんかの力では、すぐに押さえつけられ、服従させられて終わりだということをいやというほど思い知らされた。
復讐してやりたかった。
兄に、彼らを懲らしめてもらいたかった。
…だが、それでも、自ら兄に助けを求めることはしたくなかった。
求めたところで勝手に暴れられて施設から追い出されるだけなのは目に見えている。それでは今までとなんら変わるところはない。そればかりか、これまでの兄の行動を僕自身が肯定することになる。
苦しめてやりたかった。僕は、兄も。
そして僕は、上級生や兄に復讐するためのある素晴らしい方法を思いついた。
僕が遊ばれているまさにその現場を、兄に押さえてもらうのだ。
兄は感が鋭かったので、きっと僕が何も言わなくてもこの悲惨な現実にすぐに気づいてくれるに違いない。
上級生たちは驚いて火が付いたように逃げ惑うだろう。怒りに狂った兄ほど怖いものはないから。自身のことなど顧みず、辺りのものをみんな武器にして、強い奴から順番に攻撃し、確実に潰れるまでやめない。
やがて兄は、勝利と引き換えに思い知るのだ。自分の非力さを。
僕がこうまでされてもあなたに直接助けを求めなかったのは、あなたのやり方が気にいらなかったからだ。
兄の暴力に、僕が逆にどれだけ怯えていたか。
どれだけ僕が、あなたのことを信用していなかったか。
…むしろ、どれだけあなたを、きらっていたかを。
それを知ったとき、きっと兄は、自分のおごりにようやく気づく。
そうして自分が傷つけた上級生たちや僕以上に、激しく傷つくことだろう。
時間が出来るとよくひとりで学園の裏庭にある飼育箱のウサギを見に行った。
何も言わず、ひとに媚びることもないウサギが好きで、学食で食べきれなかった野菜や果物を与えたりしていた。
そのころ僕は上級生の一人の操原 という人間にやたらと付きまとわれていた。
『僕だけのものにならないか?――そうすれば、僕以外の誰にも君には触れさせない。』
――(何を言ってるんだ。僕は誰にも触れられたくない。)
それとなく避けていたのだが、ある日の放課後、いつものようにウサギの様子を見に行って、操原に後ろから襲われた。
『今日こそみんなの前で、君が僕のものだって誓ってもらうから。』
ねじ伏せられ、その場で受け入れさせられそうになった。
操原は思いつめたふうな、血走った目をしていて、明らかに正常とは思えないその様子に怖くなった僕は、ついに悲鳴をあげながらそこから全力で逃げ出した。
奴が追ってくる。
このままでは、僕の意思とは関係なく、僕は本当に奴のものにされてしまうかもしれない。
学園ではなくまっすぐに寮へと向かった。兄の部屋を目指した。
他の上級生に見つかれば面白半分に追い込まれてしまうだろう。僕は怖くてたまらなかった。
もう兄を“待って”なんかはいられない。いや、もう十分待った。もうこれ以上は耐えられない。自分から救いを求めなければ。今日こそ、こいつらに鉄槌をくだしてもらって、これまでの恐怖と屈辱から、手を切る。
―― お兄ちゃん!
兄の部屋に飛び込んだ僕は、愕然とした。
そこに、兄がいなかったから。
『…君のお兄さんは、今、痴話喧嘩をなだめに校庭あたりにいるよ。』
追いつかれて、腕をまわされ、奴の体を押し付けられた。
心臓が、破れそうなくらい痛かった。
『君、ときどき、意識を失う前に“お兄ちゃん”って叫ぶんだ。…気づいてた?』
校庭での痴話喧嘩は、操原が仕組んだものだと告げられた。兄は、操原の策略にまんまとはまっていた。でも奴が仕組んだのは喧嘩だけで、兄は勝手に仲裁役を買って出ていったのだという。
『正義感が強いからね、彼は。校庭の連中には、30分はもめて欲しいって言ってあるから。』
…僕だけを守ってくれているのだと思っていた。
いつも、僕のことだけを考えているものなのだと。
そのせいで問題ばかり起こす兄の存在を、疎ましく、不愉快に思っていたはずなのに。
兄は、いつの間にか、みんなのものになっていた。
僕だけのものでは、なくなっていた。
―― どうした?
