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現在 -15

「そか。…残念だな。」  僕がベッドから降りると佐東はおもむろにカイトを抱きあげ、汚れたシートを少しずつずらしていく。その調子に合わせてシートを端から折り曲げ、たたみながら片づける。  どうせ使い捨てのシートだが、ここまで汚れているとホテル側もさすがに処置に困るだろう。仕方ない。明日、紙袋にでも入れて持ち帰るとするか。  そんなことを考えながら化粧台の上のパソコンを外していると、後ろから、カイトのすすり泣く声が聞こえてきた。  振り返ると、カイトが、ヘッドボードを背にして座っている佐東の腕のなかで小さくうずくまって泣いている。意識が戻ったようだ。  カイトの頭を、佐東が柔らかく撫でている。 「よしよし。泣くな。がんばったなカイト。」  佐東は無責任なことを言っていたが、その表情を見て、やはり僕の心のどこかが波立つ。  悲しいような、悔しいような、それでいて、あたたかくて、嬉しいような。 …この奇妙な感情は、なんだ?  佐東はカイトの髪に顔をうずめると、目を閉じ、 「…お前はもう、俺のものだ。」 とつぶやいた。  小さなカイトは、枯れた声で、震えながらますます泣いた。 「悪いな。俺は、こういう愛し方しかできん。」 (……!)  佐東がそう口にした瞬間、僕の心はさらに強く揺さぶられた。 「どうした?」  僕が突っ立ったまま動かないので、佐東がそれに気づき、僕を見る。 「…いえ。」  ベッドに歩み寄る。 「…カイトくん、ご褒美のミルキー、ここに置いておくね。」  枕元に例の“飴”を置く。佐東は一度興味深げにそれを見たが、カイトに向かって「俺の前でキマった顔とか見せるなよ?」と冗談めいて言っただけだった。  奥の部屋に移り、予備のシートを取り出してベッドに広げてから、メインの部屋より小さめの化粧台で再度パソコンを起動させる。  佐東はタバコをふかしながらベッドの上で携帯をいじっていた。  サイドボードの上にはウィスキーグラスも置かれている。カイトをこれ以上追い詰める気はないようだ。  カイトは佐東の横で、死んだように横たわっている。  タバコを吸い終えると佐東は携帯をサイドボードに置き、一度大きく伸びをしてから頭を2、3度横に振って首を鳴らした。そして一気に酒をあおると、グラスを置いた手でそのまま部屋の電気をすべて落とした。パソコンの画面が暗転する。  暗くなった画面を見つめたまま、僕は、さきほど自分に生じた特異な感情を思い起こす。 ―― 俺は、こういう愛し方しかできん。 …そうだ。  佐東のあの顔を、僕は知っていた。  それまでの、鬼畜そのものの彼が見せる含み笑いとは違う、穏やかな微笑。 …それは、その昔、僕にも向けられたことのある種類のものだった。  あのときは怒りと憎悪の感情しかわかなかったのに。  佐東の、カイトに向けられた顔を見たとたんに、わかってしまった。…その表情の意味が。  相手を思いどおりに動かして自分のものにできたというのに、嬉しいわけではない。満たされているわけでもない。  だが、…ただ、ただ、――…愛おしい。  あの顔と似たような表情を、僕を苦しめたあとの操原もしていた。操原だけじゃない。僕の体を面白がっていじったあとの奴らのなかも、ときおりああいう顔をする人間がいた。  愛情を示すすべを、これしか持たない。  こういった行為でしか、彼らは、愛情を表現することができなかったのだ。  ただの加虐性愛かもしれない。そんな愛し方は間違っている。  しかし、人の正しい愛し方を知らない彼らにとって、確かにそれは、愛情を表現するための唯一の方法だった。 …だが、だからこそ、彼らが“愛される”側にまわることもない。…永久に。  永遠に満たされることのない、愛。 ―― そして、それは、僕も、同じ。  僕は、カイトを通してあの頃の自分を見、佐東の想いに触れたことで、そういった彼らの感情に共鳴出来る自分に気づいたのだ――  やがて、暗くなった画面からは、佐東の寝息が聞こえ始めた。 ―― カサッ…  何かが動く気配。耳を澄ます。 ―― ぺリ、ペリッ…  カイトだ。  飴を、…クスリを、口に入れようとしている。 ――ひっく  泣きながら、絶望のさらなる深淵に、自らを沈めようとしている。 「――…ん」  小さな声。奥歯でクスリを潰したのだ。  サリサリッと、シーツを引っ掻く音がした。あまりの苦味に、たまらなくなったのだろう。 ―― はあっ…  飲み込んだ。  立ち上がり、隣の部屋へ向かう。  ドアを少し開けてほの暗い明かりを部屋にとりこんでから、そっと、カイトのいるほうへ進んだ。  佐東の寝息の後ろを通り過ぎる。よく眠り込んでいるようだ。こうなれば、この男はたいてい朝まで起きない。  カイトが見えない、と思ったら、佐東の胸の中だ。  佐東の腕が巻きついている。その様子はさながら抱き枕のようで、カイトは佐東にくるまれて、腕の奥から、濡れたその大きな瞳でじっと僕を見ていた。 (やっぱり。)  その様子を見て思う。  やはり佐東は、カイトが可愛くて仕方がないのだ。  佐東の、鬼畜らしからない人間的な部分は、カイトに対する満たされることのない愛情で構成されていた。  先ほどはそんなことを期待した自分がおかしくて小さく笑ってしまったのに、今は、そんな佐東の気持ちを身近に感じ、それどころか、佐東に対してあたたかな慈愛の念さえ生じてしまっている。 …僕は、自分のこの急激な意識変化に対して、今度こそ本当に笑いだしそうになってしまった。  カイトの横にしゃがみ込む。  カイトは僕を見たまま動かない。震えながら“そのとき”を待っているようだ。息が浅い。 (―― おいで)  軽く手を伸ばす。カイトはわずかに首を横に振った。  柔らかな髪の毛があごの先をくすぐったのか、佐東の寝息が一瞬やんで、佐東は顔を2、3度、振るように動かした。  カイトはびくっとして、佐東のなかでまた小さくなる。  佐東がため息を吐きながらカイトをさらに強く抱きしめる様が目に映り、そんな佐東を、僕はやはり愛らしいと思えた。 (…ね。楽園に行く前に、きれいにしてあげる。)  カイトはまだ動かない。せっかく眠りについた野獣が目を覚ましてしまうことを恐れているのだろう。信用ならない僕に対する警戒心も、彼の体をこわばらせている。  仕方がないので、無理やり佐東から奪わせてもらうことにする。 ----------------→つづく

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