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現在 -8
――シャッ
佐東はわざとカイトのいる付近を避け、カーテンを中央から軽く割った。
「…や…やだ…来るな…来るな…」
カイトの怯えた声はきっと佐東にとっては蜜も同然だ。
よくは見えないが、その顔にはきっと、悪魔のような甘い微笑が浮かんでいる。
重たいカーテンの下からちらりとカイトの手が見えた。
細い指が絨毯の上で震えているのがわかった。
「おー、夜景、きれいじゃないか。海まで見えるぞ。なあ?」
佐東はそう言ってカイトを見たので、佐東の整った横顔が暗闇に反射して映りこむ。
ほら。おそろしく残忍で、魅惑的な笑顔。
「…ここでするか?夜景見ながら。」
佐東はゆっくり動き、カイトに近づいてゆく。大きな体が灰色のカーテンの向こうに消える。
「いやだっ!く、来るなっ!」
カーテンの向こうの、もうひとつの影が、激しく揺れながら後退する。
「大声出すなって。……なあ、飛ばしてみたくないか?この夜景に向かって。」
佐東は少し立ち止まって、自分の言ったことに対して吹き出した。
「そういうのどうだ?泉水ぃ。」
「僕から見えそうにないんでパスです。」
佐東は、あはは、と、今度は声をあげて笑った。
「…だってさ、カイト。じゃあ戻ろうか。」
「…!」
佐東が近づいてきたので、後ずさりをつづけていたカイトはついにカーテンのはじからこぼれだし、壁の前に躍り出た。
目線は佐東をとらえているのだろう、かなり上の方を向いている。可愛そうに、その横顔は恐怖で引きつっていた。
悪魔のような佐東を見た後だったので、無垢なカイトの横顔は余計にいじらしく感じられた。
「…ちくしょう!来るなっ!変態野郎!」
カイトがかすれた声で汚い言葉を吐いたので少し残念な気分になる。
次にカイトは、甲高い小さな悲鳴をあげて身をのけぞらせ、そのまま寝られるくらい体勢を低くした。
カーテンから佐東の手が伸びてきたのだ。
と、カイトはすばやくその体を反転させ、足で絨毯を蹴ってそのまま這うようにカーテンから離れた。途中、立ち上がる直前に佐東の手がカイトの足をかすったが、とらえることはできなかったようだ。
カイトは駆け出そうとして、いきなり目の前にあった観葉植物にぶつかりそうになり、とっさにそれを佐東に向かって鉢植えごと倒した。
佐東の足元に倒れこむ鉢植えを一瞬確認したのは、純真な心が佐東ではなく植物のほうを気にかけたから。
それからこっちを振り向くと、ふと、僕と目があった。
するとカイトは、今度はこっちに向かって一直線に走ってくる。回り込んだほうが早そうなものを、目の前のソファを軽々と乗り越え、その先にあったローテーブルも飛ぶように越えた。
カイトはそこでまた佐東の方を振り向いて、いったんしゃがみこむと、勢いをつけてテーブルを佐東に向かって投げ倒した。動きがあまりにも素早いので驚いた。それにしてもよほど動転しているんだろう。どれも有効な対策とは言えない。
カイトはまた僕を見ると、もうひとつのソファを、やはり身軽に乗り越えてくる。
必死の形相だ。ついにベッドのそばまで来て、そこでまた佐東を振り返った。
観葉植物をまたいでいた佐東はローテーブルが倒れた音に顔をあげ、そこでカイトがすでにベッドのそばまで戻って自分を警戒しながら荒く息をしているのを確認すると、「はっえ」と言ってまた笑った。
カイトがソファを超える瞬間そこに仕掛けていたカメラが激しく揺れたようだったので、不具合が生じていないかパソコンの画面を一度確認する。
支障ないようなのでまた前を見ると、カイトがベッドに乗って這いつくばりながら僕のほうへと向かってきているところだった。
一瞬ベッドの上に散乱した“おもちゃたち”に目が留まると、その顔はさらに引きつった。動きはますます早くなり、殺気立った目で僕に向かってまっすぐに前進してくる。
今度こそ殴られるのかな?と思いながらその様子を見ていると、カイトはついにベッドを降り、四つん這いのまま突き進んできて、僕の目の前でひざまずいた。
大きな黒目が僕を見て、カイトは、僕に向かって手を伸ばしてくる。
両腕をつかまれる。
僕に何かを訴えようとしているようだ。そのあまりに必死で可憐な様子に、僕も膝の上のパソコンを静かに閉じ、カイトの声に耳を澄ましてあげることにする。
「…たすけて…」
カイトは、ごく小さな声で僕にささやく。
「…たのむから…あいつをとめて…あんなやつと、つながりたくない…っ」
…僕に、助けを?
