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第48話

 濡れそぼったTシャツから湖水の匂いが立ちのぼって、顔をしかめた。煙草を咥えると、フィルターを挟みつけたそこにムースのようにやわらかな唇の感触が甦る。  眼鏡をむしり取って顔をこすった。股間は依然として不様に屹立したままで、ファスナーを下ろすのに手こずった。  やり場のない怒りがとぐろを巻いて、腹の奥がざわざわする。煙草についつい手が伸びて、灰皿は、いくらも経たないうちに吸い殻でいっぱいになった。  もっとも天音に責任をおっかぶせるのは、卑怯だ。わたしは、天音に劣情をもよおしたわたし自身に腹を立て、忸怩たる思いを味わっていた。  と同時に(よこしま)な感情のうねりを扱いあぐねて、それを天音の躰に思う存分にぶつけてやりたい衝動に駆られる。 「里沙に電話をかけて、一応伝えておくか……」  予定を変更して明日、帰ることにした──と。その理由を穿鑿(せんさく)された場合、後ろめたさの裏返しで逆上して、俺の勝手だ、と電話を叩き切ってしまう恐れがあるが。  電話機が置かれているのは一階のリビングルームと天音の私室のみ。どちらを借りるにしても気が重いが、とりあえず腰を上げた。  そこで置き時計が目に入り、座り直す。ヨーロッパとの時差はおよそ七時間。()の地は午後二時ごろで、もともと外出好きの里沙がホテルの部屋でくすぶっているわけがない。  今ごろはベルサイユ宮殿あたりに足を伸ばしているかもしれない。  いや、本音を吐こう。里沙に電話をかけるのは明日に持ち越してもかまわない、と自分を納得させるに足る言い訳をひねり出すことができたことを内心、喜んでいる。  雷が近づいてきた。稲妻が夜空を焦がし、雷鳴が腹に響く。  風も強まってきた。窓を閉め切っているにもかかわらず、カーテンがそよぎ、窓枠がガタガタと鳴る。横殴りの雨が窓ガラスをななめに走り、咆哮をあげるように森の中で葉ずれが高まる。  ぶるり、と全身が震えた。岸に戻るのがもう少し遅れていれば、冗談抜きに三途の川を渡っているところだった。山荘に到着してからこっち、〝天音〟という存在を病根とする不可解な症状に悩まされてきたが、それも、あと数時間の辛抱だ。  東京と、この山荘は優に数百キロは離れている。天音と二度とふたりきりになることがないように気をつけておきさえいれば、今夜の出来事はそのうち記憶の底に沈む。  明け方、機銃掃射を思わせるすさまじい雨音に眠りを破られた。カーテンをめくってみると、外は嵐の様相を呈していた。  篠突く雨に湖水は濁り、引きむしられた木の葉が庭中に散乱していた。

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