26 / 30

第8章③

 機体はそのまま新宿方面へ抜け、南へ転じ、東京の市街地の上を飛んでいった。おそらく麻布のあたりだろう。その先は品川。さらに目をこらすと、東京湾の穏やかな海面が見えた。  つい一時間前まで、カトウは飛行機に乗るなどまっぴらごめんだと思っていた。しかしエンジンの騒音と振動に慣れてくるにつれ、しだいに恐怖も薄まってきた。  と同時に、考えを改めてもいいか、という気分になってきた。 ――空の上には、こんな世界が広がっていた。  飛行機に乗りたがる人間の――飛行機乗りを目指す人間の気持ちが、少しだけ分かった気がした。そんな感傷にひたっていると――。 「気に入った?」  カトウの内心を見透かしたように、ウィンズロウ大尉が聞いてきた。カトウが率直に「はい」と答えると、大尉は風防ゴーグルごしにうれしそうにウィンクした。 「そういうことなら、特別サービスしちゃおうかしら」 「へ?」 「しっかり、つかまってて!」  そう言うなり、ウィンズロウは操縦桿を両手で力強く握りしめた。次の瞬間、胃がひきつるような感覚とともに、機体が大きく左側に傾いた。  たちまち、カトウの身体に満ちていた静かな興奮が、恐怖にとってかわった。  機体が回転し、世界が裏返る。頭が地面の方に、足が反対方向にーーそして、上下が完全に反転した。 「Yeah, whoo!!!」 「〇×▲◎■!!!!」  ウィンズロウの歓声に、言葉にならないカトウの喚き声が重なる。一分ほどそれは続き、突然やんだ。うめき声と共にカトウはえずくと、胃の中身を根こそぎ口から吐き出した。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「………俺、決めました」  飛行場に設けられた格納庫の片隅で、カトウはあおむけにひっくり返ったまま呻いた。 「金輪際、飛行機に乗るのはお断りです」 「…その方がよさそうね」  カトウの無様なあり様を前にして、そばで介抱するスザンナもさすがに反論しなかった。 「まあ。少なくとも、ウィンズロウ大尉はあなたを乗せようとは思わないでしょう」  陸軍航空隊の大尉は今しがた、バケツに雑巾を放り込み、格納庫から出て行ったばかりだ。カトウが吐いた吐瀉物を掃除するためだ。機内を汚されてプリプリしていたが、今回ばかりは、カトウの方にも自責の念は乏しい。  同乗者に断りもなく、曲芸のマネをする向こうが悪い。  しかし機上での出来事をスザンナに話しても、赤毛の女性は不思議そうに首をかしげるばかりだった。 「あたしが初めて乗った時も、三回転くらいしてくれたけど……別になんともなかったわね」 「………」  どうやら三半規管のつくりが、カトウなどとは根本から違うようだった。 「あ、でも……」スザンナは思い出したように言った。 「そういえば、(ダン)も初めて飛行機に乗った時、吐いてたわ」 「いつの話です?」 「アメリカに帰って、すぐくらいの時ね。あいつが、カトウ軍曹(サージャント・カトウ)と同じくらいの身長だったはずだから」  おそらく、クリアウォーターが十代前半の頃だろうと、カトウは当たりをつけた。 「イベントで複葉機に乗せてもらってね。下りてきた時、ニコニコしてたから、楽しんだんだろうって思ったの。そしたら、ちょっと歩いて――いきなり吐いた」 「…大変でしたね」 「まあね。でも今思うと、あいつには昔からそういうところがあったわ」 「……?」  カトウの表情から察したらしい。スザンナは補足した。 「何かあっても、何にもないフリをして、平然と振る舞うところ。それから、他人(ひと)に知られたくない事を自分だけで抱え込んじゃうところ。よくよく考えれば、いくつも予兆はあったのに。父も母もあたしも、(ダン)が自分から言い出さない限り、ついぞ気づけなかった」

ともだちにシェアしよう!