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第8話

 暁人と暮らしていたマンションを出てしばらく、大学近辺のネットカフェを渡り歩きながら新しい部屋を探す日が続いた。  出て行くことを考えてはいたが、奨学生が払える家賃での物件は年度の変わり目でもないと中々空きが出ない。 「陸くん、暁人と住むのやめたって本当かい?」  放浪生活にすっかり疲れてきた頃、聡介が眼鏡の奥の目をまん丸にしてそう尋ねてきた。はいと素直に答えて、別れましたとも伝えると、深いため息をついて恩師が頭を抱えてしまう。 「あの、先生にお気遣いいただくことはありませんから」 「違うよ。君ねえ、あのバカ息子に押し切られて、僕が紹介したアパート出ちゃったんでしょう。近ごろなんかやつれてきたなと思ってたけど、今どこで寝泊りしてるの」 「ええと、ネットカフェを転々と」 「そういう事はもっと早く相談しなさいッ」  いつも穏やかな人の怒鳴り声に、びっくりするとともに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。すみませんと重ねて謝ると、困ったような顔で頭を撫でられた。 「大きな声を出したりしてごめんね。でもネットカフェは駄目だよ。とりあえず部屋が見つかるまで、僕の所に来なさい。陸くん一人が転がり込むくらい、なんて事ないから」 「でも、先生にご迷惑をかけるのは」 「このまま難民される方が、よっぽど僕の心臓に悪い。荷物はネットカフェに置いているのかい」 「いえ、コインロッカーです。すみません、なるべく早く部屋を見つけます」 「いいから、いいから。春まで条件の良い物件なんて空かないよ。知り合いにも頼んでおくから、のんびりと探そう。気になるなら、だらしないおじさんの家政婦でもしてもらえると助かるな」 「それは、喜んで」 「よし、そうと決まれば今日は早めに切り上げて、必要なものを買い揃えに行こう」  明るい笑顔でそう言ってくれる恩師に、申し訳なさと同時に嬉しくて泣きたくなった。何処にも行くところがない。暗くて狭い仮初の空間で過ごす度に、じくじくと膿んで痛んでいた傷が癒されていく。  家族の中に居場所を求めてもがいていた学生時代、陸に手を差し伸べてくれたのは聡介だった。あくまで同じ古生物を愛する仲間として、学生と教師として、付かず離れずの距離を保ちながらも、聡介は両親よりも温かい手で支え続けてくれた。 「先生、ありがとうございます」  いくら感謝しても仕切れない感情を、不器用なだけのひと言に乗せる。それに分かったように微笑んでくれる聡介が、こんな自分を気にかけてくれる人がいる事実が、ただ嬉しくて胸が熱くなった。  これまでのことが嘘のように、聡介の元に身を寄せてからの陸の時間はゆったりと過ぎていた。  詳細を話した訳ではないが、何となく察しているらしい恩師は、陸に自宅でできる仕事を多く割り振ってくれる。不定期に研究室に通いながら、せめてもと家事にも精を出す毎日。聡介が居る空間は、何処もあの離れに通じているように穏やかで静かだった。 「いつ帰ってくるの?」  うっとおしい梅雨が明けた夏空の下。煩いばかりのアブラゼミの声が鳴り響くある日、研究室への通り道に暁人が立っていた。  あの日、最後の繋がりが切れたと感じた瞬間から約一ヶ月。思い出ごと捨てるつもりで買い替えた端末の新しい番号は、聡介にしか教えていない。 「陸、いつ帰るのかって聞いているんだけど」 「もう帰るつもりはない」  真っ直ぐに此方を見つめる暁人の目には、手酷く人を裏切った人間の後ろめたさは微塵も感じられなかった。  だがどんなに彼にとってはその他大勢と変わらなくても、ほんの遊びのつもりの行為であったとしても、自分たちが使っていたベッドで彼と弟がセックスに興じた事実は変わらない。暁人が忘れて離れてしまっても、陸と佳の間には永遠に血縁という鎖が付き纏う。 「俺は、自分の気持ちは伝えていた。裏切ったのはお前たちだ。しばらく、顔を見たくない」  もう永久にと心の中でだけ呟くと、少し離れた建物の影で佳が動くのが分かった。その見知った気配に、今すぐ殴りつけて唾を吐きかけてやりたい衝動だけがあった。

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