「――彼女の名前はスザンナ・ミシェル・ハーバー。旧姓はクリアウォーターで……私の三歳年上の姉だ」 　給湯室で淹れたコーヒーにありあわせのビスケットを添えながら、クリアウォーターはそう説明した。聞いていたサンダースは、眼鏡越しに応接室の方を見やった。ドアの向こうにはつい五分前、Ｕ機関の門をくぐったスザンナがソファの上で、弟の用意するコーヒーを待っているはずだった。 「あなたにお姉さんがいらっしゃる話は以前、聞いた覚えがありますが……」 　サンダースは自分が抱いた疑問を、率直に口にした。 「しかし、なんでまた日本に？」 「…その理由を私もぜひ知りたいね」 　うめくようにクリアウォーターはつぶやいた。珍しいな、とサンダースは思った。彼の上官は並大抵のことでは動じないし、たとえ動揺しても滅多なことでそれを表に出さない。 　だがクリアウォーターにとって、姉――弟よりも明るい色調の赤毛と褐色の瞳を持つ長身の女性は、明らかに苦手意識のある相手らしかった。 　 　―ークリアウォーター家の姉弟が、口論交じりの再会を果たした五分後。 　クリアウォーターは姉が持参した荷物一式を邸に運び入れ、最近雇ったばかりの正枝に客室の用意をお願いすると、ジープで走ってきたばかりの道をスザンナと一緒に引き返した。 　英語が通じないお手伝いさんと、日本語をきれいさっぱり忘れた姉を、これ以上二人きりにしておくことは、論外だったからだ。 　Ｕ機関に至る道中、スザンナはまだかっかしていた。しかし――。 「……姉さんにも、非はあるぞ」 　クリアウォーターとしても、いやみの一言くらい言わねば気が済まなかった。 「せめて事前に電話の一本でも入れてくれたらよかったんだ」 「入れたわよ、何回も！」 　たちまちスザンナが言い返してきた。 「昼間はさっきの女の人が出たんでしょうね。こっちが用件を言っても、『Sorry, sorry』ばっかりで、らちが明かない。かといって、夜にかけても誰も出やしないじゃない」 　運転しながら、クリアウォーターは内心、頭をかかえた。正枝は通いのお手伝いさんで、夕方には家族の待つ吉祥寺の自宅に帰ってしまう。そしてクリアウォーターはと言えば、ここ数日、仕事が忙しかった関係で、帰宅する頃にはいずれも夜十時を回っていた。 「だから、わざわざ電報まで打って…」 「分かった。それについては、こちらが悪かった。でもその前に、いくらだって連絡する機会はあっただろう？　大体、いつ出国したんだ」 「三週間くらい前よ。途中でハワイに寄港して、横浜に着いたのがつい昨日。で、今朝は調布に行ってたわ」 「…何をしにそんなところに？」 　弟の問いに、スザンナは再会して以来初めて、笑みを浮かべた。 「占領軍の大尉さんと会ってたの。前にニューヨークの出版社のパーティーで会った人でね。手紙が来て、日本に来る機会があったらぜひ寄ってくれって言ってたから」 　スザンナが風で飛びそうになるスカーフを左手で押さえる。その手をクリアウォーターはちらりと横目で見て、再び前方に視線を戻した。 「実は午前中、この近くまで来てたのよ。その大尉さんの操縦する飛行機でね。あんたの仕事場の上も飛んでたはずよ」 ――そのようなことを話している内に、Ｕ機関の建物に着いてしまい、クリアウォーターは結局、姉の訪日の理由を聞く機会を逸してしまっていた。 　お盆を持とうとするクリアウォーターの顔が、あまりに暗かったからだろう。サンダースが見かねたように言った。 「よろしければ、私がコーヒーを持っていきましょうか」 　部下のありがたい申し出にクリアウォーターは一も二もなく、うなずいた。 　突然現れた姉への対応で、すでに半日分の気力を使い果たした気分だった。 「頼むよ。あと五、六分でいいから話し相手をしてもらえるとありがたい。用事を済ませたら、すぐに交代するから」 　サンダースを送り出した後、クリアウォーターは肩を落とした。せっかくの週末であるが、今夜ばかりは涙をこらえて予定変更せざるを得ない。 　カトウを呼び出して事情を説明すべく、赤毛の少佐は重い足取りで二階への階段を上がって行った。