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第40話
オールは、船縁に固定されてある丸い金具を通して上げ下げする仕組みだ。突然の波にさらわれることがないように、二本まとめて引き寄せて膝の上で交叉させた。
山荘は対岸に遠のき、あたりは漆黒の闇に閉ざされて、ランタンの淡々しい明かりが、いわば唯一の道しるべだ。
小波が、ひたひたと船底を洗う。共通の話題といえば〝里沙〟だが、ここで彼女の子ども時代のエピソードを訊ねるのはわざとらしい気がする。それゆえ天音が黙りこくってしまえば、話の継ぎ穂を失う。
わたしは眼鏡を外し、つるをたたんで開いてかけ直す……それを何度か繰り返した。
だいたい今にもひと雨きそうな空模様で、舟遊びを楽しむには程遠い。後ろ暗いところがあるから拒みきれなかったものの、気乗りがしない、と誘いを突っぱねれば天音は引き下がったはずだ。
かといって、腰かけ板になかば寝そべっている天音と目が合えば、岸に戻ろうと言いだすきっかけが摑めない。
いよいよ蒸し暑く襟足がべたつく。小舟は鬱屈を抱えるわたしと同様にたゆたう。
ため息がこぼれる。そこにいるのが里沙であれば、ふたりの間にぎすぎすしたものが流れても、それを吹き払うのはたやすい。彼女を抱き寄せて朱唇をついばめば、わだかまりはたちどころに溶ける。
わたしは空を仰ぎ、星影を捜して気をまぎらせた。そうこうしているうちに雲が厚みを増してきた。
ぽつり、と雨粒が湖面に波紋を描く。興醒めだな、と呟いて天音は顔をしかめた。起き直るとポットに詰めて持ってきたコーヒーをカップにつぎ分けた。
そして、わたしの手を掌でくるむようにしながらカップを渡してよこした。口角を皮肉げにゆがめて。
「里沙にはオフレコでお願いします。行動派といえば聞こえがいいけれど、夜遊びが大好きな里沙に作家の女房みたいに縁の下の力持ち的な役割が務まるとは、とうてい思えないな」
「彼女は、彼女なりによくやってくれているよ」
肩をすくめてコーヒーをすすった。社交性に富んだ彼女は、編集者の応対ひとつとってもソツがない。
たとえ、このトリックは荒唐無稽か否かと意見を訊ねたときに、生返事で濁されるのが常だとしても。
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