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第3章②
宿舎に戻った後、カトウは着替えてランニングに出かけた。曙ビルチングの周りは夜ともなれば真っ暗になるが、慣れた道である。五キロの距離を三十分程度で走り、無事に自分の部屋へ戻って来ることができた。
「……まずまずだな」
当初の心配は幸い杞憂に終わり、手も足もほぼ元通りに動かせるようになった。
「せっかくの機会だ。利き腕と同じくらいに、反対側も使えるようになったらいい。いざという時、色々便利だぞ」
アイダの助言を受け入れて、やりはじめたトレーニングの方も順調に進んでいると言ってよかった。自分の身体が前より使い勝手のよいものになっていく。そのことに、カトウは喜びを感じていた。怪我で寝込んでいた時の反動もあるだろう。だがそれ以上に、以前と違って確たる目標があることが大きい。クリアウォーターの役に立ちたい、という目標が。
恋人のことを思い浮かべ、カトウはぽつりとつぶやいた。
「それにしても、お姉さんか…」
クリアウォーターに結婚した姉がいる話は、前に聞いたことがあった。クリアウォーター家の人間で、彼女だけが弟が同性愛者と知った後もそれを受け入れてくれたということも。もっとも、会うのは当然のことだが今回が初めてだった。それも会ったというより、ちらりと姿を見かけたと言った方が正しい。U機関の一階に資料を取りに降りていたカトウは偶然、姉弟が連れだって入ってくるのを見かけたのだ。
スザンナとクリアウォーターは姉弟というだけあって、似たところがいくつもあった。赤毛。背の高さ。くっきりした顔立ちは少し面長だが、おそらく美人と評していいだろう。ただ、全身から発散される空気に、カトウはクリアウォーターにはない威圧感めいたものを感じたが……。
シャワーを浴びて部屋に戻ってきたカトウは、ベッドの上にごろりと横になった。疲れているが、まだ眠るには少々、早い。暇つぶしの材料を探して室内を見渡すと、積み上げられた雑多な本の中にちょうどいいものを見つけた。
引き抜いた本の表紙には、稲妻を背にして断崖の上に立つ男が描かれていた。シルバー・スターというニューヨークにある出版社から刊行されている人気シリーズ、「ブラック・トルネード」の一冊だった。カトウが入院していた時、フェルミとヤコブソンが漫画本を大量に差し入れてくれたが、その内、二人が特に読むことを薦めたのがこの「ブラック・トルネード」シリーズだった。
「これ、本当に面白いんだ。ジョン・ヤコブソンもぼくもファンだけど、ヨハン・ラクスマンが、この漫画すごく好きなんだ」
フェルミはそう熱弁してやまなかった。ヨハンというのが誰か、カトウは知らないが、きっとフェルミの同じ寮の知り合いとかだろう。フェルミはカトウが退院した後も、自分が持っている昔の号を貸し続けてくれている。カトウは壁に背をあずけ、表紙を開いた。
この漫画の存在を知ったのは、日本に来てからだが、フェルミの話によればアメリカが参戦する前の年に、すでに第一号が発売されたという。
「ブラック・トルネード」は同名のヒーローを主人公とする漫画で、彼の本名はテディ(セオドア)・ブラウンという。テディは東部海岸のとある大学で歴史を学ぶ大学生で、類まれな語学の才能を持ち、二十以上の言語を自由自在に話せるが、その外見はどこにでもいる、ぱっとしない青年である。
そんなテディが師事する歴史学の教授のもとに、ある日、「アラル海のほとりで見つかった謎の金属板」が持ち込まれる。テディは教授と協力し、その解読に取りかかるが、あと数語で全文が読み解けるという時に、大学に侵入した暗殺者たちによって教授が殺害されてしまう。彼らはテディも殺そうとするが、あわやというところでテディは板を持って逃げ出すことに成功した。しかし、逃げる内についに大学の屋上へ追いつめられてしまう。
窮地に陥ったその時、テディは板の最後の数語の解読に成功し、その文章を読み上げた。
「私は神の力を得るのと引き替えに、それを善良な人々を邪悪なものから守るために使うと誓う。ナナイよ、私の願いをどうか聞きとどけよ」
その瞬間、金属板にかけられていた封印が解け、テディの前に太古の神ナナイが現れる。そしてテディはナナイによって、風を操り竜巻を起こす力を与えられ、その力で暗殺者たちを吹き飛ばした。テディは地面に叩きつけられて、まだ息のあった暗殺者になぜ教授を殺したかと問いつめる。そこで、暗殺者たちがナチス・ドイツのヒトラーの命令で世界中の「超自然現象を起こす宝物」を探して回っていたことを知る。それを手に入れるためには、人殺しもいとわないことも――。
敬愛する教授の身に起こった悲劇を、繰り返させてはならない。テディはそう決意し、教授の息子で実業家のロナルドの力も借り受け、「ブラック・トルネード」と名乗って世界中でヒトラーの手下たちと対決していくことになるーー。
ーーというのが、話の主な流れだ。
入院中に差し入れられた最初の一冊を読んでから、カトウは何となくこの主人公を気に入っていた。どこがいいと問われると、説明しにくいのだが――ほかのコミック・ヒーローと比べると、ずっと人間くさいのである。卓越した語学力で世界中どんな場所にも行くことができ、神から与えられた超人的な力で強敵を打ち破るのだが、それ以外の面でテディはごく普通の青年だ。
ヒトラーの手先たちの巧妙なわなに、毎回のように引っかかる。自分がドイツ総統から十万マルクの懸賞金をかけられていると知った時に、「それだけ金があれば、父さんに農場を持たせてあげられる」とつぶやく。イタリアで美しい娘とちょっといい仲になりかけるが、結局破局して落ち込む――などなど。
そんな人間的すぎる面は、人によっては「ちょっと情けない」と思われるかもしれない。しかし、カトウのようにそこに魅力を感じる者も多いようで、コミックはすでに二十冊近く発売されていた。
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