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第6章 非売品

 幹周りが、ふた抱えもある椎の木が無残に()ち割られていた。  台風が猛威をふるった翌日、うってかわって青空が広がった。しかし、台風の爪痕はすさまじいものがある。峠道は通行止め。電話線が切れたことも相まって、山荘から外部に連絡をとる術がない。  数日前に天音に案内されたそこは、彼曰く〝心のオアシス〟。ブナの切り株はふわりと苔むし、往く夏を惜しむように蝉時雨がかまびすしい。  森の中の秘密基地というおもむきがあるが、様相は一変していた。  雷にやられた大木の断面は、嵐が治まって数時間が経過しても未だに、ぶすぶすと(いぶ)っていた。周囲の下草は黒焦げになって、小川のせせらぎは灰褐色に濁っていた。  「きみのとっておきの場所が、見る影もないな」  「何度注意すれば憶えてくださるのですか? 今度『きみ』と呼んだら罰金を徴収しますよ」  こういうやり方で、と頬をついばんでくる。そんな可愛い一面に接すると、萌むものがある。  居間から寝室に場所を移してベッドで、コーヒー豆を煎るさいの腰つきにそそられて台所で、白濁をかき出してやりながら浴室で──というぐあいに所かまわず、しかも夜通し、まぐわった後にもかかわらず。  わたしは眼鏡をひと撫でした。額に手を翳して空を仰ぐと、ため息をついた。 「いつ道路が復旧するのかメドが知りたいが、電話が駄目じゃ役所に問い合わせることすらできないな」 「しばらく籠城しても大丈夫なくらい食料の備蓄はありますし、焦ることはありません……でも」  天音は山百合の葉っぱをむしった。木洩れ陽がモザイク模様を描くなかで、その姿はかよわげに見えた。 「復旧工事がすめば晶彦さんは帰ってしまう。そうすると、おれはまた独りぼっち……まあ、客間の壁がヤニで黄ばむ前に気楽な独り暮らしに戻れて、せいせいしますけれど」  諦念と憂愁が入り混じっているような笑みが、口許にあえかに()かれた。  胸が、つきりと痛む。会いにくる、東京の実家に顔を出しがてら俺に会いにおいで──口を引き結んで言葉を飲み込む。  天音と今後も密会を愉しむ心づもりがあると、その旨、言質(げんち)をとられかねないことは言えない。わたしは、あくまで里沙の夫であり、天音の義兄だ。ずるい男と(そし)られようが、断じてそのスタンスを崩してはいけない。  魔が差したのだ。昨日の出来事は、いわゆる〝避暑地の恋〟にすぎない。

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