僕だけを見ているはずの、兄の幻影。
僕を心配そうに見て、手を伸ばしてくれるはずだった。
僕はそのとき、はじめて気づいた。
僕が、兄を、どれだけ頼りにしていたのか。
今までは、いつでもそこにいてくれたのだ。僕が助けて欲しいときには、必ず。
だが、いつの間にか兄は、僕の知っている兄ではなくなっていた。
――(僕の声は、届かないんだ。)
もっと早く、特別室でのことだって気づいて欲しかったのに。
僕の危機に気づくどころか、兄は、僕以外の人間を助けに行っている。
しかもそれは僕のために仕組まれた罠で…兄は、そんなことにも気が付かない、ただの凡人だったのだ。
きっと今ごろ、自分の偽善を貫いて、あがめられ、自己満足して、いい気分になっている。
…兄の無能さにも、失望した。
この世は非情だ。
…いや、無機質で、空虚だ。
僕のためにあるわけじゃない。でも、誰かのためにあるわけでもない。
味気などなく、あまりに、…無意味。
せめて僕は、自分の力で汚らわしいその腕から逃れようと抵抗を始めた。体を動かし手首に噛みつき、操原を振りほどこうとした。
が、そのことに激昂した操原は、僕を再び床に押しつけて、今度は僕の首を締め始めた。
『言うことをきけよ…』
この世界に失望しきった僕は、そのとき、このまま死ねるならそれでもかまわないと思った。
どうあがいても、この世界は、僕なんかに希望は与えない。
そんな世界、どうでもいい。
苦しかったが、抵抗はすまいと決めた。
僕の骸は、兄への良い反省材料となるだろう。
…なのに奴は、途中で僕の首を絞めるのをやめた。
それどころか、僕の目の前で泣き始めた。
『君は、死んだほうがマシだっていうのか!?僕を受け入れるより!』
そのとおりだ。
だが操原は、なにをもって興奮してしまったのか、今度は咳込み続ける僕に覆いかぶさり、愚かにも兄の部屋で下品な行為を再開した。
『僕のものになるんだ…。君は、僕のものだ…!』
――(ほらね。死のうと思えばその希望すらも断ち切られ、さらに辛いことが待っている。)
絶望し、抵抗もせずされるがままになっていると、そのうち体が楽になり、そいつが行為をやめたことがわかった。
朦朧とした意識の向こうで、操原のうめき声と、肉が何度も蹴り上げられる重たい音を聞いた。
ようやく戻ってきたのろまな兄が、操原に対して遅すぎる報復を果たしたのだった。
僕の自我は、すでにぼろぼろになっていた。
結果、操原は病院送りになり、兄も、少年鑑別所かどこかに連れて行かれた。
そのあとの数日間は、さらに地獄だった。
大人どもは何があったのかを僕から無遠慮に聞き出したがり、捜査資料だかなんだか知らないが、僕は裸にされて何枚も写真を取られた。
「可哀想に」――
同情の声をかける大人もいたが、今、あんたたちが僕にやっていることにだって僕は傷ついているのに、どうしてそれがわからないのか。僕は虚しい気分になった。
大人たちが去ると、今度は上級生どもがやってきて、病院送りになった操原への復讐のためという大義名分で、日ごろのうっぷんを思う存分僕で晴らした。
操原が帰って来ることはなかったが、兄は保護観察処分となっただけで数日後には帰って来た。
が、もう僕は、以前のように兄に接することはしなかった。
すべてを受け流しつづけ、ひたすら、笑顔で過ごした。
この世には、どうあがいても、絶望しかない。
それを受け入れると、世界は辛くても、心は不思議と楽になれた。
僕は、ウサギだ。
鳴きもせず、誰にも媚びず、ひっそりと、ただ静かに時をやり過ごす。
くだらない僕の自我にも、意味なんかは、ない。
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制服はクリーニングに出したままだったので、カイトの着替えは佐東に持って来させていた。せっかちな佐東は車の中で着替えさせるなどと言っていたが、結局、僕の寝間着を剥がした時点で“お着替え”を中断し、カイトは裸のまま佐東の膝の上で凌辱される羽目となった。
-----------→つづく
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