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第38話

 もとより臑に(きず)を持つ身だ。否と言えるわけがない。  帰宅する前に家中の電灯を点けておいてほしい、と天音は江口さんに言い置いてきた。その甲斐あって、もやい綱をほどきながら仰ぐ山荘の窓は、煌々と輝く。  どろりとした暗夜にあって灯台のごときその窓明かりが、湖面にゆらゆらと映る。  天音は舳先側の腰かけ板に、わたしは(とも)側のそこに落ち着いてオールを受け持つ。船首にランタンをぶら下げて、油を流したようにのっぺりして見える湖に漕ぎ出した。  天気は明らかに下り坂だ。べた凪というのか、さざ波ひとつ立たない。  波しぶきを浴びるよりマシだが、汗がにじんで眼鏡がずり落ちる。おまけに、ボートを漕ぐのは学生以来とあって小舟は右に左に傾く。  苦心惨憺、舳先を湖の中心に向け直すたびごとにランタンの明かりも揺れ惑う。  ぎい、ぎいと水を掻く音が闇に吸い込まれる。浮き島のような(あし)の茂みを迂回するさいにオールに不自然な重みが加わって、ひやりとさせられた。  おそらく湖底に藻がはびこっていて、それに引っかかった。日中に漕ぎ渡るのは爽快だろうが、夜間に舟遊びとしゃれ込むのは、酔狂を通り越して無謀だ。  肩ごしに窺えば、桟橋はすでに数十メートル後方にある。今更めいて怖じ気づく。  オールが流される、もしくは小舟そのものが転覆することがあれば、泳いで岸に戻る羽目に陥る。  しかし、そのさい救命胴衣や浮き輪といった備えはない。  山荘は徐々に遠ざかり、その窓明かりは蛍火のごとく、あえかだ。  わたしは背中を反らし、あるいは前かがみになってオールを操りながら、ため息をついた。  やはり予定を早めて明日のうちに帰京しよう。不夜城と呼びたいような都心と違って、深い緑に心を癒やされるここは、執筆に専念するには確かに理想的な環境だ。  だが天音の言動に神経が焼き切れる思いを味わいつつ山荘に留まりつづけることを思えば、里沙のワードロープに占領された自宅で原稿と格闘するほうが遙かに気が楽だ。

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