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第42話

 小舟が右に大きくかしぎ、わたしは咄嗟に左にずれてバランスをとった。それでも小舟は危なっかしく右に左に揺れる。オールを押し出し、力いっぱい引いて小舟を水平に戻しにかかった。  悪戦苦闘するわたしを尻目に、天音はこめかみに添わせて両腕をまっすぐ伸ばすと、軽く膝を曲げた。次の瞬間、全身のバネを利かせて船縁を蹴った。  小舟がいま一度、大きく傾いた。瞬時、船尾が浮き上がり、オールが湖面に生じた渦に持っていかれそうになる。わたしは必死になってオールを握り直した。流線形を描く美しい残像が瞼に焼きつき、その直後、水柱があがった。  湖面に波紋が広がり、あぶくが弾ける。漕ぎやめて、目をしばたたくにつれて血の気が引いていく。  天音は飛び込んだのだ。泳げない、と言った舌の根の乾かないうちに、なんという無茶なまねを。  ランタンを引っ摑む。それを掲げて湖面を照らす一方で、目いっぱい身を乗り出した。  天音の姿を求めて目を凝らす。だが、彼は神隠しに遭ったようにかき消え、もがくさまを見いだすどころか、助けを求める声ひとつ聞こえない。  ただ、大小さまざまの泡が浮かんでは消え、それが呼吸にともなうものであることを示す。天音はあそこだ。必ずあのあたりにいる。  祈るような気持ちでランタンを振り動かす。十秒、二十秒……天音は、まだ浮かび上がってこない。まさか手足をばたつかせる暇もなく溺れてしまって、水底(みなそこ)に沈みつつあるというのか。 「天音くん、天音……っ!」  躰が勝手に動きだす。船縁を跨ぐのももどかしく、空中に身を躍らせた。  勢いあまって頭のてっぺんまで、いったん水中に没した。その拍子にずり落ちた眼鏡を指で押しあげるのもそこそこに、両手で水をかき、立ち泳ぎでバランスを取りながら浮上する。  さしあたってバタ足で小舟のぐるりをひと回りしてみれば、Tシャツが上肢に、ジーンズが下肢にまといついて泳ぎにくい。  それ以前に光量がとぼしい。真っ暗闇に近い中で泳ぐことは、磁石を持たずに樹海に分け入ることにもどこか似ていて、原始的な恐怖心を呼び覚ます。

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