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第2章②

「――だから、何度も言ってるじゃないですか」  丸橋正枝(まるはしまさえ)は心底困った顔をくしゃくしゃにゆがめた。 「イングリッシュ・ノー。アタシは英語が分からないんですよ! イエスとかグッドくらいならまだしも、それ以外はなんです。アタシがここのお邸で働いているのは、こちらのだんなさまがびっくりするくらいに日本語をお上手にお話しなさるからで……」  正枝は目の前に立つ人物を仰ぎ見る。日本人としても小柄な部類に入る正枝にとって、5フィート8インチ(約174センチ)もある「外人さん」はそれだけで威圧されて逃げ出したくなる相手だ。たとえそれが、52歳の自分より一回り以上若い同性――女性だとしても。  正枝が困り果てているのと同じくらい、こちらの女性も途方に暮れているようだった。額に深いしわの寄ったしかめら面からは、いらだった様子が伝わってくる。もし彼女の知人がこの場にいれば、持ち前の癇癪玉(かんしゃくだま)が破裂寸前であると教えてくれたかもしれない。  それでも、まだ怒りを抑えている方だと言えた。彼女としても、初老の善良そうな女性を怒鳴りつけるのはさすがに気がひけるようだった。 「あの、うそつき男!」  頭に巻いたスカーフに手を伸ばし、彼女はその下の髪をかきむしった。ほつれたひと房が肩に落ちる。その鮮やかな色を目にした正枝は、子どもの頃、田舎で見た元旦の初日の出を思い出した。 「何が『お手伝いさんは英語が話せる』よ! このひと、『電話(telephone)』って言葉すら通じないじゃないの。ああ、もう。ここまで乗ってきたタクシーは帰しちゃったし、一体どうしろっていうのよ」  年齢も国籍も異なる二人の女性が、それぞれの理由で困惑しきっている。  U機関からジープを飛ばし、クリアウォーターが邸の前に到着したのは、まさにそんな時だった。  門から登ってきた赤毛のアメリカ陸軍少佐の存在に、二人はほぼ同時に気づいた。しかし、その顔に浮かんだ表情はまさに対極と言ってよかった。  正枝の方には、救いの神の登場を認めた歓喜が。  そしてスカーフを巻いた女性の方はと言えばーー先ほどまでくすぶっていた怒りが、瞬時に沸点に達した。 「こぉぉらあああ、ダン!!!」  「怒髪天を衝く」という日本語を、クリアウォーターは反射的に思い浮かべた。スカーフの下で彼女の赤毛が、不動明王よろしく逆立っているのが見えそうだ。  そして思った。  互いに三十路を過ぎてなお、自分と彼女の関係は幼少期より変わっていない。変化がないのを喜ぶべきか、一向に成長がないことを嘆くべきか――。  小石を蹴り飛ばしながらやって来た赤毛の女性に、クリアウォーターはため息交じりに言った。 「なんでここにいるんだ、姉さん(スー)?」

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