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第6話

 静かなはずの屋内から聞こえてきた甲高い罵声に、陸は鍵を開けかけていた手を慌てて止めた。  山荘のような雰囲気を持つ梶家の離れは、母屋とはかなりの距離を取った独立した建物だ。戦前に建てられたときく家屋は一部が洋館になっており、そこが聡介の書斎になっている。  小さな公立中学に大学教授が訪れてくれたのは、地元の古生物好きを増やすことに貢献したいという聡介自身の活動によるものだ。昔から化石が好きで地学部に入っていた陸は、すぐに変わり者と言われる坊ちゃん先生と意気投合した。  中学二年になる前の春休み、聡介は何度か連れてきてくれていた離れの鍵を陸に渡してくれた。自分が不在の時も好きに使いなさいと言われ、甘えるまま放課後を静かな離れで過ごすようになって数ヶ月経った頃、陸は彼と初めて出会うことになった。 「なにこれ。どうやったら取れるんだよ、くそッ」  鍵をポケットに戻し、庭という名の雑木の林から裏手にこっそりと回る。声の主が居るのは、井戸の近くにある台所のようだ。開いたままになっていた木戸から中を覗くと、まだ小学生くらいの細身の少年が、手に持ったガラス瓶を土間の床で叩き割ろうと振りかぶっていた。 「お、おい、危ないだろう」 「わっ、何するんだよ」  思わず止めに入った陸が瓶を取り上げると、返せと少年が睨みつけてきた。古い家屋特有の薄暗く湿った空間で、明るい茶色の目が陽の光を吸い込んで橙色に輝いてみえる。 「君、どこの子?」 「アンタこそ誰。ここ、俺ん家の敷地だよ」 「え、てことは、もしかして梶先生の息子さん。ええと、先生に古生物学を教えていただいているM中学地学部の学生で、鹿嶋陸と言います。先生にはいつもお世話になっていて」 「そんな話どうでもいい。ね、中学生ならさ、その瓶割ってビー玉を取ってよ」 「ビー、玉」  せっつく少年が指差すガラス瓶を改めて見ると、それは聡介が好んで冷蔵庫にストックしているラムネの瓶だった。  ペットボトルタイプではなく、今では入手困難なオールガラスボトル。瓶でなければ美味しくないと、聡介がわざわざ東京の知人に購入してもらっている品物だ。割るだなんてとんでもないと、慌てて空になっている瓶を背中の後ろに隠す。 「この瓶はメーカーに返さないといけないものだから、割ったら駄目なんだ」 「何それ、それじゃあビー玉取れないじゃん」 「ビー玉が欲しいなら、そこら辺のスーパーでプラスチックボトルのを買え。オールガラスの瓶はもう国内でも作れない貴重品だぞ」 「え、そうなの。ガラス瓶なんていくらでも作れるんじゃないの」 「この瓶を作る機械そのものが無いんだ。今ある瓶がなくなったら、もうこのラムネは作れない」  聡介からの受け売りを彼の息子に向かって訴えると、ふうんと言ってから少年は素直に引き下がった。改めて見ると、明るい茶色のくせ髪が聡介とよく似ている。 「じゃあいいや、別にビー玉とかいらないし。あ、陸も飲む?」 「り、陸って」 「間違えてたかな、それならゴメン。はい、どうぞ」 「いや、合ってるけど」 「俺は梶暁人、小五。父がお世話になってます」  差し出された青いガラス瓶はよく冷えていて、すでに薄っすらと汗をかいていた。濡れた感触のそれを受け取りながら、三歳年上の相手を呼び捨てにする少年に呆気にとられる。 「ちぇ、取れないとなると、すっごく良いものに見えるんだよなぁ」  とっくにこちらに興味をなくしたらしい子どもは、交換と言って取り戻した瓶をひっくり返したり覗き込んだりしている。閉じ込められたビー玉がカラコロと涼しげな音を立ててる中、少年は飽きることなく空っぽの中身を眺めていた。  割り入れたカレールーが、肉と野菜を煮込んだスープの中でゆっくりと崩れていく。  カレー粉から作ろうという佳の意見を無視して購入したルーは、特に拘りも好みもない値段だけで選んだ代物だ。カレー以外の何者でもない、しかし安いレトルト特有の個性がない香りが、狭いLDKの中に立ち込める。 「よし、カレー用特製ミニコロッケの出来上がり」  二つあるコンロで並んで揚げ物をしていた佳が、最後の一つを菜箸で摘み上げる。小ぶりなボールのようなコロッケは、こんがりと丁度良いキツネ色だ。  ここに至るまでの下ごしらえから何から、佳の動きは手際が良く、出来上がった品も形がきちんと揃っていて美しい。弟の腕前なら、確かに粉から作ったとしても上手くいきそうだ。 「うわ、カレー旨そう。しかし暁人の奴、既読スルーかよ。返事くらいよこせよな」  揚げ終わったコロッケを冷ます傍、返信のない端末を操作していた佳が不満げに呟く。弟のそんな姿に、ほんの少しだけ溜飲が下がる自分が情けなかった。  新しい出会いが多いこの季節、暁人と連絡が取りにくくなるのはいつもの事だ。一緒に暮らし始めた最初の春だって、彼がまめに帰ってきたのは最初の二週間ほどだけだった。 「昼間に会った時には、今日は帰るってちゃんと約束したのに」 「暁人に、会ったのか?」 「うん。俺、薬学だしさ、一度くらいは医学部のキャンパス見ておくのも良いかと思って。案内してくれって頼んだら、女子大生両脇に抱えて現れるんだぜ。彼奴、兄貴というものがありながら本当にとんでもねぇな」 「……ほら、もう出来たから皿持ってこい。暁人を待っていたら朝になるぞ」  周知の事実を改めて突きつけられ、話を聞いているのも嫌で強引に打ち切る。手料理を作るから早く帰って来いだなんて、そんな面倒くさい、鬱陶しい誘いに暁人が応じるはずがない。  そこまで考えた次の瞬間、玄関の鍵が開けられる音がした。驚いて顔を上げた陸の横を、佳が暁人だと叫んですり抜けていく。 「お帰り、暁人。遅かったじゃねぇか」 「ゴメン、ゴメン。佳と違って俺は、忙しい医学生さまなのだよ。でもちゃんと約束は守っただろう。うん、カレーのいい匂いしてるなぁ」 「だろう。早く手洗ってこいよ。兄貴、暁人が帰ったぜ」 「あ、ああ」  足取りも軽く食器の準備を始める佳になんとか返事をすると、短い廊下につながるドアから暁人が入ってきた。鍋の前に立つ陸と目が合うと、童顔の可愛らしい顔がにこりと笑う。 「ただいま、陸」 「……おかえり」

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