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第66話

 それを肝に銘じてケジメをつけておかなければ近い将来、必ずやのっぴきならない事態に陥る。  前髪が右から左にそよぐ。天音から数メートル左に離れた川べりにしゃがんで、煙草を咥えた。ところがマッチを擦るまぎわに天音がやってきて、煙草をかっさらっていく。入れ替わりに唇を触れ合わせてくると、腹をさすってみせた。 「おなかが、すきませんか。おれは腹ぺこです。江口さんは当分、来られないでしょうし、食生活が貧しいものになるか否かは晶彦さんの腕前にかかってますからね」 「レパートリーは少ない。野菜炒め、カレー、親子丼の繰り返しになるが文句は言うなよ」  憮然と応じると、ひと呼吸おいて、澄んだ笑い声がこだました。  それにしても見事なまでの台風一過だ。夏草が甘い香りを放ち、川面がきらめく。外界から隔絶された森の中で、こうして天音と陽光のシャワーを浴びていると、自宅のある東京は実際の距離以上に遠く感じられる。  ディペロッパーが幅を利かせた結果、風情のある街並は高層ビルに取って代わられて、一主婦も血眼になってマネーゲームに明け暮れる──そんな殺伐とした東京に戻るのが、嫌になってきた。  ふと、夢想する。いっそのこと山荘を(つい)の棲家と定めてしまいたい──と。    わたしはミステリの概念に囚われない小説を書く。天音はその横で、ビスクドール作りに励む。黄昏時には湖畔をそぞろ歩き、暖炉のそばで語り明かす。  四季折々にその表情を豊かに変える森の懐に抱かれた山荘で、ままごとのような日々を重ねる……。  馬鹿な、と自嘲気味に嗤って眼鏡を押しあげた。里沙を捨てて彼女の弟に乗り換えるなど、想像するだに愚かしい。一時の気の迷いで一生を棒に振ってもかまわない、というほど天音に惚れたとでもいうのか?   ……まさか。その躰を味わって情が移っただけだ、それを履き違えるな。  と、眉間を人差し指でつつかれた。 「すごい皺、癖づくと老けて見えますよ……そうだ、いい物を持ってきたんです。やりましょう」  天音はポケットから線香花火をひと束、いそいそと取り出した。 「ガキじゃあるまいし、夜まで待ちなさい。真っ昼間にやっても意味がないぞ」  そらとぼけて束をほぐすので、マッチを渡した。だが案の定、松葉、牡丹、枝垂れ柳、散り菊……と、とりどりに姿を変えゆくはずの花は光にまぎれてしまう。  じじじ、と火の珠が爆ぜるさまが、かろうじて葉むらに映る程度だ。

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