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第4話

 春先のキャンパスは、どこもそわそわと浮ついた空気が漂っている。  まだ慣れない様子でうろつく新入生と、サークル勧誘に勤しむ在学生。約一ヶ月ほどは続くそれを見るともなしに眺めながら、陸は昼どきの校内をコンビニ袋を片手に歩いていた。 「兄貴ッ」  いつものように研究室へ向かおうとしていた足が、大きく呼ぶ声に止められる。聞こえなかったふりをして行ってしまいたかったが、この距離ならすぐに追いつかれるだろう。かと言って、走って逃げるほどの理由もない。  仕方なく声のした方に顔を向けると、勧誘を受けていたらしい佳が学生に断りを入れてからこちらに駆け寄ってくる。 「こんな所にいたのかよ。相変わらず既読スルーだし電話にも出ねぇから、あちこち走り回ったじゃん。しっかし、ほんと広いよなぁ。迷子になっちまう」 「何のようだ」 「昼飯一緒に食おうぜ。ついでに色々と案内してくれよ」  どこまでも無視をする兄を相手に、屈託なく笑いかける佳の顔を真っ直ぐに見られない。忙しいと断ることは簡単だ。それなのに、端末越しではいくらでも切り捨てることのできる弟の手が、面と向かうと振り払えない。 「分かった。一番近くの食堂でいいな。そこ以外は他の友人とでもまわれ。俺は昼休みをゆっくりとっている余裕はない」  脳裏にチラつく母の面影を追いやると、今回だけだと釘を刺してからはしゃぐ佳と食堂へ向かうことを選択する。  こんなにも広大なキャンパスで、自分の選んだ学部と弟の選んだ学部が隣接しているのは何の冗談だろう。不義理な兄など放って大学生活を満喫すれば良いものを、交友関係にそつがない故に構ってくる弟が煩わしい。 「暁人とはキャンパス離れてるんだな。医学部とか、彼奴めちゃくちゃ頭良いじゃん。地元で就職したら先生様になる訳だし、気をつけよ」 「梶のお坊ちゃんが医学部以外の何処に行くんだ」 「そりゃそうなんだけどさ、噂は聞いても顔見て即わかるほどお坊ちゃんのことなんて知らねぇって。なあ、いつから付き合ってたの?」 「俺が大学に入ってから」 「じゃあ暁人が高校の頃からじゃん。それより前から知り合いだったてことだろ。うわ、全然気がつかなかった。お袋たちは知って……るわけねぇか」  気まずそうに笑う佳に、罪がないのは本当だ。教師の父と専業主婦の母。子どもは大人しい長男の陸と、やんちゃで明るい次男の佳。珍しくもない、どこにでも居る平凡な家族。  そう、例えば父親が何処か冷めた目で家族を見ていることも、母親の愛情が弟に多く注がれていることも、ありふれた家族のひとつの姿に過ぎない。偏った両親の愛に苦しむのは、どちらか一人だけというものでもない。 「母さんには、ちゃんと連絡しておいたか」 「うん。兄貴が先に知らせておいてくれたから、渋々っぽかったけど許してくれた。サンキューな。あ、今日はそのお礼。好きなもの頼んでくれて良いんだぜ」 「居候しないとやっていけない奴に奢られてもな」 「そ、そこを突かれると辛ぇ。いや、さすがに学食メニューくらいは奢れるって」  久しぶりに交わした兄弟らしい会話に、陸の口元も自然と緩む。それを目ざとく見つけた佳が、嬉しいと全身で訴えるような笑顔を見せた。  親の扱いを否定するように、佳は兄を過剰なまでに慕ってくれている。そして彼のそうした態度が、結果的に両親から陸を遠ざける。  小さな弟が生まれてからずっと繰り返されてきた日常。二人の兄弟の絆は、ひどく歪で捻れていた。  もつれた糸を解く努力は、聡介に離れの鍵を与えられてから次第にしなくなっていた。心の逃げ場があること、そして何よりも、趣味に過ぎなかった古生物学を、学問として研究することへの道筋を明確に示してくれる恩師との出会いが、陸の人生を一気に塗り替えたのだ。  聡介の居るこの大学に入ることができて、毎日を好きなものにだけ囲まれる日々は、二十年ほどの陸の人生の中で一番幸せな時間だった。  佳が現れなければ、もう自分を疎むだけの家族のことなど忘れられたのにと、また暗い思考が頭を掠めてしまう。 「あ、あそこだろ。人が集まってるからすぐに分かる。少し出遅れたけど、席空いてるかなぁ」 「待っていればどこか空く。迷子になるなよ」 「はいはい。たく、俺を幾つだと思ってんの」 「まだ未成年のガキだと思ってる」 「ぐぬぬ」  それでも、口を開けば研究室の仲間たちと変わらない、いやある意味ではそれ以上に気安く口をきいてしまう。まるで身体に染み付いているように、自然と先回りをして弟の面倒を見てしまう。 「で、兄貴一番のおすすめはどれ。やっぱり本日のランチ?」  ボリュームたっぷりかつ格安な日替わりランチの見本を見ている佳に、こっちと別のメニューを指差す。  大学の食堂といえば、まず最初に口にしておくべき一品はこれだろう。いやむしろ、何処の店に行っても注文すべき、安くて美味くて早く出てくる定番の国民食だ。  定番すぎる故に期待外れだったのか、えーと言いながら眉尻を下げる佳を無視すると、陸は混雑している食堂へのドアを潜った。

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