キミを裏切った、この僕に?
だがカイトのその目は真剣そのものだ。僕の袖を掴むカイトの華奢な指先が細かく震える。
「ぅおーい、壊す気かよホテルの備品を~。」
佐東はまだ向こうにいて、ぶつぶつ言いながらテーブルを元に戻している。カイトはすばやく佐東を振り返り、また僕を見た。
「…おねがい…!…あんたにならなんだってするから…!」
演技なのか真意なのか。だがいずれにせよ、カイトが僕に何らかの期待を抱いているのは確かだ。
そして僕は、けなげなカイトのこの様子に再び心を奪われていた。
佐東からの陵辱を逃れるために、必死で僕に媚びようとしている。
この期に及んで僕しか頼れる人物がいない。
薄氷の上に、無防備なまま降りたとうとしているようなものなのに。
…僕に、一縷の望みを託したいのだ。
わかっていても、信じたいのだ。
降りたつ先にある小さな船が、水鳥の羽で出来ているかのように、自分を優しく包み込んでくれることを。
…そのカイトの希望のうえに、僕の、キミが佐東に凌駕されつくすことを期待しているという悪辣な現実が、今、まさに重くのしかかろうとしている。
カイトは息を震わせながら僕の目だけをじっと見た。
頬に幾筋も涙の筋が出来ていて、それらは薄暗い照明を反射してきらきらと輝き、その顔は、…息をのむほどきれいだった。
「…くく…ここまできてまだ泉水かよ。いい加減学べって」
カイトに見とれていたら、いつの間にか佐東がカイトのすぐ後ろにいた。
カイトは息まで凍り付かせた。カイトの手が、ぎゅう、と僕の袖を握るので、服ごと腕が締め付けられる。
「…泉水さん…!」
強く目を閉じ、下を向いて、カイトが僕のひざに顔をうずめる。その姿を見て、僕は、まるで神に祈りを捧げる信徒のようだと思う。
「おねがい…します…ッ!どうか…やめさせて…!」
ああ!
…なんて可愛いんだ、カイトくん。
まるであの頃の僕にそっくりだ。
この世界は、キミにとって、絶望的に残酷。
「ほうら、捕まえた。」
「っ!」
佐東が面白半分にカイトの背中を後ろから抱きしめる。
そこに、操原に抱えられた時の僕が重なる。
「…やっ…」
佐東に軽々と持ち上げられ、その瞬間、カイトの手はわりと簡単にはずれた。
(ほら、ね?)
いったんは死を覚悟するほどの強い緊張ではりつめていた心が、その直後に絶望という名のさらなる暗闇を味わい、もろくも崩れさったのだ。精神も体力も一気に削げ落ちてしまった。
あとに残るのは、後悔と恐怖だけ。
最後に残されていたわずかな体力すら、さきほどの無意味な逃亡のために使い果たしてしまった。
愚かで可愛い、小さな生きもの。
「ひ…」
佐東に抱えられてベッドを向かされると、ベッドの上の道具を再び目の当たりにしたカイトは息をのんでさらに体を固くした。
「い…っ、泉水…さ…」
「どれがいいか選ばせてやるよ。お前の一番好きな形のでいいぞ。…大丈夫だ。今日はローション使ってやるから。」
佐東が、今度は優しくカイトをベッドに降ろそうとする。
「やだっ…!いやだ…!」
今の彼にとってはそれが精一杯の抵抗なんだろう。カイトはとっさに体を反転し、佐東の首にしがみつく。
「おい。」
佐東の手が伸びてカイトをはがそうとするが、カイトは佐東にぶら下がるようになりながらも、両手で必死に佐東にしがみつき、離れようとしない。
------------→つづく
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